第9話 これ以上傷付けないで欲しい

 あの時、葵がなぜ泣いていたのか。その原因となった者たちが、どういう連中なのか、だいたい想像がつく。

 けれども、その連中に対して、ぼくは何も言わなかった。なぜならば、彼らに性欲はあっても、悪意があるとは思えないということと、男子トイレ内で話すあたり、彼らなりに配慮していたと思われるから。だから、彼女が外から聞いていたということにも、気付いていないだろう。


 ぼくが男子トイレの前に差し掛かると、中から男子たちがガヤガヤと話しながら出てきた。

「日和塚は美乳なんじゃねーかと。だからよ……おっと、いけねえ、いけねえ、もう便所の外だった」

 角刈りの大柄な男子が、他の男子たちと共に、大きな声で話しながら歩いている。鬼瓦くんだ。

 また葵の……それも胸の話か。もういい加減にしろよと思う。

 ぼくはその場に立ち止まった。鬼瓦くんと目が合った。

「何だよ」

 鬼瓦くんが横柄な態度でぼくに言う。ガンをつけられたと思ったのかもしれない。当たらずしも遠からずだと思う。鬼瓦くんをじっと見ていたのだから。

「あのさ、鬼瓦くんたち。これ以上、学校で日和塚さんについてのエッチな話をするの、やめてくれないかな」

 ぼくは鬼瓦くんたちに頼み込む。彼女をこれ以上傷つける真似はして欲しくない。

「何? 便所の中で聞こえないように話してたんだから、いいじゃねえか。ちなみに今のは、うっかり外に出てしまっただけだ」

 鬼瓦くんは自身の正当性と、彼なりに配慮していることをアピールしているようだった。

 男子トイレに隠れて話すあたり、この前の箱根さんの脅し文句が、効いているのだろう。

 けれども、そこまでして話したいものなのだろうか。

 確かに思春期の男子には性欲が必ずつきまとう。切っても切り離せないものだろうけど、もう少し何とかならないものだろうか。

「それが聞こえてしまったんだよ。だから、ほんの少しでも可能性がある所では、話して欲しくない」

「別に聞こえたところで、大した問題じゃねえだろ。せいぜいオレらが嫌われるだけだ」

 鬼瓦くんには獅子城さんがいる。葵に嫌われたところで、痛くもかゆくもないだろう。それにしても「大した問題じゃねえ」だと? デリカシーの無さにもほどがある。現に葵は……。何だか悲しくなってきた。その一方で、体の奥底から熱いものが込み上げてきているような気がした。

 仕方がない。あの時のことを話そう。葵、ごめん。

「日和塚さんは泣いていたよ。日和塚さんが襲われたという話は、きみたちも知っているだろう? だからエッチな話を聞いて、その時のことを思い出した。それで……」

 ぼくは、あの時の光景を思い出しながら話した。そう、葵が床に座りながら、すすり泣いている光景を。すると――

「襲われたと言っても、胸を触られたり、揉まれたりして弄くり回されただけだろ。レイプされたわけじゃないし、大袈裟おおげさな!」

 鬼瓦くんに遮られた。

 レイプなんかしなくても、それだけのことをすれば、女の子を泣かして心を傷つけるのに充分だと思う。

 鬼瓦くんの発言が、ぼくに対してポンプの役割を果たしているのか、熱いものがどんどん込み上げてくる。

「大袈裟だと!? 日和塚さんは本気で泣いていたんだぞ!」

 熱いもの――マグマはぼくの喉元にまで来ていた。

「……ガチ泣きしてたというのか。とんだ豆腐メンタル女だな! 一遍いっぺん、精神科に見てもらえ!」

 豆腐メンタル――精神的にもろいことのたとえだ。葵はあの時の苦しみと未だに戦っている。それなのに……侮辱も大概にしろ!

 ぼくの体からマグマが噴き出すギリギリの状態になっていた。いや、既に少しずつ噴き出しているかもしれない。

「豆腐メンタルだと!? 葵があの時、どれほどの恐怖を味わったのか、そして、未だにその恐怖と戦い続けていることが、わからないのか!?」

 あえて日和塚さんと呼んでいたはずが、いつの間にか葵になっていた。もう……だめかもしれない。

「いまいちわからねえな。というか、何でテメーまで熱くなってるんだよ。クラスメイトとはいえ、赤の他人に。それもあんな豆腐……って!」

 いつの間にか、ぼくの手は鬼瓦くんの頬を殴っていた。鬼瓦くんがよろめく。

 普段は人に手を上げるような真似はしない。ましてや、相手は身長百八十センチはあり、体格もガッチリしている。そこそこのイケメンだが、目付きが鋭く強面である。こういう男を殴るのは、愚かしい行為である。それは火を見るよりも明らか。それにもかかわらず殴っていた。

 ぼくの身長は百七十センチもない。体格も痩せ気味。殴り合いでは圧倒的に不利である。勝ち目はほとんどない。それなのに――

 どうやら感情が理性を狂わせてしまったらしい。

「やりやがったな!」

 鬼瓦くんが反射的にぼくの頬を殴った。明らかに、ぼくのそれよりも重い。まるで大きなハンマーだ。頬に激痛が走る。ぼくは尻餅をついてしまった。

「わからないと言う前に、少しは想像力を働かせろ! 夜道で襲われるということが、どういうことか!」

 頬がジンジンするけど、怯まずにぼくは鬼瓦くんの頬を再び殴った。思い切り力を込めた筈だが、鬼瓦くんのものと比べるといまいち情けない。もっと威力が欲しい。

 たとえ喧嘩けんかに負けようと、鬼瓦くんにはそれなりの制裁を加えておきたい。そう考えながら喧嘩を続ける。

「もしかしてお前、日和塚のことが好きなんだな!? 違うか!? だからブチギレてんだろ!」

 鬼瓦くんがぼくの頬を再び殴る。やはり大きくて重い。口の中にほんのりと赤錆あかさびの臭いが漂った。

 ぼくたちの近くには、鬼瓦くんの取り巻きがいるけれども、ぼくたちの喧嘩に干渉する気は無いようだ。ニヤついたような、わくわくしたような表情を見ると、喧嘩している様子を見て楽しんでいるのかもしれない。

「そういう問題じゃない……! これ以上、葵が傷ついたら可哀想だろ……!」

 ぼくは鬼瓦くんの頬を殴る。三度目だ。ぼくが葵のことを好きかどうか、そんなこと今はどうでもいい。これ以上、彼女に傷ついて欲しくない。それだけだ。

 視界に一人の女子の姿が映った。女子は、ぼくたちから離れる方向に走っていった。あの娘は確か……

「図星だな!」

 鬼瓦くんが、ぼくの脇腹に蹴りを入れてきた。車にはねられる時ってこんな感じかと思ってしまうほどの衝撃だった。ぼくの体が回転扉のように反転した。反転中、視界に二人の男子の姿が一瞬だけ映った。こちらに近づいてくる様子だった。

 反転した後、素っ転んだぼくは壁に顔をぶつけてしまった。鼻から何か出てきた。これも赤錆の臭いがする……

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