第11話 常世の信濃・善光寺





 こうして屋敷を発ったあの方は、まず、九州・太宰府に旧師・聖達上人を訪ね、9年ぶりに再会した師から信濃・善光寺への参詣を勧められたのでございます。


 善光寺のご本尊・一光三尊阿弥陀如来さまは、欽明天皇の御代みよ百済くだらの聖明王から朝廷に献呈された倭の国初の仏像でございますが、畏れ多いことに、過激な排仏派によって難波の堀に打ち捨てられていたところを、推古天皇の命を受けた本田善光(善光寺の名の由来)が信濃・伊那に運んだという逸話が伝えられております。


 そのころ、海の向こうからの渡来仏が、古くからの民間・山岳信仰と結びつき、浄土思想の象徴的存在になっていた善光寺は、各地にある熊野神社と同じく、常世とこよ(黄泉の国)そのものであると見なされておりました。したがいまして、善光寺への参詣は、生きながら浄土へ足を踏み入れることを意味していたのでございます。

 

 善光寺には妻土衆つまどしゅうと呼ばれる僧の一団がおられまして、集団で外陣の塔頭たっちゅうに起居しながらお札を売り歩いたり、仏事や祭礼の音曲の演奏、戦死者の収容や供養などを業としておられましたが、あの方はそこに泊めていただき、その多彩で精力的な活動ぶりをつぶさに観察する貴重な機会を得られました。

 

 のちにあの方が編み出された念仏賦算活動は、このとき間近にした妻土衆によるご本尊の御印文(極楽浄土保証の札)の配布活動に着想を得たものでございます。

 

 ついでに申し上げますと、この時代以降、善光寺は武士の信仰を集めるようになりました。源平合戦の余波で荒廃した同寺を再建した源頼朝さまはご自身でも参拝しておられますし、その夫人の北条政子さまもまた善光寺に深く帰依されました。


 御家人と呼ばれる武士は人を殺めるのが仕事。なれど、武士もまた人の子ゆえ、現世の罪に怯え、仏教に救いを求めた。死してのちに地獄に堕ちたくない一心で、よろずの衆生を救ってくれるという善光寺信仰にお縋りしたのでございましょう。


     *

 

 ちなみに。

 のちの戦国と呼ばれる時代、つぎのような逸話が生まれたそうにございます。


 太閤秀吉公が没したあと、幼い世継ぎ・秀頼さまの傅役もりやくをつとめた前田利家さまが病床に伏し、いよいよご臨終というとき、夫の極楽浄土を願う松子夫人がお手製の経帷子きょうかたびら(僧の衣装を模した死装束)を着せかけようとなさいましたところ、利家さまは穏やかに微笑まれ、こう仰せになられたとか。

「奥よ、かたじけない。たしかにわしは、武士としての生涯のなかで数多の命を奪って来たが、ひとりとしてゆえなく苦しめた覚えはないゆえ、案ずるに及ばず」

 

 そして、利家さまがお亡くなりになると、家族や親戚、重臣らの申し出を断った松子夫人は、たったひとりで夫の遺体の湯かんを遂げられたそうにございます。


 夫に先立ったわたくしには、願っても適わないこと。

 まことにもって、おうらやましい限りにございます。


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