第4話 「承久の乱」と河野通信





 そして迎えた承久元年(1219)、3代・源実朝が2代・頼家の遺児・公暁くぎょうに暗殺され、ここに源氏の直系は途絶えたのですが、執権・北条義時は大方の予想を裏切り、後継として京の左大臣・九条道家の子・頼経を据えたのでございます。


 北条執権の専横に憤激した朝廷は、この際、かねてより目障りだった鎌倉幕府からまつりごとの権力を剥奪して、後鳥羽上皇による院政を盤石にしようと企みました。


 かくて承久3年5月、後鳥羽上皇は流鏑馬沙やぶさめぞろえに事寄せ、京・城南寺せいなんじに北面・西面・畿内の武士1700騎を集め、執権・北条義時追討の院宣をくだしました。

 

 このとき、河野通信はまことに困った立場にありました。

 長男・通俊(母:一の妻)とその子・通秀、それに2男・通政(母:二の妻・谷)は西面の武士であり、4男・通末(母:三の妻・菊)は後鳥羽上皇の皇孫みこを妻に迎えておりましたが、ただひとり3男・通久(母:二の妻・谷)だけは鎌倉幕府に仕えていたのでございます(5男・通広は出家、6男・通宗は早逝?)。


 思案の末、通信は3人の息子や孫らと500余騎を率いて幕府軍と抗戦したものの、山城国広瀬で大敗を喫しましたので、やむなく伊予にもどって高縄山城に籠城しましたが持ちこたえられず、7月14日落城、長男・通俊は討ち死にしました。

 

 通信は捕えられて、いったんは幕府のある鎌倉に送られましたが、幕府方で活躍した3男・通久の懸命な執り成しによって死罪を免れ、奥州江刺へ送られました。


 2男・通政は信濃国・葉広はびろに流され、そこで斬首されました。

 4男・通末は同国・佐久伴野庄に流され、無念の最期を迎えました。

 長男・通俊の子・通秀は下総国に流されました。


 結果として、河野氏一族149人が所有していた所領53か所、ならびに公田60町歩は、ことごとく没収の憂き目を見たのでございます。

 

「承久の乱」の首謀者・後鳥羽上皇は隠岐おきへ流され、18年の流人生活の末、延応元年(1239)2月22日、波乱の生涯を閉じられました(享年60)。


       *

 

 ところで、ほとんど全滅に近い河野一族のうち、仏門にあったためにひとり難を逃れたのが、あの方の父上に当たる河野通広(母:三の妻・菊)でございました。


 兵乱が終息したあと、幕府側の将としての多大な功績を認められた3男・通久には、論功行賞として阿波国富田荘、および伊予国温泉郡石井郷が与えられました。


 通久の執り成しで弟・通広にも別府べふに所領が安堵されましたので、通広は還俗して武士にもどりました。そして、鎌倉より妻を迎えて、あの方が誕生したのでございます。

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