第57話 踊念仏への風当たり




 閑話休題。


「踊念仏」は、わたくしたち時衆が独自に編み出したものではなく、「市の聖」と慕われた空也上人さまがすでに開始されていたことは先述いたしましたが、ほかにも踊りや楽曲を念仏に取り入れた先達がいらっしゃいました。


 そのおひとりが「大原の上人」こと良忍さまでございます。


 良忍さまは、正統的な天台称名の念仏和讃に、雅楽をはじめとする唐や印度伝来の梵唄ぼんばいに至るまでの、多様な楽曲を取りこまれました。


 また、かつて一遍上人さまは京の萱堂聖かやどうひじり(高野聖のひとつ)の集落で、銅鼓や鉦、四竹よつたけ、ささらなどの楽器類から皿や小鉢までを打ち鳴らし、飛んだり跳ねたりして念仏を称えている様子をかいま見られたそうにございます。


 ですから、わたくしたちが自然発生的に開始した「踊念仏」がとくに珍しかったわけではございませんが、のちの世においては、時宗の飛躍的な発展の因は、一に佐久・伴野荘を舞台とする「踊念仏」にあると言われているそうでございますね。


 ついでに申し上げておけば、たまたまわたくしが踊り始め、全国各地に敷衍ふえんすることになる「踊念仏」は、当時の社会から諸手を挙げて支持されたわけではございません。その影響が大きければ反発もまた激しいことを思い知らされることになりました。その一例として、公卿歌人・藤原有房さまによる『野守鏡のもりかがみ』の一節をご紹介いたしましょう。

 

 ――一遍坊といひし僧、念仏義をあやまりて踊躍歓喜といふは、をどるべき心なりとて、頭をふり足をあげてをどるもて念仏の行義としつ。また、直心即浄土なりといふ文につきて、よろづいつはりてすべからずとて、はだかになれども、見苦しきところをもかくさず、ひとえに狂人のごとくにしてにくしと思ふ人をば、はばかる所なく放言して、これをゆかしくたふとき正直のいたりなりとて、貴賤こぞりてあつまりし事、さかりなる市にもなほこえたり。


 

 また、絵巻物『天狗草紙てんぐぞうし』にも過激な非難が掲載されました。

 

 ――(天狗長老一遍房の仕業)馬衣をきて、衣のもすそをつけず、念仏する時は頭をふり肩をゆりてをどること、野馬のごとし。さわがしきこと、山猿にことならず、男女の根をかくすことなし、食物をつかみ喰ひ、不当をこのむありさま、さながら、畜生道の果因とみる。

 

      *

 

 それはさておきまして。


 一遍上人さまご往生の10年後に完成した『一遍聖絵』の佐久伴野荘の場面に、念仏房さまのお名前は記されておりますのに、わたくしにつきましてはそれらしき姿が描かれているのみで、超一房の名は見当たらないそうでございますが、本当でございましょうか。それが事実とすれば、わたくしは聖戒さまとの業の深さを思わずにいられません。


 一遍上人さまの腹違いの弟でいらしゃいます聖戒さまは、幼少のころ上人さまのお導きで出家され、一番弟子として献身的にお仕えしてまいられました。面映ゆいことではございますが、兄嫁であるわたくしにも、年頃の少年にありがちな思慕をお寄せくださいました。


 その聖戒さまが、ご自分のご生母の名前を明記しながら、なにゆえにわたくしの名を省かれたのか、その理由を解明するのは恐ろしいことに思えてなりませんが、一遍上人さま、わたくし、弟にして一番弟子でもあられた聖戒さま、3人のあいだには、濃密にして複雑な感情が交錯していたことはたしかな事実でございます。

 

      *

 

 佐久を発った一行がつぎに向かったのは伊那の羽広はびろでございました。


 信濃でも南部に位置する山間の村には、通末さまと同じく承久の乱で配流され、そのまま斬首となった通政さま(上人さまの伯父)が眠っておいででございます。


 深い雪の山道をかき分けかき分け、ようやく粗末なお墓を探し当てた上人さまは、さびしい異郷に取り残されたご菩提を、ねんごろにお弔いになられました。


 佐久での帰依者が加わり、時衆は22人(尼は8人)になっておりました。

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