第8話 妻たちの懊悩
日ごとにその気持ちがいや増せば増すほど、困ったことが起こりました。
童顔のお顔立ち、やさしい心根、おっとりした所作など、こちらもまた大好きな千都さまと夫であるあの方を張り合わねばならない、恨めしい現実でございます。
とある雨の夜。
屋根を打つ雨音がふっと小さくなったとき、あの方と枕を並べ満ち足りた眠りに就こうとしていたわたくしは、廊下の気配に気づき、はっと身体を固くしました。
すすり泣く者の正体が、わたくしには手に取るようにわかるのでございます。
そんなわたくしの横で、あの方はなにも知らず深い眠りに入っておられました。
しばらくして気配が消え去ったのちも、わたくしは眠りに入ることが許されず、白々と夜が明け初めるまで、まんじりともせず棒のように横たわっておりました。
とある夏の晩。
夕涼みがてらの湯浴みのあと、あの方は「綾乃。今宵は早くもどって来るゆえ、菜々とふたりで待っておるのじゃぞ」そう言い残して母屋へ渡って行かれましたが、その言に相違して、いつまで待っても、もどって来られないのでございます。
待ちくたびれ、夕食も採らず寝てしまった菜々を布団に寝かせ、わたくしは着替えもせずに待っておりましたが、深更になってもあの方は帰って来ませんでした。
――裏切られた。
その悔しさと妬ましさに、わたくしは狂女と化していたのかもしれません。ふらふらと立ち上がったわたくしの足は、勝手に動いて母屋へと向かっておりました。
日が高いうちは、まるで親友のように睦まじく行き来し合う千都さまとわたくしでございましたが、日が暮れてからの往来は、暗黙のご法度となっておりました。
真っ暗な廻廊を進んで行くわたくしは、夜叉になっていたはずでございます。
それが癖でいらっしゃるのですが、千都さまの舌足らずな声に、あの方の野太い低音が重なり、途切れ、また重なり……。雅楽のように官能的な音律に吐息や忍び笑いが交錯して、廊下に忍んでいるわたくしの
――おのれ、ふたりして、わたくしを笑い者にしておるのか!
冷静に考えてみれば、そんなことなどあろうはずがないのですが、夜の闇は妄想の温床でございます(汗)、脳裡に描く痴態は歯止めが利かなくなりまして……。
閨への乱入を何とか踏みとどまり、夢中で部屋へ駆けもどったわたくしは、涙の壺も涸れてしまえとばかりに、声を忍ばせて大泣きに泣きました。わたくしをこんな惨めな目に遭わせるあの方と千都さまが憎くて憎くて仕方がありませんでした。
そして、一睡もできずに迎えた朝。
おさな心を傷めた菜々が「かかさま、どうなされたのじゃ。おつむが痛いの? それとも、ぽんぽんが痛いの?」幼い眉根を寄せ、不安げに訊いてまいりました。
黒く澄んだ双眸に見つめられ、ようやくおのれを取りもどすことができました。
この子にとって、母親はわたくしひとり。わたくしが守ってやれずに、だれが守ってやれましょう。たしかに父親のあの方はいてくださいますが、あの方がこの子にかけてくださる情けは、二分の一、もしくは四分の一なのでございますから。
――全身全霊をかけて、この子を守り抜かねば……。
わたくしの心はこのとき決まったのかもしれません。
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