一日の始まりは美味しい味噌汁で

「あ、うまい」


 そう呟いて、口いっぱいに食べ物を頬張りはじめた目の前のこいつがあまりにもハムスターに見えたものだから、思わず笑う。長年一緒に過ごしてきたが、手料理を振舞ったのは初めてだった。もう二十年は一緒にいたのに、こいつは僕が作った手料理どころか、僕が料理を作れるということすら知らなかったのだから、幼馴染とはいえ知らないことも多いのかもしれない。

 自分も食事にしようと箸をとった時、目の前の料理と目の前のこいつをちらりと見て、少々足りなかっただろうか、と考えた。自分自身ではそこそこの量を用意したつもりだったのだが、意外と威勢よくがっつく幼馴染の勢いは、男子高校生に勝るとも劣らない。

 高校を卒業したのは数年前で、もうそんなに若くないはずなんだけどなあ、とまた笑う。男二人で、しかも男の手料理を囲むのもなんだか変な構図だが、それでも自分の作ったものを美味いと言って食べてくれるのは嬉しかった。


「本当にうまいよ、これ」

「そりゃどーも」


 口の端に米粒をつけたまま笑う幼馴染に釣られて笑う。こいつはいつも笑っていた。


「お前、絶対いい嫁になるよ」

「男なんだけど」

「じゃ婿だ」


 そう言って満足気に頷くと、また食事に手をつける。随分美味そうに食ってくれるなあ、と思わず顔が綻んだ。


「相手なんかいねえよ」

「じゃあやっぱ俺と結婚しようぜ」

「勘弁してくれ」


 いい案だと思ったんだけどな、と食事の手を休めることなく呟いて、味噌汁の椀を手に取る。何となくそれを目で追っていると、びっくりしたような顔の幼馴染と視線が絡まった。美味しいと言ったのは社交辞令で、本当は不味かったりしたのだろうか、と自分でもわかるくらい顔が曇る。


「……不味かったか?」

「あ、いや」


 幼馴染は曖昧な返事をして味噌汁をじっと見つめるので、首を傾げた。やはり不味かったのだろうかと思い、自ら作った味噌汁に口をつける。特段いつもと変わりない味なのだが、人によっては美味しくないと感じるのかもしれない。味噌汁は一番顕著に「家の味」というものが現れると思っているので、口に合う合わないはあるだろう、こればっかりは仕方ない。もちろん残念な気持ちもあるが、美味しくないと感じさせてしまうものをいつまでも食べさせるのは忍びなかった。


「残してもいいんだぞ」

「いや、すまん、違うんだ」


 慌てたようにそう言うので、またもや首を傾げる。それならば一体なんだと言うのだろうか、一体何に驚いているんだろうか。不思議そうにしている僕にやっと気づいたそいつは少し恥ずかしそうに笑って、似てたんだ、と一言だけ答えた。


「母さんの味噌汁に似てたんだ」


 それでちょっと、懐かしくなっちゃってさ。そう続けて味噌汁を飲み干す。僕はなんと答えていいかわからずに、視線をなんとなく目の前の椀に落とした。


「高校の時に母さんが死んで以来だから……えーっと」

「八年」

「そう! 八年ぶりだ。驚いたよ。すげー美味い」


 ありがとな、そう言って屈託なく笑う幼馴染に、曖昧な笑顔を浮かべて返す。なんだか後ろめたい気持ちだった。もちろん、なにか後ろめたい事があったわけじゃなかったのだが。

 沢山用意した料理のほとんど全ては、彼の腹に収まった。余った分は明日の分にでもしようと思っていたのだが、これは予定外だった。よくもまあこんなに食べれたものだ、と感心すれば、お前の料理が美味いのが悪い、と開き直られる。そんな彼に苦笑いを零しつつ、終始美味しそうに自分の料理を食べてもらうというのは悪くないな、なんて口が緩んだ。機会があればまた作ってやってもいいかもしれない。そんなことを考えながら食器を片付けていると、人の家のソファを占領しテレビのチャンネルをがちゃがちゃと変えていた彼が、いつの間にか近くにいて驚いた。


「うわっ……いつからいたんだよ」

「あのさ」

「なんだよ」


 少し気まずそうに視線を右往左往させていたが、あのさ、ともう一度繰り返して、今度は目を合わせてきた。


「今度から飲みに行った日、お前の家寄って味噌汁飲みたい」

「……は?」


 なぜ? 真っ先に出たのは疑問だった。

 だってそんなの、あまりにも唐突だ。別に困る訳では無いし、構わなかったけれど、なんの脈絡も無しにいきなりどうしたって言うのだ。しかもよりにもよって、味噌汁。

 様々な疑問は湧いて出てくるが、喉につっかえて思うように出てこない。困惑に首を傾げていると、照れたように笑う顔と目が合った。


「アルコール飲んだ後って、味噌汁がいいってよく聞くだろ」

「……初耳だ」

「ええっ」


 ガンッと効果音がつきそうなぐらい大袈裟に落ち込む幼馴染を見て、ふぅと息をついてキッチンを出る。シンクの中に食器はもう無い。

 全く、ほんとうに手のかかる幼馴染だ。別に味噌汁を作ること自体は何ら苦ではないし、構わないが、何が楽しくてこいつの飲み会が終わるのを家で味噌汁を作って待たなくてはならないのだ。相変わらず、どうして!? だの訴えてくる幼馴染を、仮にも俺たち男二人だぞ、と伝えて一蹴する。


「自炊ぐらいしろ」

「ひっどいなあ、今度いつお前の味噌汁が飲めるかわからないんだぞ?」

「……どうせすぐ飲めるだろ」

「わかんねーよー? もしかしたら明日俺が死ぬかもしれないだろ」


 何でもないふうに、口笛でも吹き出しそうな調子でこいつが言った言葉は、なぜだか深く突き刺さる。息が詰まった。


「……そんな、縁起でもないこと」

「人ってのはいつ死ぬかわかんないんだから」


 勝手知ったると言った様子で、幼馴染は急須に茶葉とお湯を注ぐ。その様子を、呆けた様に眺めていた。言葉が詰まって喉に引っかかるが、目の前のこいつは世間話でもするように淡々としている。それがどうにも妙だった。


「……健康体だろうが、病気で余命が1ヶ月だろうが、一日の価値はみんな平等だ、ってちょっと前に流行ってた小説でも言ってたじゃん」


 数年前に話題になった小説のことを言っているのだろう。自分にも覚えがあるフレーズで、流行りに乗って読んだことを思い出した。

 煎茶の、どこか懐かしいようなほっとする香りが漂い始める。幼馴染は、そろそろ頃合かな、なんて呟いて湯呑みに煎茶を注いだ。湯気がふわりと立ち上り、香りもまた湯気に乗ってやってくる。


「……うーんと、何話してたっけな。……ああ、そうだ。だからな、みんなに明日が来るとも限らないわけ」


 彼はそう言って低い声で呟くと、お前も飲むだろ、と言って湯呑みを突き出した。手渡された湯呑みは普段自らが使っているもので、何も言わずともそれを出せる幼馴染という存在に感心する。よく見ているものだ。

 しかし、幼馴染が「人の死」に関して、そのように考えているなど露ほども知らなかった。そして、低く呟いた時の陰を落とした表情なんて、こいつには一生縁がないものなのだろう、と漠然と考えてすらいた。それは自らのとんだ勘違いであった。

 やはり、幼馴染であっても、知らないことは沢山あるのだ。


「……それでも、飲み会の度に、味噌汁を作ってお前の帰りを待つ俺を想像すると、ちょっと気持ち悪い」


 いつもとどうにも違った雰囲気がすこし居づらくて、務めて普段通りに振舞おうとする。考えていることはあけすけに見えてしまっているだろうか。

 幼馴染はちょっと笑って、そうか? なんて言ってのける。


「そうに決まってんだろ、バーカ」

「わははは! やっぱ俺と結婚しようぜ!」



 *



「……なんて、そんな話を、お前としたのを思い出したんだ」


 ぽつり、一人呟いた。誰も自分の言葉を拾わない。拾うような人もいない。傘を忘れたまま、ひとり立ち尽くす自分は傍目にひどく滑稽なのだろう。雨が身体を打つ雨が冷たくて、思わず身震いをした。家に帰ったら、好きだった味噌汁でも作ろうか。


「……懐かしいよなあ。ほんとうに」


 ほんとうに、懐かしいと思えるぐらいに。その言葉は飲み込んで、指先の感覚が消えて冷えた身体を抱え込み、雨粒をこぼす空をぼんやりと見上げていた。

 月日はとても残酷で、世界は全く非情なものだ。月日というものは、人々の記憶を奪っていき、世界というものは、誰か一人が欠けても滞りなく回る。例に漏れず奪われてしまった、その記憶を、僕は必死に掻き集める。

 忘れたら、きっと君はもう一度いなくなるから。


「……もっと、作ってやれば良かったな」


 美味いと言って笑ってくれたあの顔は、色褪せて、霞がかったようにしか思い出せない。記憶は掠れ、思い出はモノクロームと化していく。

 そんなわけがないと、彼の言葉を一蹴してしまった愚かなあの頃の自分に、いつか言葉が届くのなら。


「……また、来る」


 もう帰らない君に、花束を。

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