苦い恋が薬になんてなんない

久里 琳

Burning 大学生・男子

第1話 Burning(前)

 深く長い接吻キスをたのしんでいたところを部屋がびりびり震えだしたので、文月ふづきは怪訝そうに脣を離して、カーテンを睨んだ。


 幽霊でも出てきそうな古い安アパートの僕の部屋。薄墨色のカーテンの向こう、小さな窓を開ければ目の前に線路が通っているのが見えるはずだ。駅が近いおかげで普段は徐行してくれる電車の牧歌的な振動をこれまであんまり気にすることはなかったのだけれど、今日は何かとくべつな理由わけでもあったのかスピードを緩めることなく猛然と通過したその電車は、ちっぽけな部屋を盛大に揺らして去って行ったのだった。


「どうかした?」


 問う声に恐いもの見たさにも似た期待が雑じるのを自覚して、自己嫌悪に胸をちりちりと焼かれた。

 しばらく黙ってカーテンが揺れるのを見ていた彼女は、ちろっと舌を出してちいさな脣を湿しめした。ついさっきまで僕のものだった紅い脣。


「血の味がするんだよ。さっきの電車、きっとどこかで誰かを撥ねたんだと思う」


 もちろん僕は吸血鬼なんかじゃない。だからさっきまで僕の口のなかにあった彼女の舌が、血の味を感じるわけはないのだった。


「どうしよう、あきちゃん。血の味がするんだ。口のなかが血の味するんだ。気持ちわるいよ。どうしよう秋ちゃん」


 もちろん彼女も吸血鬼なんかじゃない。そして、不思議ちゃんな発言で僕の気を引こうとするイタい子ってわけでもない。

 本当にそうだったら、どれだけよかったろう。




 文月は変わっている。

 付き合って一年以上になるけれど、彼女の言動に僕はまだ慣れきっていない。もしかしたら馴らされる日など永遠に来ないのかもしれない。


 そう云う僕だって、すこし変わった人間だとは思うのだ。実際、周りから変と指摘されることもよくあった。でも彼女の方が断然、変。

 彼女の言動に振りまわされるたび僕は戸惑い、愛しく思うこともあれば、哀れを感じることもあるし、ときには――妬ましさに身を焼かれそうにもなるのだった。

 彼女は常識など知らぬ顔で自由に世界を見、感じ、触れる。どうして彼女なんだろう。とくべつな心と眼を与えられたのが、どうして僕じゃないんだろう。



 僕の胸を焼く想いを知りもしないで、文月は縋るように脣を合わせてきた。そうすれば血の味が消えるとでも云うかのように。

 彼女の舌に血の味が残っていないかすこしだけ期待したけれど、血の味なんて僕にはちっとも感じとれなかった。



  ***



 文月が望むのは、ごくごく平凡な人生だ。

 彼女は大学を出たら普通に就職して、普通に結婚して、子供を産んで、産後休暇だか育児休業だかとったあとはまた仕事に復帰して、そうして素敵なお婆ちゃんになるのだと言う。


「最後は子供や孫に囲まれて死ぬの」

 陶然うっとりとした表情かおで。

「一緒に死のうね」


 紛れもない愛の言葉だとは思う。でも、二十歳の女子学生が、おなどしの男子学生に昼下がりの陽光を浴びながら語るにはすこしばかり重たいんじゃないかな。そこに彼女が勘づくことは、決してない。


 実のところ、彼女が望む人生を手に入れることはないだろうと、僕は思っている。

 普通に就職するには、彼女の感性は常人から懸け離れすぎているのだ。彼女にはそれが分からないが、僕にはそれが分かる。そのことが僕をいらいらさせる。どうして僕は分かってしまうのだろう。


 答えは言うまでもない。僕が、すこしだけ文月より「まとも」だから。

 その代わり僕には、彼女の見える世界が見えない。血の味はしないし、あの電車が人を撥ねたなんて思わないし、空は普通に青いし接吻キスは癒しなんかじゃなく愛欲だ。



 本当は僕だって、社会に出て普通に働くには適性を欠いているのだ。人と触れ合うのが恐い。友達を作るのは苦手。人と会話を楽しむなんて、とんでもない。だというのに人より勉強が出来たせいか、むかしからよく学級委員的な役割を背負わされて、なにかあるたびストレスできそうになっていた。

 だから僕は、社会になんか出ないんだと思っていた。作家か学者になって、一生ひとと関わらずに生きていくんだって思っていた。


 でも僕は、文月と出逢ってしまった。彼女と比べれば、僕は「まとも」だ。そして、僕の感性なんて、ごく平凡だ。とくべつなんかじゃないと思い知らされたのだ。僕は社会に出て、ちょっと人付き合いの苦手な、うだつの上がらないサラリーマンとしてなんとか一生を乗り切るのだろう。

 そんな不得手な人生のマラソンに、間もなく僕は飛び出す。文月を応援席に残したまま。



  ***



 近くのお社に行こうと言い出したのは文月のいつもの気まぐれだ。

 僕はおとなしく従った。これもいつものこと。彼女の才を羨んで、どれだけ嫉妬の想いに焼かれて、刺されて、切り刻まれても、その才に引きずりまわされていたい。今となってはもう、もしそれを失ったら僕は堪えられないだろう。



 都会のなか小さく取り残された森の奥、階段を上りきった向こうにお社は隠れていた。鳥居をくぐろうと促したけれど彼女は首を振って、僕の手を振り払って階段をまた降りて行った。


「やり直し」


 彼女は真剣な顔で、階段のいちばん下から言った。

 ちょうど二十歩で鳥居に辿り着かないといけないらしいのだ。


「どうして二十?」


 分かりきったことを訊いてしまう自分を、自分で許せない。

 明日は彼女の誕生日なのだ――二十一歳の。きっと、二十歳の自分を弔うために必要な儀式なんだろう。彼女はいつもなにかを弔っている。



「もう入ろうよ」


 二十一歩になってしまって、鳥居の前で首を傾げる彼女の肩を僕は抱き寄せた。だが神域へと誘う僕には応えず、泣きそうな顔してまた階段を降りて行った。


 次で最後、と文月は三遍言った。

 五回目にしてようやく成功した彼女は、達成感に頬を紅くしていた。僕は心のなかで彼女を祝福した。もう奥のお社に行く必要もないだろう。よかったね文月、きっかり二十歩。二十一歳を迎える準備はできたかい。


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