あなたもわたしもいたいよね

 私を呼ぶ声で目が醒めた。最後に見た景色より随分と視界は明るい。頭が痛くて、思わず顔を顰めた。

 私を呼んだ張本人、彼は困ったように眉を下げて私の顔を覗き込んでいる。彼の顔を見るのも随分久しく感じた。


「おはよう」

「……いま、なんじ?」


 私は挨拶を返さずに、現在の時刻だけを尋ねた。彼は困ったような顔はそのままに、ジーパンのポケットからスマートフォンを取り出して、「四時半、」とだけ答えた。記憶は二、三時間前で止まっている。

 ベンチから立ち上がろうとしてよろけた私を彼が咄嗟に支えてくれた。私はストン、とまたベンチに腰を下ろす。気持ち悪い。彼はそんな様子の私を気遣って、ベンチの隣に腰掛け背中を摩ってくれる。やさしいひとだなあ、と思った。

 私はいつからここで寝ていたのだろう。明け方まで友人の家で飲んでいたことは覚えているけれど。彼は、いつ、どうして私を迎えに来たのだろうか。疑問は次々と浮かぶが、どれひとつ音になってはくれなかった。


「まだ酔ってるみたいだね」

「うん」

「歩いて帰ろうか」


 彼がそう言って、私を支えて立ち上がる。今度はしっかりと、自分の足で立てた。自分の足で歩き出した私を見た彼は、ゆっくりと私の後を歩き始める。

 徐に伸ばされた指先が、私の指先を捕まえた。指先と指先が絡む。指先だけを絡めて歩いた。


「どれくらい飲んだの?」

「けっこう、たくさん」

「……ごめん」

「うん」


 空は白み始めていて、微かに残った夜が街を青く染めていた。生ぬるい空気が頬を撫でる。朝の空気が冷たい季節は、まだ暫く来ないようだ。よかった、空気が冷たいままじゃ、あんなベンチで寝ていられない。


「私、なんであそこで寝てたの?」

「途中まで歩いてたんだけど、ベンチに座り込んで寝ちゃったんだよ。……まだ暖かいし、起こすのも可哀想でそのまま寝かせてた」

「そう」


 それだけを尋ねて、私たちはまた、白んだ空、青い街を家路に向かって歩き出す。のんびり、ゆっくり、私と彼は指先だけを絡めたまま歩く。彼は眉を下げたまま、重苦しい空気を慎重に破った。


「……おれが、悪いね」

「うん」

「ほんとにごめん」

「うん」


 彼は俯いて、私は前を向いて、歩いた。彼は私の二、三歩後ろにいる。彼が立ち止まったので、私も立ち止まる。絡んだ指先は離れない。


「別れる?」


 彼は聞いた。酷く不安げに、酷く辛そうに。彼は困ったような顔をしていると思ったけれど、よく見れば困ったような顔よりも不安げでゆらゆらと揺らいでいる顔をしていた。辛そうに眉を寄せて、唇を噛んで、今までに見たことがない顔だった。


「……別れたいの?」


 私はそれでも仕方が無いと思った。私と彼は所詮そういう運命だったのだ。絡んだ指先で結んだ約束すら、遠い過去に置いてきた。小指に結んだ赤い糸は、きっと私が断ち切った。


「別れたくないよ」

「じゃあ別れないよ」


 私と彼の関係は酷く脆い。彼が一言、もうやめよう、と言えば、わたしは一言、うん、と返すしかない。そういう関係だった。

 畢竟、私は赤い糸を繋ぎ止めておけなかったのだろう。私は、切りたくないと願ったあの糸を、きっと自分で切ってしまった。


「ほんとうにごめん。……なあ、そんな顔しないでくれよ」


 お願いだから、と彼は呟いた。そんな顔って、どんな顔だろう。わからない、わからないよ。私はなんにも知らない。知らないから、こうなった。


「謝って許してくれるなんて、思ってないけど、謝ることしかできなくて、ごめん」

「うん」

「なあ」

「うん」


 私は小さく頷くだけで、それ以外は何も声にならなかった。声にしなかったんじゃなくって、声にならなかったのだ。彼の方が、ずっと酷い顔をしているのに。彼は私の方が酷い顔をしている、と言う。


「おれ、お前のこと好きだよ」

「わたしもすきだよ」

「そっか」


 彼は愛の言葉を囁きあったというのに、辛そうな顔は相変わらずだ。そんなに痛いのか。わたしも痛い。いたくて、痛くて仕方がない。

 声が震えた。喉が焼けるように熱い。私は両目をぐっと開いて、込み上げてくるものを押し込むために、口を開いた。


「……わがまま、言ってもいい?」

「……うん」


 彼は解けそうだった指先に、ぐっと力を入れた。そのまま、指先だけ繋がっていた手が絡む。私もそっとその手を握り返した。


「……きらいに、なるかもしれないよ」

「ならないよ」

「……言ってもいいの?」

「うん、なんでも言って」


 全部、聞くから。お前のワガママ、全部聞くから。

 彼は辛そうな顔のまま、ゆるりと顔を弛めた。笑ったというより、泣きそうな顔だった。


「あのね。……もう、どこにも行かないで欲しいの」


 彼はやっぱり泣きそうな顔をして、「うん」と一つだけ頷いて、私を抱きしめた。彼は「ごめん」ともう一度だけ呟いた。私は今度こそ、「もういいよ」と返してあげる。

 赤い糸を、もう一度私と彼の指先に結んだ。今度は切らないように、切れないように。今日重ねた約束も、今度はきちんと持っていようね。

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