第2話 Burning(後)

 今日は文月ふづきの誕生日。僕よりふた月だけ早く、彼女は二十一歳になる。だからどうしたってんだ、二十歳から一つとしをとっただけ。

 そう心のなかで呟いて、でも彼女にとっては何か意味があるのかもしれないと僕はまた恐れる。僕が感じられない何かを彼女が感じるのが、僕は恐い。

 だから彼女から離されないよう僕は必死にアンテナを立てて、聞こえないものに耳を澄ませて、見えないものに目をらしていなければならなかった。彼女の傍にいると僕は消耗しきってしまう。




 誕生日の夜は人気のレストランでご飯を食べようと決めていた。彼女の授業の終わるのが早いおかげで、待ち合わせは夕食どきよりずいぶん早い。時間が来るまでプレゼントをふたりで選ぼうか。


 待ち合わせはいつも駅の北口。南口は大学帰りの学生たちでごった返しているから。僕は友達に見つかって揶揄からかわれるのがいとわしかったし、彼女は人の声のうるさいのが苦手だった。

 僕は約束の五分前には着くよう心がけている。べつに、まめで優しい彼氏を演じたいわけじゃない。どこにスイッチがあるか分からない彼女の奇行を、悪化する前に止めなきゃならないからだ。


 此間こないだ授業が長引いて約束に遅れたときはひどかった。彼女は七分待っていた。

 七分の間に彼女が見つけたのは、緑のまま散る健康な木の葉。お菓子を落として泣く子供。無視して先に行く母親と、その束ねた髪のうしろから射す、初夏の陽の影。

 それから、蟻に運ばれる蝶のはねっちゃな小っちゃな蝶だった。どこから運んできたのか、蟻の列がどこまでも延びてて、気の遠くなるほど長い葬送だったと、ずいぶんあとで言った。


 待ち合わせの赤い自販機の前で文月は泣いていた。僕を見つけると大声上げて駆け寄って、僕の腕を掴んで、後ろを振り返らずどんどんと歩きだした。周りのひとたちが変な顔して僕らを見送った。僕の顔もそれに劣らず変だったろう。


「こんな待たせて、ひどい」


 顔を強張こわばらせて彼女は言った。すれ違う人たちが思わず振り返る大声で。


「ずっと見ていたの。あきちゃんが来てくれないから、ずっと見ていたの。目が離せなかった」

「見てたって、なにを。今日はなにを見てたの?」


 僕の問いには答えず、まっすぐ前を向いたまま、彼女は繰り返した。


「こんな待たせて、秋ちゃんひどい」



  ***



 予約していたレストランは、文月のリクエストだった。賑やかな繁華街のなかにあっても隠れ家のような雰囲気を醸す古い外観を遠目に見てから、ずっと気になっていたレストラン。

 プレゼントを右手に抱えて僕は左手を文月に差し出した。彼女は上機嫌で腕をからめた。

 ところが彼女は店の前十メートルほどで足を止めた。仕方なく僕も足を止めた。嫌な予感。


「入りたくない。ほらあの門の上」


 彼女が指す先、煉瓦レンガを積んだアーチ風の入口は見たところなんの変哲もない。僕にとっては。


「だってあの石、血の色してるもん。血の下をくぐったあとでご飯はいやだ」


 眩暈めまいを感じながら、もう一度煉瓦を見た。言われてみれば、煉瓦の一つは妙に赤味が勝っている。でもただの煉瓦だ。ところが彼女にとってはたしかに、血の色なのだ。


「予約してたんだけどな」


 バイト代で生きる大学生にとって、レストラン予約は一大決心だ。それはそれで恨めしいのだが、もちろん、僕が苛立ってしまう本当の理由がそこでないことは自分がいちばん分かっている。


「ごめんね」


 僕の不機嫌を感じとって小さく詫びるその声は、だが譲ることなど一厘も考えていない。


「いいよ、断りの電話を入れるさ」


 料理を頼んだわけじゃないし、たぶんキャンセル料もとられないだろう。携帯を取り出して、目の前の店へ電話をかける。

 ええ、すいません、連れが急に来れなくなってしまいまして。はい。そうですか、すいません。またよろしくお願いします。


「ごめんね」


 電話を切ると、また彼女が言った。

 僕は返事をせず、彼女の手をとって歩きだした。早くあの血の煉瓦から遠ざかろう。

 いまとなっては煉瓦が厭わしいのは、彼女よりも、僕の方だ。彼女にとっては血の石なのに、僕にはどこまで行ってもあれはただの煉瓦だった。ちょっと赤がきつく出ただけの煉瓦だった。あれが血の色に見える彼女の目が妬ましくて、僕はもうあの煉瓦を見ることができない。



  ***



 こんな私でごめんね。


 文月のなにかしらのこだわりで僕たちの調和が乱れるのはしょっちゅうだ。そのあと必ず彼女は僕の手を握ってこう言う。ちゃんと自覚はあるらしい。


 秋ちゃんと出逢えて、私しあわせだ。

 文月はそう言って、僕を逃がさないかのようにぎゅっと腕をからめてくる。月日を重ねるほどに、彼女は僕への依存を高めていく。


「私を見捨てないで。ちゃんとした子になるから」


 決して守れない約束を、本心から守ると信じて彼女は乱発する。僕は簡単にうなずくわけにいかない。だいたい、ちゃんとした子ってなんなんだ。文月はいまのままでちゃんと文月だ。

 黙る僕を見て文月はますます無理な約束をして、泣くか、そうでなければ真っ蒼になって怒る。彼女の胸にあるのが悲しみなのか絶望なのか、あるいは凡人には想像し得ないなにかほかの感情なのか、僕には分からない。

 でも彼女だって、僕が心を乱す本当の理由には決して気づかないのだ。


 文月は僕には見えない世界を見ている。ふっと気を抜くと彼女はぜんぜん別の世界へ飛び立ってしまって、もう手が届かない。彼女に、この平凡な世界に置いてきぼりにされるのが恐い。文月が僕に依存する以上に僕は、もう彼女から離れられない。



 これは恋なんだろうか。この身を焼くような感覚は、恋なんだろうか。

 代わりのレストランを探して文月の手を引きながら、僕は考えていた。考えるほどに眩暈がした。



 いつか文月の見る世界が僕にも見える日が来るのだろうか。

 見えなくっても嫉妬せずに済むときが来るのだろうか。

 誕生日おめでとう、文月。




(Burning:おわり)

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