第10話 そんなこと言わないで!
わたしが掃除当番を終え、帰宅の準備をしていた時、教室に誰かが入って来た。
小百合だ。息を切らしているみたいだけど、何があったのだろうか。
「葵、大変! 男子が喧嘩しているの! しかも、あなたの名前を言ったりしていたわ!」
わたしの名前……? 嫌な予感がする。
漫画や小説、ドラマ等々……フィクション作品では、ライバル同士の男性が一人の女性を巡って争うというシチュエーションが、時々ある。けれども、今起こっていることは、そんなロマンチックなものではないだろう。
「小百合! それどこ!?」
「男子トイレの前。すぐに行きましょう!」
わたしは小百合に促されて、男子トイレの方に駆け足で向かった。
男子トイレの前には、男子たちが何人もいた。
仁王立ちしている大柄な男子が一人、壁に背を付けて足を延ばして床に座っている男子が一人、座っている男子に声をかけている男子が二人、大柄な男子の取り巻きと思われる者が二人。
仁王立ちしている男子は鬼瓦くん。顔に痣が見られる。少しばかり息を切らしている様子。喧嘩をした男子の一人のようだ。
床に座っている男子は――そばにいる男子のせいで、顔がよくわからない。
胸騒ぎがする。わたしは床に座っている男子の近くまで行った。
「ちょっと失礼」
そばにいる男子たち――芥木くんと旧海くん――をかきわける。かきわけられた男子たちは、少しだけ驚いたような表情をしていた。
床に座っている男子は蓮のようだ。壁に背を付けて、うなだれている。彼の顔を見るために、うなだれている上半身を起こす。
「――!!」
わたしは彼の顔を見て絶句した。顔は腫れ上がっていて、痣が複数ある。鼻の穴からは血が出ている。唇も切れていて、そこから出血していた。
さながら美しい
「何が……何があったのよ!!」
わたしは大声で叫んだ。蓮の無残な顔を見ると、気が気でならなかった。
「日和塚……何でオレたちの話を立ち聞きしたんだよ。泣くほど嫌だと思ったのなら、さっさと立ち去ればいいのによ」
立ち聞きしたのは、自分がどう思われているのか、どうしても気になってしまったからだ。……まさか、これが喧嘩の原因なのかしら?
「鬼瓦くんが……葵のことを……侮辱した……」
蓮が呻くように話した。どこか痛々しそうで苦しそうだ。わたしを侮辱? 何て言ったのだろうか。
「葵を侮辱? 何て言ったのよ?」
小百合が鬼瓦くんたちに尋ねる。その口調は冷静だけれども、僅かに熱を帯びているように思えた。
「豆腐メンタルっつった。コイツが言うには、オレたちの雑談を聞いただけで、日和塚が泣き出したらしいから」
「豆腐メンタルって、あなた……! それに……葵を泣かした!?」
小百合の言葉が更に熱を帯びた。このまま小百合が鬼瓦くんに突っかかっていきそうな気がする。小百合を止めなければ。
「小百合……それと蓮、別にいいよ。豆腐メンタルなのは本当のことだから。あれ以来、些細なことで悲鳴を上げたり、泣いたりするようになったわけだし……心が相当弱っているみたい」
豆腐メンタルと言われても、たいして傷つかないし、怒りもしない。あの時のことを思い出させるような話より遥かにマシだ。
「だから、喧嘩なんてしないで」
わたしは小百合と蓮にお願いした。
「葵……」
小百合が、ぼそりと言った。帯びていた熱が、だいぶ冷めたみたい。
「蓮……保健室に行きましょう」
手を取って蓮を起こす。そして、彼の腕をわたしの肩に回す。そのまま保健室に向かって歩き出すと、彼の友達が、もう片方の腕を自身の肩に回した。
消毒液の匂いがぷんぷんする保健室。蓮は、そこで椅子に座りながら手当てを受けている。傷口に薬を塗ってもらったり、腫れている所は冷やしてもらったり……
蓮に手当てをしているのは、養護教諭の
クラスの男子――誰かはよく覚えていないけど、多分鬼瓦くんかその友達――が「杖辰先生の名前って、
大抵の男子は先生に手当してもらうとなると、鼻の下を伸ばしそうなものだけど、彼の場合は痛くてそれどころではないらしい。
「キミが喧嘩をするとは意外ね」
「はい」
先生は蓮が喧嘩したことについて、少しばかり驚いている様子。
「相手は誰かしら?」
「……同じクラスの鬼瓦くん」
蓮は少し間をあけてから、喧嘩相手の名前を答えた。
「いくらなんでも、鬼瓦君相手に喧嘩で挑むなんて、無謀だよ」
芥木くんが蓮に向けて諭すように言う。その表情から、ハラハラしているのが伝わってくる。
旧海くんも似たような表情している。どちらも蓮のことが心配らしい。
「わかっている。けれども、頭にきて仕方がなかったんだ」
「キミが怒るなんて、余程のことだったんだな。ボクも好きなキャラがディスられたら、怒るかもしれないけど」
旧海くんが蓮に向けて言った。蓮が怒る場面は、友達ですら見たことが無いみたいだ。
旧海くんは漫画とかアニメが好きらしい。だから、キャラがどうのこうのと言っているみたい。
それにしても……今、「好きな」と言ったよね? もしかして、旧海くんは蓮がわたしのことを好きだと思っているのかしら……こういうのは深く考えないでおこう。
わたしは改めて蓮の顔を見る。怪我をした顔は、やはり痛々しい。
「葵、どうしたの? 心配そうな顔して」
彼が、わたしに問いかける。
「あなたが怪我をしたからよ。ひどい顔になってしまったね……。きちんと治るといいんだけど」
彼の顔を見ると、こちらまで辛くなる。
「……怪我を治すに越したことはないけど、傷や痣の一つや二つ、残っても構わないかな。自分の顔、嫌いだし。むしろ、その方が男らしくていいかな」
自分の顔が嫌い? 今のその言い方、何? 彼が女みたいな顔だと言われて、いじめられていたことは知っている。けれども、その言い方はないのでは?
彼がわたしに手を差し伸べてくれた時のこと、彼を家に連れていった時のことを思い出すと、胸をかきむしられるような気分になってきた。
「そんなこと言わないで! 親からもらった顔でしょ! それに、親以外で、あなたの顔を素敵だと言ってくれる人もいるのよ! あなたの顔を見て安心できる人もいるのよ!」
わたしは大きな声で話してしまった。その直後、頬に一筋の暖かい液体が流れてきたのを感じ取ることができた。
彼が自分自身のことを嫌っているように思えて、悲しくて仕方がなかった。
保健室には彼の友達の他、小百合も来ている。三人とも
「葵……」
「お願いだから、きちんと治して」
わたしは彼にお願いした。もう少し自分自身のことを愛してもいいと思いながら。
「葵、それと麦穂星くん」
小百合が、わたしと蓮に向けて言う。
「葵のことを鬼瓦くんが泣かしたようなこと言っていたけど、何があったの?」
小百合が質問してきた。わたしは、鬼瓦くんが男子トイレでエッチな話をしていた時のことを話した。
「
小百合は口をあんぐりと開けて、鬼瓦くんたちに呆れ果てている様子だった。
「葵……そのことなんだけど、怒らないで聞いてくれるかな? それと、聞いていて辛いと思ったら、すぐに言ってくれる?」
蓮が、言葉に詰まりそうな口調で言った。
「何?」
「男子たちがエッチな話をしていたけどさ、なぜか葵のことばかり。葵は確かに可愛い」
可愛い――蓮の口からその言葉が出た途端に、わたしの体が暖かくなってきた。それどころか少し熱いくらいだ。
「けれども、学年には美人が何人もいる。それなのに彼女らは思ったほど話題にならない」
確かに不思議な話だ。わたしについてのエッチな話は、聞いたことがあるけれども、他の人についての話は、あまり聞かない。
「なぜなのか、少し考えてみた。葵は先月、痴漢に襲われた。このことによって、レッテルを貼られたんじゃないかな」
「レッテルを貼られた?」
どういうことだろう。
「痴漢に襲われるくらいの性的魅力を持っている、というレッテルだよ。痴漢に襲われるくらいだから結構いい体しているんじゃないかと、連中は考えているんだ。だから、きみのことばかり話すんじゃないかな」
なんという迷惑な話だろう。言葉の上だけかもしれないけど、これ以上、わたしにいやらしいことしないで欲しい。
”あの男”はわたしに呪いをかけていたのだ。男子から好奇の目で見られるという呪いを。ますますひどい男だ。
こういうことを考えると、気分が
「葵!」
小百合が叫んだ。
「ごめん」
蓮が謝った。申し訳なさそうな表情をしている。
「別にいいのよ。蓮、あなたは悪くない」
この時、廊下の方から物音が聞こえてきた。
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