第12話 ぼくは未熟者
一人の男子が、ぼくを羽交い絞めにする。
「や、やめろーっ!」
もう一人の男子が、ぼくのベルトを外し、ズボンのファスナーを下ろす。
そして、ぼくのズボンを引きずり下ろした。
僕が穿いているトランクスが露わになった。柄物のトランクスだ。
学校によっては下着の色まで指定する所があるけど、ぼくの中学校には、それが無い。不幸中の幸いではある。
ここは教室の中。ここには他の生徒たちもいて、男子はもちろん、女子もいる。
彼らは皆、ぼくの方を見ていた。
ぼくは心の中では助けを求めていたが、実際に助けを求める声は上げていない。助けを求める声を上げる行為が恥ずかしく、惨めなものに思えたからだ。
誰もぼくを助けようとしない。声を上げても上げなくても、それは同じだろう。
ニヤけているか、黙り込んでいるか、ひそひそ話をしているか、見て見ぬふりをしているかのいずれかだ。
「こいつ、こんなパンツ穿いてるぞ。顔が女のくせに」
ぼくのズボンを下ろした男子が、ニヤニヤしながら言う。
屈辱のあまりに泣きたくなるが、それでもぼくは
その男子が、ぼくの股間を揉んできた。
「こいつ女の顔してるくせに金玉ついてるぞー」
股間を揉んでいる男子は、相変わらずニヤニヤしている。
ぼくがやめろと言っても聞かない。
股間が痛くならない程度に揉んでいるのが、せめてもの救いなのかもしれないが、それにしても酷い。
ぼくの屈辱感は更に強まるが、それでも涙を堪える。
人の嫌がることを笑いながらやるとは、こいつらどういう神経しているんだ?
サディスト――相手の身体もしくは精神に苦痛を与えて快楽を得る人のこと。
まさに、こいつらのためにある言葉だ。
――嫌なことを思い出してしまった。ぼくが中学二年の時の出来事だ。ぼくは、こうして、しょっちゅういじめられていた。
この頃は食事もろくに喉を通らなかったし、
中学校の男子トイレの個室にトイレットペーパーが無いことも、珍しくなかった。早く排便したい人間にとって、これは相当な嫌がらせだ。悪餓鬼の仕業かどうかは知らない。だから、トイレットペーパーのある個室を探さざるを得ないこともあった。
今日、鬼瓦くんと喧嘩したから、中学時代の嫌なことを思い出したのだろうか。他人から痛めつけられたのは、中学時代以来だった。
中学時代はいじめだったのに対し、今回は喧嘩。本質的には異なるが。
今回のことが原因で、再びいじめられたりしないかと不安になったこともあったが、これは杞憂かもしれない。なぜなら、最後はぼくの方から謝ったし、向こうも許してくれた様子だったから。
男子トイレの前で鬼瓦くんと口論、そして、喧嘩になった時のことを思い出してみる。
気付いた時には、既に鬼瓦くんを殴っていた。
葵のことを悪く言われて、頭にきていたとはいえ、衝動的に殴ったのだ。
話は変わる。あの痴漢は、なぜ葵を襲ったのか。
前から歩いてきた女子高生――葵――を見てムラムラしてしまったのが動機らしい。
要するに衝動的に襲ったのだ。
衝動的に鬼瓦くんを殴ったぼくと、衝動的に葵を襲った痴漢。
対象が違うだけで、衝動的に相手に対して害を与えたという点では、同じではないのか?
――か弱い女の子を自らの欲望のはけ口にした卑劣な痴漢。
なんということだ。葵の心に大きな傷を付けた卑劣な痴漢と、ぼくが、大差ないとは。
ぼくは自分自身の未熟さに愕然とした。そして、悔しくなってきた。ぼく自身を殴りたくなってきた。
――葵が泣いていた時のことを思い出す――
校舎の二階には文芸部と漫画部の部室がある。ぼくは、そこに向かっていた。例のごとく遊びに行くために。
階段のすぐ近くの教室の所で、一人の女子がうずくまっていた。耳を澄ますと、すすり泣いているのがわかる。
人が泣いているところなんて、高校に入ってから初めて見た。彼女を見ていると、胸が締め付けられそうになる。
――ぼくはいじめられて泣きたくなった時、誰もいない所でうずくまりながら泣いていた――
彼女の方を見る。そこには昔のぼくがいた。
あの時、泣いているぼくを助けることができたら、どれだけ素晴らしいことだろうか。
ぼくは昔のぼくにハンカチを差し出す。
昔のぼくが顔を上げると、それはクラスメイトの日和塚葵だった。
彼女の泣き腫らした顔を見る。目は赤くなり、そこから涙が流れ落ちている。その不安そうな顔は、何かに怯える幼い子供のようだった。
彼女からは、小さな雪の彫像のように、触ると壊れてしまいそうな、か弱い印象を受けた。
助けなければ、そして守らなければ――彼女を見ていると、そういう想いが募っていった。
彼女に「きみも助けたい」と言った。本心ではあるけど、カッコつけていると思われたりしていないだろうか。今、思い出してみると、自分でも少し恥ずかしい。
葵と公園でバドミントンをする。
元気の良いサービス、突き刺さるような鋭いスマッシュ、的確に返ってくるレシーブ――あの時のか弱さが嘘のようだった。なお、ぼくが下手なだけとは言わないで欲しい。
汗を流したり息を切らしたりしたけど、楽しかった。
ぼくのことを下の名前で呼んだ時は、ドキッとした。なぜ、下の名前で……とつい、考え込んでしまった。
昨日、初めて葵の家に行った。
女の子の家に行くのは、これが初めてなので、かなり緊張した。
彼女のお母さん――彼女がそのまま年を取ったような人――は、ぼくを快く迎えてくれた。
和室に通されたぼくは、教材の問題を解きながら勉強を教える。
いただいたお菓子とジュースは美味しかった。
鬼瓦くんと喧嘩した。言うまでもなく、ぼくの負けだ。
ぼくは翌檜くんと誠司くん、そして葵に連れられて保健室に行った。
保健室で応急処置を受けている時、自分の顔が嫌いだと言うと、葵が怒りだした。
ぼくの顔について素敵だと言ってくれる人間は、母さんくらいだったから、この時、彼女の言ったことには驚いた。
彼女の顔は怒ってはいるのだが、それ以上に悲しんでいるように見えた。見ていると、こちらまで胸をかきむしられるようだった。
彼女の両目からは一筋の涙が流れた。その時の彼女の目は、水晶のように綺麗だった。
葵についてエッチなことを考えたがる男子は、存外多い。だいたい、あの痴漢事件のせいだろう。
以前は気にも留めなかったが、よく見ると、プロポーションは、なかなかだと思う。痴漢は、あの胸の膨らみを見て、欲情したのだろうか。
顔立ちは素朴で、派手さはないけど、
そんな彼女とエッチなことをしたいと思ったことは、一度や二度ではない。ぼくも他の男子について、色々と言えた立場ではないのだ。
けれども、彼女の前でエッチなことを口にしてはならない。傷口に塩を塗ってしまうからだ。もちろん、彼女にエッチなことをするのは、言語道断である。
葵が、ぼくの恋人だったら。ふと、そんなことを考えた。
けれども、それはおこがましいと思う。
衝動的に人を殴ったくせに、喧嘩は弱い。おまけに、彼女に気を使わせてしまった。ぼくは、そんな未熟な人間なのだ。
彼女を恋人にするには、まだまだ早すぎる……それ以前に彼女は、ぼくのことをどう思っているのだろう。
いや、恋人
「……蓮様、麦穂星蓮様」
呼び出しだ。診察室へ行かなくては。
鬼瓦くんとの喧嘩で怪我をしたぼくは、病院に来ていた。
ぼくは病院の待合室にいた。普段なら本を読んだりゲームをしたりするのだが、今日はしなかった。
今日の出来事のインパクトが大きかったからか、中学時代から今までの出来事について考え事をしていたのだ。それで、ボーッとしていたらしい。
診察が終わった。どうやら大した怪我ではないらしい。しばらくすれば、完治するとのこと。
とはいえ、しばらくの間、公園での活動はできないだろう。
怪我のこともあるけど、翌檜くんや誠司くんの文化祭準備の手伝いもしてあげたいし、文化祭の前に中間試験もある。
葵と相談しよう……その前に、処方箋持って薬局かな。後、反省文も書かなければ。
帰宅後、ぼくはスマホのSNSアプリを立ち上げる。
「怪我は大したことない。ところで、今後の公園での活動はどうする?」というメッセージを葵に送信した。
「あなたの怪我が治るまでしなくていい。お大事に」というメッセージが返ってきた。
しばらくは療養に専念するとしよう、と思ったところで再びメッセージが届いている。
「今月は中間試験と文化祭が控えているから、その準備もしなければならない。だから、今後については少し考えさせてくれる?」
「わかった」と返信した。
夜、ぼくのスマホに、こんなメッセージが届いていた。
「蓮くん、喧嘩して怪我したんだって? 大丈夫?」
あいつからだ。ぼくの母さんが、あいつの母さんに話したのだろう。早いものだ。
「確かに喧嘩して怪我をした。けど大丈夫。大した怪我ではない」
「蓮くんのお母さん、アナタのことを心配しているみたい。『いじめられるんじゃないか』とか『また喧嘩するんじゃないか』とか。だからアタシのお母さんを通じて密かに見守って欲しいと言ってきた。クラス違うし、難しい話だけど」
「それは大丈夫。仲直りしたし」
「で、誰と喧嘩したの?」
「鬼瓦蘇鉄。同じクラスの男子」
「鬼瓦くんってあの強面でガッチリしたヤンキーみたいな男子でしょ? 勝てる自信あったの?」
「そんなの最初から無い」
「無いって、アナタ……もしかして、馬鹿なの?」
「かもしれない。あの時、ぼくは狂っていたと思う」
「どうしても許せない何かがあったようね。友達のことを悪く言われたからと、お母さんから聞いたけど?」
「まあ、その通り」
「友達って誰?」
「日和塚葵」
「それ、アタシの友達。もしかしてアナタ、葵のことが好きなの?」
「なぜ、そんなことを聞く?」
「自分の悪口を言われたわけでもないのに、勝てもしない喧嘩に挑むなんて、それだけ想う気持ちが強いってことでしょ。だから葵のことが好きなのかな、と思った。それで、鬼瓦くんはどんなことを葵に言ったの?」
「豆腐メンタルって言った。葵は傷ついているのに、それでも一生懸命なのに、それをあざけられたようで怒りを覚えた」
「葵の身にどんなことが起こったか、アタシも知っている。確かにその発言は許せない。でも、殴り合いは無いんじゃない?」
「そうだね。あれはぼくも悪かった」
「それ以上気にしなくてもいいと思うよ、蓮くん。そうそう、葵のことが好きならアタシ、こっそり応援しちゃう」
「別にいいよ。それよりも好きとかそういうことは考えないでくれ」
「はいはい。それじゃ、またね」
「それじゃ」
以上が、あいつとのやり取りだ。スマホを見ると、これらのメッセージがズラッと並んでいる。
あいつと高校が一緒になったと知った時は、びっくりしたものだ。
時々、互いの家を訪れる機会があって、その度によく遊んだものだが、高校にまでそれを持ち込みたくはない。ぼくは男子、あいつは女子。男子と女子では、それぞれの交友関係というものがあるし、それに、周囲から変な勘違いでもされたら困る。
ぼくは机に向かう。反省文を書くためだ。原稿用紙一枚以上なら、そんなに苦労しない。さっさと終わらせよう。
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