第5話 一遍の生い立ち





 のちに「時宗の祖」と呼ばれるようになる一遍上人は、延応元年(1239)、伊予国・風早郡かざはやごおり河野郷別府こうのごうべふに、河野かわの七郎左衛門通広の次男として生まれました。


 幼名は松寿丸。母・琴は鎌倉の御家人・大江氏の娘でございます。

 如仏にょぶつと号して京で仏門にあった通広は、伊予にもどると、道後・宝厳寺(河野氏の菩提寺)の塔頭たっちゅう(小院)に隠棲しておりましたが、承久の乱のあと、兄・通広の計らいで河野郷別府に館を持ち、還俗して別府七郎左衛門尉を名乗りました。

 

 松寿丸少年にとっての不幸の始まりは、10歳の秋の実母の急逝でした。

 悲しみから立ち直れずにいる松寿丸に、父・通広は出家を申し渡します。


 そのころ、妻を亡くした父のもとには早くも新しい妻が嫁いでおりましたので、聡明にして繊細な松寿丸少年が「自分は父から疎まれている」と感じたのも無理のないことでございます。なれど、問題はそんな単純なことではありませんでした。

 

      *

 

 承久の乱により没落した河野家に対する世間の蔑視。

 海賊衆や豪族との水利権や土地をめぐる小競り合い。

 そして……異腹の兄・通久への、父親としての配慮。

 

      *

 

 そんな事情が複雑に絡み合った現実に、傷心の息子を巻きこみたくないという、父・通広の親心であったことを理解するのは、ずっとのちのことでございました。

 

 ――九州・太宰府の聖達しょうだつ上人。

 

 父親の奔走で、この方が松寿丸少年の師となってくださることになりました。

 

 建長3年(1251)早春、「随縁ずいえん」の法号を授けられた13歳の松寿丸少年は、叔父・善入に伴われ、生まれて初めての長旅に出立いたしました。従者が背負うおい(修行具の箱)には父が授けた『浄土三部経』が大切に収められておりました。

 

 こうして聖達上人に師事した随縁は、その師の勧めで赴いた肥前国の華台けだい上人から新たに「智真ちしん」の法号を授けられ、足かけ13年を九州の地で修行ひと筋に励みました。

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