素敵なお別れ
彼女は、僕が以前贈ったワンピースを着ていた。久しぶりに見たその品物は丁寧に扱われていたのか、色褪せることなく華やかに彼女を飾っている。眩しくて目を細めた。
「随分懐かしいやつ、着てるなあ」
「でしょう。でも、ちょっと若作りしすぎかな?」
「いいんじゃない? まだまだ着れるね」
「もう」
不満そうに口を尖らせた彼女が可愛くて、冗談だよ、と僕は笑った。何年経っても彼女は可愛かった。もう随分と長く付き合ってきた。
僕は彼女の足元がヒールなのを確認して、そっと彼女の腕を取って車に連れる。やっぱり今日は車で来て良かった。あの頃は、車なんて持っていなくて、痛い足を我慢して歩いている彼女にだって気が付かなかった。
「車なんて、あの頃は持ってなかったのにね。私達も大人になった」
「そうだな」
僕は口をもごもごとさせて、彼女に答えた。彼女も僕と同じことを思っていたらしい。そうだ、僕たちは大人になった。人間関係は広がって、あの閉鎖的な空間で出会った僕たちは、それぞれ違う世界を持っている。大人になるって、きっと多分こういうことだ。
彼女が乗っていた助手席のドアを開けた。今日の僕たちのデート先は、もう何回来たかもわからない海沿いのショッピングモール。
彼女は遠慮がちに手を差し出した。僕は笑って、「気にするなよ」とその手を取った。手のひらと手のひらを重ねるだけ。指は絡めなかった。
「あ、ここのお店閉まっちゃうんだ」
「なに、よく来るの?」
「ううん、貴方と初めてお茶したところだなあ、と思って」
よくそんなことを覚えていたな、と思った。彼女はよく、僕も忘れてしまったような取り留めもない思い出を掬い上げて、こんなこともあったね、あんなこともあった、と笑って呟く。僕は覚えていないのに、覚えているふりをして、ああそうだったね、と訳知り顔で頷くのだ。彼女は知っていただろうか。
映画を見て、彼女の買い物に付き合って、僕は新しいシャツを見立ててもらった。夕飯は、彼女が好きな店に入った。何回も来ているのに、散々悩んだ挙句いつもと同じものを頼むのは、ちっとも変わらない。今日くらい違うものを頼めばいいのに、とぼやくと彼女は眉を下げて、そうだね、と笑った。その顔を見て、僕は心の中で、あ、間違えた、これは言わなくてよかった言葉だ、と呟く。余計な言葉ばかりが口を出るところは、昔から少しも変わらない。
「この料理、本当に美味しいなあ」
「お前、いっつもそれだよな」
「いいでしょう、なんでも」
貴方には関係ないんだから、と彼女は零して、あっと言いたげな顔をした。彼女も間違ったらしい。僕たちは顔を見合わせて笑った。なんだか泣けてきて、料理が塩辛く感じた。
彼女を家まで送り届けるのも、いつも通りだった。おかしくなるくらい、僕たちが高校生の時から何も変わらないデートプランだった。変わっていたのは、僕に車があることと、僕たちの距離と、僕たちの面倒な心ぐらい。
「これで、終わりだね」
「そうだね」
「ありがとう。……家まで送ってくれて」
彼女が名残惜しそうに、僕の手のひらをぎゅっと握るので僕は斜め下にある彼女のつむじを見下ろした。彼女は俯いていて、その表情は伺い知れない。でもきっと、僕と同じで情けない顔をしているんだと思う。
きっと僕が言うべき言葉じゃないんだろうけど、僕はどうしても彼女に言いたかった。彼女は最後まで可愛かった。綺麗だった。大人になった。そして、大人になってしまった。でもそれはきっと、僕も同じだ。
「……しあわせになれよ」
「あなたが言うの?」
「茶化すなよ」
彼女は押し黙って、顔を上げた。綺麗に化粧をしたその顔は、やっぱりあの頃みたいにあどけない顔なんかではなくて、僕のよく知っていて知らない、大人の女性の顔だった。彼女から見た僕は、どう見えているんだろうか。僕も随分大人になってしまったのだろうか。
「……いいひと、見つけてね」
「お前こそ、それを言うのかよ」
「いいじゃない、お互い様。……ほんとうに、おかしいね。わたしたち」
彼女の大きな瞳が瞬いた。長い睫毛に縁取られた瞳が揺れる。滴がこぼれまいと耐えているようだった。僕は手を伸ばしかけて、やめる。これはきっと、今の僕がやってはいけないことだと思った。
彼女は笑って、それじゃあ、と背を向けようとするので、僕は慌てて彼女を引き止める。
「……これ、」
そう言って差し出した箱を受け取った彼女は、ちょっとびっくりしたみたいだった。最後だから、と言い訳がましく出てきた言葉に彼女は笑った。わかってるよ、とでも言いたげに。
僕は、今日という日に栞を挟む。そしてまた、いつか思い出した時に、彼女と過ごした日々は穏やかな毎日だったと懐かしむのだ。そうなればいい。そうなって欲しい。
僕は願う。彼女が幸せになればいいと。次に会うときは、お互い幸せであればいいのに、と。いつかこの幸福だった日々が、思い出の一ページになりますように。
いつからだろう。彼女との全ての日々が、過去の綺麗な思い出をなぞるだけになったのは。彼女との未来をあれだけ望んだくせに、お互いがお互いを過去の人にしてしまった。お互いとの未来が見えなくなった。きっと、大人になるってこういうことなんだろう。
「そうか、そうだったね。昨日だ」
「うん。……八年間、ありがとう」
彼女は最後に笑って、手を振って背を向けた。マンションのエントランスに入っていく彼女を、僕は今日見送らない。
僕も背を向けて、ついこの間買い換えた車のドアを開ける。
八年間と一日。僕と彼女は、確かに恋人だった。
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