終章-3 建速勇人(2)
小夜の寝顔は、綺麗な物だった。ここまで穏やかな彼女を顔を見るのは、随分と久しぶりな気がする。
仮に今、彼女がここで目を覚ましたとしても、やはり自分は彼女にこれ以上、戦を、人殺しをさせたくはなかった。
そのまま一晩、小夜に付き添いながら、勇人は筆を取った。
内容は、帝に対する上奏文である。
本来は小夜がこの時期に書くはずの物だった。内容までは勇人は詳しくは知らないが、それでも小夜が書けないのであれば、自分が書くしかない、と思っていた。
この国の在り方、戦乱の鎮め方、朝廷の本来あるべき形、そんな事について、自分がこの時代に来てから小夜と語り合った事を一つ一つ思い返しながら、勇人は書いて行った。
かなり苛烈な文章になる。しかし、小夜の国に対する考えと、そう大きな違いは無いはずだ。
「こんな物が書けるぐらいに、君の考えを知ろうとして来たのに、な」
全てを投げ出し、逃げてしまおう。
あの時、自分が本気でそう言う事が出来れば、彼女はそれに答えてくれたのか。それだけは結局、分からなかった。
「勇人?」
不意に、小夜の声がした。
視線を小夜の方へと落とす。うっすらと小夜は目を開いていた。
「起きたのかい、小夜」
「うん」
顔色は土気色で、酷く汗を掻いていた。意識がどこまではっきりしているのかはよく分からない。
「気分は?」
「最悪、かな。動けそうにないや」
「ごめん、あの時咄嗟に守れなくて」
「ううん。勇人は私の事をずっと守って来てくれたよ。勇人がいなかったら、私はずっと前に戦場か、それ以外の場所で死んでいたと思う。あれは最後に、私が迂闊だっただけ」
「最後なんて言うなよ。僕はこれからも君を守るつもりなんだから」
「戦に出るの?」
「もう少ししたら」
「どこに?」
「堺浦の辺りかな」
「相手は高師直?」
「ああ」
「帰っては来れない?」
「多分」
「そっか」
それだけ話すと、小夜は右腕を自分の顔に当てた。泣き顔を隠しているように見える。
勇人が何をするつもりなのか、理解したようだった。
「頭が良すぎる、ってのも辛い物だよな。始めて会った時から、割と君はそうだったけど」
小夜はいつだって目の前の現実が見え過ぎていた。
弱音を吐く事も、駄々をこねる事も、時には泣く事すら、それがどれだけ無駄な事なのか、小夜は先に分かってしまう。
だから彼女は内心どれだけ辛くても、あまり弱音は吐かないし、駄々もこねないし、泣く事も少ない。
彼女のそんな傾向は、戦を重ねる内に次第に強くなってきていた。
自分や楓を相手にしてすら、弱い自分を見せる事は減って行ったのだ。
「君も本当は分かっているだろうけど、君はだいたいの所で間違わずに上手くやって来たし、君以上に上手く出来た人間は多分いなかったと思う。こうなったのは直接は僕が君を守り切れなかったせいだし、後はほんの少しだけ運のような物が足りなかったからだと思う。だから、あまり思い詰めないで」
「それでも私のせいで、たくさん人が死んだよ。戦いで死ぬ人間は仕方ない、とずっと自分に言い聞かせて来た。だけど、無理だよ。勇人の事だけは、もうどうしたってそんな風に思い切れない」
手をどけた小夜の瞳には、涙があふれている。
「その言葉だけで十分さ、僕は」
本音だった。
ここまで戦って来た理由をどれだけ言葉に並べた所で、結局自分は、ただ小夜にとってかけがえのない特別な人間になりたかっただけなのだろう。
それをもっと早くに自分が認めていれば、何か変わっていたのか。
今更、そんな事を考えても意味は無かった。
やれる事は、まだ残っている。それをやる理由も、自分の中にはっきりある。
勇人にはそれで十分で、後は小夜の心のために、何を言葉にして残せるかだった。
そのまましばらく、二人で静かに語り合った。
語っている内容は埒も無い事で、時には感情に任せた何の理屈にもなっていない言葉を互いに吐き出した。
死んでほしくない、と言う小夜の素直な感情を、どう受け止め切るか。それに対して、自分のどんな思いを返すか。意識の底で、ずっとそれだけを考えながら言葉を続けて行った。
やがて、小夜は再び眠り始めた。
勇人の言葉に納得したのかどうかは分からない。しかし体の事を考えれば、今は眠っている方がいいのだろう。
そのまま小夜が目を覚ます事無く、朝になった。
「勇人さま。お客様が参られました」
朱雀が声を掛けて来た。
「客?」
部屋に置いてあった陵王の面を手に取り、勇人は立ち上がった。
館の前にいたのは、山伏姿の楠木正家だった。背中に大きな箱を担いだ従者を、一人連れている。
「これは、正家殿。もう怪我はよろしいのですか」
河内の楠木一族とは辛うじて連絡が取れていたが、正家自身が摂津にまで来るとは思っていなかった。
今は個人の往来でも、摂津に来るのはかなり危険が伴うはずだ。
「ようやく動き回れるようになって、な。半太夫の事はとにかく一度わし自身が出向いて詫びておかねばならぬ、といても立ってもいられなくなった」
そう言うと正家は頭を下げた。
「身内の裏切りに気付けなかったのは、断腸の思いしかない。この年寄りの腹を切って済むのなら、切りたい所だ」
「いえ、あれは誰にもどうしようもなかったでしょう。いざその時まで、裏切り者としての動きを一切していなかったのですから。咎められるとすれば、目の前にいて止められなかった、僕だけです」
相手が帝と言う存在である以上、魅せられる人間は必ず、いる。
だから常に裏切り者はどこかにはいると言う想定で、付け入れられる隙を作らないように動いてはいたはずだった。
最後は五辻宮は戦場で強引にそこに隙を作り出し、そしてそれに気付けなかった自分が負けたのだ。
その事は半太夫の直接の上司である左近にもはっきり伝えていた。
「それに、正家殿はそのためだけにここまで来られた訳では無いでしょう?」
「今更こんな事を言うのも恥ずかしいが、まだ陸奥守様のために少しは働けるのではないか、と思ってな。摂津から河内へと抜けるのであれば、役に立てよう」
勇人は頷いた。足利方が圧倒的に優勢とは言え、未だに河内はそれ全体が楠木一族の城のような物である。
河内に入る事さえ出来れば、まずは小夜も残った奥州軍も安全であろう。
「それと、お主への届け物がある」
「届け物?」
正家の従者が、背負っていた箱を降ろし、中を開ける。
具足だった。
一目見て、戦場で小夜が着ている物に似せて作られているのが分かった。ただそれよりも、少し大きい。
自分が着るには、ちょうど良さそうだった。
「これは」
「正成が京でお主に会った後、河内の職人に命じて作らせていた物だ。必要な時が来たらお主に届けよ、と言われていた。その時は何故正成がそんな事をしていたのか意味は分からなかったし、何故お主にこれが必要な時がいずれ来ると正成に分かっていたのかは、今になってもわしには分からないが」
「そうです、か」
勇人は、京で出会った楠木正成との会話を思い出していた。
あの時、あのわずかなやり取りと、あのたった二つの質問だけで、正成は全てを悟ったのだろう。
だから正成は、それ以上抗おうとする事を、やめたのだ。
勇人に対して敢えて何も伝えなかったのは、真実に気付かず、抗おうとする者に対する憐れみだったのか、それともただ自分の絶望は自分一人だけの物だと思い定めていたからだったのか。
正成が勇人のために作らせたと言う鎧からは、何も伝わっては来ない。
「お主には、わしに分からぬ何かが分かっておるようだな、勇人」
勇人の様子を見て、正家がそう言った。
その眼にはいつか正成が向けて来た目と同じように、勇人に対する憐れみと優しさが込められている。
「河内の帝の御様子は?」
「相変わらず、寺で筆を取っておられるよ。五辻宮の死は伝えたが、静かに頷かれただけであった。あの方も、どこかで自分の命運を見切られたようであるな。いずれ、親房様が吉野に入られるのに合わせて、吉野にお返しするべきかと思っている」
「正家殿は、その後はどうされますか?」
「正成の息子二人がそれなりに育って来ておる。この戦の裏で何が起きていたかをしっかりと伝え、後は楠木一族の行く末はその二人に任せて従おうかと思っておるよ」
「でしたら、しばらくの間、河内で北条時行も預かってもらえませんか?」
「ほう」
時行はこの二か月の間もずっと奥州軍に従っていたが、戦に出る事は宗広や行朝と話し合った上で禁じていた。
人の心を取り戻してはいたが、時家を始めとした多くの一族を死なせた負い目があるのか、ここぞと言う所で死にに行くような戦い方をする癖が治っていない。
「彼には、まだこの乱世で生きていく術が十分に備わっていません。そして彼のような立場の人間にそれを教えるのであれば、楠木一族が適任でしょう」
正家は、死んだ時家とどこか合う所があり、共に戦った経験も多い。
時家に関しても正家が教えられる事は、まだ数多くあるだろう。
「分かった。引き受けよう」
正家が頷いた。
楠木正家、北条時行。彼らがこの歴史の中で本来はどう言う運命をたどるのか、勇人は思い出せなかったし、無理に思い出そうともしなかった。
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