まったくもってずるい人

 「それじゃ、おやすみ。また明日な」


 そう言って彼はくるりと背中を向けて帰ってしまった。私はぺたんと玄関に座り込む。悲しいだとか辛いだとか、それよりも先に呆気にとられていた。

 私は今さっき振られてしまった、らしい。らしい、というのはよくわからない。よくわからないのだけど、多分、振られた。

 サークルの飲み会の後、私を家に送り届けてくれた彼に向かって、「家に寄っていかない? お茶くらいは出すから」と一言声をかけたのだ。渾身の誘い文句だった。深夜に招くのは貴方だからだよって、お酒も入っていて、気分が良くて、ちょっと気が大きくなった。

 彼が眉を顰めて、早く部屋入って寝なよ、とだけ私に告げた。私は「ねえ、寄っていってよ。おねがい」と散々みっともなく縋り付いたが彼は意にも介さない。ちっとも振り向いてくれない彼が悔しくて悔しくて、私は思わず口走ってしまったのだ。


「すきなの」

「え?」

「すきなの」


 彼は顰めていた顔を今度は困った風にして、縋り付く私の腕をやんわりと解いた。そして、「それじゃ、おやすみ。また明日な」の一言である。

 それはそれはもう傷ついた。すごく好きだったし多分彼も好きでいてくれるのかな、と自惚れさえしていた。しかしそれはどうやら私の勘違いであったらしい。恥ずかしくて辛くて、泣くにも泣けなかった。

 そうして私は、何が何だかよくわからないまま部屋に戻って、化粧を落として、シャワーを浴びて、泥のように眠った。何も考えたくなかった……というよりは、何も考えられないくらい酔っていたのかもしれない。

 そんな失態を犯してしまった翌朝、というか、翌昼。寝不足のせいか微妙に体調は芳しくなく、今日の講義はサボってやろうかと散々思った。思ったものの、必修単位の講義だったこともあって渋々登校した自分は多分偉いので、今日は自分を褒める日にしよう。くそ、どうして昨日飲み会だったんだ。と平日のド真ん中に飲み会をぶち込んだ幹事を恨めしく思った。平日とはいえ、午後からの授業だったのは不幸中の幸いだ。

 がたん、と隣から音がして何気なく視線を向けて固まった。彼がいる。彼はちょっと笑って、おはよう、と挨拶を寄越してきた。『え、何もないんですか、昨日のことがあっても』と口に出して茶化してやりたかった。そうでもして触れてくれないと、いつまでだって死にきれない。でも、振があっても口に出すことは憚られて、私は大人しく口を噤むしかなかった。


「……おはよう」

「体調どう? 二日酔いとか、大丈夫?」

「うん」


 彼は至って普通に私を気にかけ、隣に腰掛けている。驚くぐらい普通だった。昨夜の私の告白は、もしかして夢だったんじゃないのか。

 頬杖をついて、口角を釣り上げて、こちらを見ている彼と目が合った。どきりと心臓が素直に音を立ててしまって、悔しい。私は彼の顔を見ることができなくて、そっぽを向いた。彼が喉を鳴らして笑っているのが聞こえて、私は思わずむっとする。なんなんだ、一体。傷心中なんだから放って置いて欲しい。

 私はもう一度彼を一瞥すると、やっぱり目が合ったので今度は睨みつける。彼は相変わらず楽しそうに笑っていた。あのさ、と彼が笑いながら私の顔を覗き込んだ。


「あれ、本気にしていいの?」

「……なにが」

「きのうの、」


 こくはく、と囁いた彼の熱っぽい声が耳を掠め、私は思わず彼から距離を取った。耳が、熱い。なんなんだ、なんなんだ一体、と頭の中でぐるぐる回る。

 彼は頬杖をついて、意地悪く笑ったまま、伺うようにこちらを見た。どきり、とまた心臓が正直に音を立ててしまう。


「おれのこと、すきなの?」


 彼はにこにこと笑みを崩さずに、私の答えを待っていた。私はどうしてこんな羞恥プレイみたいなことをさせられているのだろう。何度も何度も傷つけなくたっていいじゃないか。

 しかし、彼が昨日の告白についてなにも触れないことを不満に思っていた私がいたのもまた事実で、私の心臓は覚えていてくれたのか、と歓喜に震えたのも本当だった。


「っだから、きのうも言った……っ」

「うん、言ってたけど、あれはお前、酔ってたから」


 は?と呆けた声の私に、彼は今度こそ笑い声をあげた。周囲の視線がこちらをちらりと伺うのが雰囲気でわかる。彼は周りをちょっと見て、堪えるように笑い始めた。


「おれ、酔っ払いは信用してねーの」

「……は?」

「うん、だから、酔ってない時に告白して欲しかったから」


 だから聞いてみた、と彼は笑う。私はますます混乱するしかなかった。それは、つまり、どういうことか、逐一噛み砕いて説明して欲しいところだけれど、とりあえず目の前のこの男は随分性格が悪いらしい。


「酔っ払いは信用してないって、だからって、あんな風にスルーして、こんな風に聞かなくたって」

「ごめん……でもまあ、お前にしかしてないよ」

「……ますます、意味わかんない」

「うーん、伝わらないか。あー、あのね……おれ、うれしかったよ」

「うれしいの?」


 おれもおまえのことすきなんだよね。

 その言葉はもしかしたら幻聴だったのかもしれないけれど、確かにそう聞こえた気がした。心臓が殊更大きく音を立てる。それは、つまり、好意的に解釈してしまうと、『そういうこと』だろうか。

 よーいどんで合図して、そうして恋を始めよう。

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赤子の掌編 夜永小夜 @debussy727

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