終章-4 建速勇人(3)
左近が、姿を見せた。横にちあめもいる。
ちあめは間違いなく生死の境をさまようような重傷を負ったはずだったが、異常な回復力を見せ、もう動き回るようになっている。
「左近。足利直義殿の方は、どうだった?」
少しの間、何も言わずに正家が持って来た具足を見ていた左近に、こちらから声を掛けた。
「こちらの頼みを聞いてくれた。しばらくは高師直を京に足止め出来ると思う」
「そうか。無茶かと思ったけど、やってみるもんだな」
「最初に聞いた時は何を言い出すんだ、と思ったけどな。案外、説得は難しくなかった。信用も、出来ると思う」
「やっぱり、斯波家長殿の事が?」
「それも、大きいとは思う」
他には何があるのかは、左近は口に出さなかった。
何故足利直義の協力を取り付けよう、などと思い至ったのかははっきりと勇人自身にも分からなかった。
ただ、直義にはどこか天下に対するひたむきさのような物を感じた。
それは、小夜や恐らく斯波家長にもあった物だった。
「それと、伊勢の親房様から君宛に言伝がある」
「何と?」
「残った天下の煩わしさは、わしに任せよ。お主はただ、後は小夜の事だけを考えてくれ、と。それと、礼を言う、と」
勇人は頷き、夕べ書き上げた上奏文を左近に渡した。
「これを、親房殿に渡して欲しい。中を見れば、親房殿なら分かって下さると思う」
「君は、そろそろ行くのか?」
「ああ」
「やはり、俺はそっちについて行くよ。陸奥守様の脱出は、楓と楠木一族の助けで何とかなるだろうし」
「よせよ左近。詰まらない負い目や僕への義理立てで命を捨てるんじゃない。君がいた所で、こっちは変わる物じゃないのは分かってるだろ」
「だけどな」
「左近」
ちあめが口を開いた。
「死んじゃあ、いけない」
ぽつりとそう呟く。
黙って勇人と左近のやり取りを聞いていた正家が、ほう、と意外そうな顔をした。
「な、ちあめもこう言ってる」
ちあめは、死の淵から生還して以来、口を利けるようになっていた。
まだ喋る事に馴れていないのか、たまに思い出したように口を開くだけだが、それでも少しずつその頻度は増えているし、人間らしい感情を端々で見せるようになっている。
その代わりに、以前のような異常な鋭さは逆にどこか薄れて行っていた。
左近は大きな傷を負った事がきっかけだと考えているようだったが、恐らく違うと勇人は思っていた。
ちあめはずっと、自分の身と左近を守るために、常にぎりぎりまで自分の感覚を研ぎ澄まし続けて来た。そのための代償として、声を失っていたのだろう。
今は、左近がずっと強くなり、ついには左近がちあめを守る側になった。だからちあめは、人間らしい人間に戻ったのだ。
「俺が、出来る事はもうないのか。君のために何かしてやれる事は無いのか」
「そうだなあ。ちあめと一緒に生き残って、忍びとしての仕事が無くなったら、陸奥に帰って欲しい。それで出来れば五郎のあの村に移り住んで、ちあめと子どもを作って平和に暮らして欲しい。そんな風に君の子どもが何代も繋がって僕が元居た時代までもし辿り着けるなら、それで僕は自分がこの時代に来た意味を一つ多く見付けられる」
左近は俯いた。
「ありがとう、勇人。勇人がいて、左近を鍛えていてくれなければ、きっと私も左近も死んでいた。勇人は、確かに私達を助けてくれたよ」
左近の代わりに、ちあめがそう言った。
「一つだけ約束してくれるか、勇人」
顔を上げ、左近がそう言った。
「何だい左近」
「最後まで、生きようとする事は忘れないでくれ。君がこれからやる事も、意図も良く分かっているつもりだが、それでも生きて帰る道を探す事はやめないでくれ。俺とちあめに共に生きて欲しいと君が言うのなら、俺は君と陸奥守にも共に生きていて欲しい」
少しだけ沈黙し、勇人は空を見るように少し視線を上げた。それから、左近の顔へ視線を戻す。
自分がとても穏やかな顔をしている事が、勇人には分かった。
「ああ、約束するよ」
そう答え、勇人は着物の中から取り出した物を左近に放り投げる。
自分がこの時代に来た時に持っていたスマートフォンだった。
もうとっくの昔にバッテリーも切れ、何の機能もしなくなっているが、今となっては自分がこの時代では異物だと証しするためのほとんど唯一の品だ。
「すまほ、だっけか」
「持っていてくれ。これだけは、信用の出来る人間に渡しておきたい」
「分かったよ。預かっておく」
「じゃあな、親友」
この男に会えて良かった。この男を死なせずに済んで良かった。
心の底からそう思えた。
その日の内に、行朝と政長も一度帰還し、四人に正家と左近も加えて、次の出陣に付いて話し合った。
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