第10話 上人の再出家と別れの膳





 話は変わります。


 先述の、燈明皿の荏胡麻えごま油の匂う夜の闇討ち事件から何日かして……。

 千都さまとわたくしを呼ばれたあの方は、改まった口調で切り出されました。


「わしはやはり、仏の道に生きようと思う。すまぬが、わぬしらとは離別する」


 驚きのあまりわたくしと千都さまは顔を見合わせ、ぶるぶると戦慄おののきました。

 ふたりも子どもがいるのに、そんな身勝手なことが許されるものでしょうか。


 怒りが込み上げて来て、口々に抗議いたしました。

 ですが、わたくしはどこかで諦めてもおりました。

 一度言い出したら聞かないのがあの方でございます。

 今度もきっと自分の思うようになさるにちがいない。


 どこまでもおとなしくて従順な千都さまと、気性の勝ったわたくし、ふたりが泣きやむのを待って、あの方は諄々じゅんじゅんと双方に言い含めるように話し出されました。


「わしはのう、我欲と煩悩にとらわれた娑婆が、つくづくいやになってしもうたのじゃ。無様な骨肉の争いをこれ以上見とうない。今回の一件も、もとはと言えば、仏門にあったわしの還俗に因がある。その張本人がいなくなれば、河野一族の家内も落ち着き、無用な争いもなくなるじゃろうて。頼む。ふたりともわかってくれ。わしという男の存在、それ自体が罪悪なのじゃ。ならば、なぜ妻帯したのかと問われれば一言もない。こうして手を突いて詫びるばかりじゃ。どうか許してくれい」


 つづいてあの方が話されますには、浄土宗の祖師・法然ほうねん上人さまもまた、9歳のとき、夜討ちによって父上を、つづいて母上を亡くされたそうにございます。

 

 ――敵人をうらむる事なかれ。これひとえに先世の宿業也。もし遺恨むすばば、そのあだ世々に尽きがたかるべし。しかし、はやく俗を逃れ、家を出て我菩提をとぶらひ……(『四十八巻伝』)

 

 ご臨終の際のお父上の遺言にしたがって、ご祖師さまは出家された……。

 あの方もまた、ご自身にひそむ武士の因果を恐れたのでございましょう。


      *

 

 千都さまとわたくしに手伝わせて手早く剃髪し、納戸の奥にしまってあった墨染の法衣に着替えたあの方は、そのままふたりの妻とふたりの娘を従えて病床の兄・通朝さまをお訪ねし、異母弟・通友とその生母ら一族を前に、ふた組の母子が辛うじて生きていかれる資産を除く、いっさいの家督の放棄を粛然と宣言されました。

 

 ――まさかのことに!!

   いや、うれしやな!

 

 そう言わんばかりのいくつかの表情を置き去りにされたまま、墨衣の裾を颯爽とひるがえしてわが屋敷にもどったあの方は、10歳になる異腹の末弟・宝珠丸を呼んで仏門への入門を勧め、その場で「聖戒しょうかい」の法号をお与えになりました。


 生まれついて辛い境遇に耐えねばならなかった繊細で利発な少年への、あの方の精いっぱいの兄弟愛に違いございませんが、このとき、あの方の胸にはもうひとつ別のものがひそんでいたことを、わたくしはのちに知ることになります……。

 

 その夜、ふた組の母子はあの方の部屋に集い、ささやかな祝い膳を囲みました。

 いつもより堅めに炊いた白粥、鯵の干物、催し事のために大切に保存しておいた塩漬け山菜の煮付け。それがあの方の新たな門出を寿ぐ献立でございました。


 板畳に胡坐あぐらをかいたあの方に、わたくしと千都さまは交互にお酒をお注ぎしました。素焼きの瓶子へいしを捧げる手がふるえ、あの方の差し出す盃に触れてカチカチと乾いた音を立てます。燗酒かんざけがこぼれ、生ぬるい感触がわたくしの手指をすべり落ち、うちぎの袖口を濡らしました。


 薄べりに正座した聖戒さまが、その一部始終をじっとご覧になっておられます。

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