第23話 下根ゆえの遊行への決意
――
悟りを得た上人さまが菅生の岩屋を降り、別府の屋敷にもどって来られたとき、千都さまと9歳の節子さま、わたくしと8歳の菜々は揃って大喜びいたしました。
なれど、手を取り合って再会を祝し合ったのも束の間、千都さま母子に向けられる上人さまの慈しみは、わたくしの内の妬心を呼び覚まさずにおきませんでした。
煩悩はたちまち憎しみに変容し、碁盤の上で闘う蛇になったのでございます。
――人間は一日のうちに何度でも、菩薩になったり悪魔になったり、絶え間なく変化する。善悪両面を併せ持つ存在である。
凡愚中の凡愚のこの身が、釈尊のお言葉の例外であろうはずがございません。
久しぶりの夜、上人さまはどちらの
果たして。
上人さまはどちらもお選びになりませんでした。
聖戒さまのみをお連れになって静かに別室に引き取られる上人さまと、うっすら豊頬を染め、大きな二皮目を伏せ加減にしてあとを追う聖戒少年の背を、わたくしは、いえ、おそらくは物陰から千都さまも、黙って見送るしかありませんでした。
*
湯を浴びて身を浄め、法衣も真新しいものに着替えられた上人さまが、千都さまとわたくしを呼ばれたのは、つぎの朝、夜も明けやらぬうちのことでございます。
「わしは今日限り、
上人さまに申し渡されたとき、千都さまのお顔が雪のように白くなりました。
わたくしも同様であったのでしょう、両の指先から、さっと音を立てて血が引いてゆくのがわかりました。このまま気を失ってしまえたら……本気で願いました。
節子さまと菜々も駆けつけて、母親たちのただならぬ様子に怯えております。
再出家といっても、気が済むまで修行を積まれたら、もどって来られるだろう。
なんといっても、ご自分の血を分けた、かわいい娘たちが待っているのだから。
怜悧な反面、人一倍の子煩悩でいらした上人さまのお情けに
わたくしたちは泣きながら「なにゆえさような酷いことを……」と訴えました。
横に聖戒さまを控えさせた上人さまは、ふたりの妻に粛々と申し渡されました。
――下根のゆえじゃ。
「ひとえに下根のゆえじゃ。わしは下根の者ゆえ、このままわぬしらとの暮らしをつづければ、自分自身はもちろん、衆生も救うことはできぬ、そう悟ったのじゃ」
「わしがもし、浄らかに女人を遠ざけられた法然上人さまや、妻帯されてなお仏道を極められた親鸞聖人さまのような上根であったならば、このような決意をせずに済むのじゃが……明らかな堕落の道を進むことはどうしてもできぬ。どうか許せ」
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