第21話 弘法大師と同様の奇瑞





 その危険な岩穴から一歩も出ることなく、秋から冬へ、さらに春へと半年を過ごされた上人さまが、ついに悟りを開かれたと知ったとき、わたくしの胸を、かつて感じたことのない熱いものが奔り抜けました。そして、叫ぶように思いました。

 

 ――わが夫のご覚悟や、天晴れ!

 

 正直に申しますと、それまでのわたくしは、おのれの名誉や栄達のために妻子を捨てる、冷酷非道にして身勝手な男だと、ひそかに上人さまを恨んでおりました。


 なれど、髪も髭も爪も伸びるに任せ、垢にまみれ、頬骨も頭も鋭く尖り、それでもひたすら念仏を唱えつづけ、とうとう悟りをわがものとされた、その尊い事実を聖戒さまからお聞きしたとき、我執にとらわれた怨嗟えんさの情は、わたくしのなかからきれいに消え失せておりました。


 はい、さようでございます。

 信濃国・善光寺の「二河白道図」で浄土への道を模索された上人さまは、菅生の岩屋で苛烈な修行を積まれるうち、浄土を疑似体験なさったにちがいありません。


 この岩屋はまた、伊予の隣国・讃岐国ご出身の弘法大師さまが籠もられた霊場でもございまして、行者修行の際のお心持ちをお歌に詠まれていらっしゃいます。


  ――谷ふかき岸の朝霧海に似て 松風吹く風を波にたたえん

  

 その弘法大師さまが室戸岬の洞窟に籠られたとき、天から降って来た明星が衝撃音とともに口中に飛びこんだという逸話が語り継がれておりますが、ご自身の内面と対峙された上人さまもまた、そのような奇瑞きずいを体現されたのやもしれぬ、いや、きっとそうにちがいない、素直に信じられるわたくしになっておりました。


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