赤子の掌編
夜永小夜
雨が降ったら会いましょう
今日は朝からずっと雨が降り続いていた。そのせいか、車通りも人通りもない大通りが窓越しに見える。しとしとと降る雨ならばともかく、窓を激しく打つような雨だ。人通りも少なくなるだろう。そしてこれもやっぱり雨のせいなのか、ただでさえ普段から人の気がないこの喫茶店は、より一層人の気がなかった。
そんな喫茶店の店員である僕はというと、かれこれ数時間前から持参した文庫本を読み耽っている。
もちろん、ここが人の賑わう店ならばこんなことはしていられないのだろう。
しかし、生憎とこの喫茶店は晴れていても客入りはよくなかった。ご年配のお客様が多いごくごく普通のこの喫茶店には、写真映えのするメニューはひとつもないから、もちろんSNS映えを気にする女子高生などが訪れることは皆無に等しい。あるのは美味しいコーヒーと、素朴なサンドイッチと、ぽつぽつとした味も見た目も変わり映えのないメニューだけ。
その証拠に僕と、常連さんである品のいい老夫婦、そして一匹の猫以外には誰もいなかった。
開いたままにした読みかけの文庫本を片手に、もうすっかり冷めてしまった珈琲に口をつけた。こうして勤務中に、お店の美味しい珈琲を飲めるだなんて喫茶店員は全く贅沢な仕事である。
品のいい老夫婦が、また来ますね、だなんて笑って帰っていった。それを温かい気持ちで見送った後、壁にかけられた時計が指す時刻を確認する。
そろそろ、彼女が来る頃だろうか。
読書は休憩することにしよう。なんだかそわそわと落ち着かず、読書どころではない。思春期の男子かよ、と呆れて笑ってしまいそうになる。エプロンのポケットに突っ込んでいた栞を文庫本に挟んだ時にはじめて、足元にじゃれつく猫に気づいた。いつからか喫茶店に遊びに来るようになり、気づいた時には居座っていた、看板猫のロドリゲスだ。ロドリゲスはじっとこちらを見上げて飛び上がったかと思うと、軽やかな足取りで僕の隣に座る。僕は思わず、珍しいこともあるなあ、と呟いた。
この看板猫のロドリゲスが、食事時以外に僕の所へ寄ってきたことなど、ただの一度もなかったのだ。僕は元々動物に好かれない質なので、あまり気にはしていなかったのだが、やはり間近で見ると可愛らしいなあ、とロドリゲスに視線を合わせようと椅子に腰かけたまま身を屈める。老夫婦のところで整えて貰ったのだろうか、綺麗に整えられた毛並みに恐る恐る手を伸ばせば、ロドリゲスは大人しく僕に撫でさせてくれた。これも珍しい。
折角なのでしばらく毛並みを堪能させてもらう。ふわふわの毛並みに気を取られながらも、僕はもう一度時計を確認した。思っていたよりもずっと遅い時間になっていて、あと数時間もすれば、店を閉めなくてはならない。
もしかしたら今日、彼女は来ないかもしれないな。
残念だが、仕方ない。こんな激しい雨の中じゃ、雨の日の常連である彼女でも外出しようとは思わないだろう。
僕にとって雨の日の店番はささやかな楽しみでもあったのだが、それは、名前も知らない雨の日の常連客である彼女に会えるからだった。
静かなこの街にはとてもじゃないが似合わない、耳につくバイクのエンジン音が聞こえてきて、こんな雨の中よくバイクなんか乗れるなあと半ば感心する。朝から降り続ける雨は、段々と雨脚が強くなってきていて外出が億劫になる程なのに。
バイクのエンジン音が遠ざかっていくと、喫茶店はまた、静けさに包まれた。
突然、にゃあ、と声を上げたロドリゲスが、するりと僕の手のひらから抜け出した。やっぱり僕ではお気に召さなかったらしい。お前は随分気分屋だな、と苦笑する。
そして、彼を追いかけていた視線の先に捉えた彼女に気づいた時、ロドリゲスが僕から逃げていった理由をようやく理解した。
彼女によく懐いているロドリゲスは、ゴロゴロと喉を鳴らして彼女にじゃれついている。
やれやれ、喫茶店員の男より、綺麗な女性のお客様が好きだなんて、やっぱりお前もオスなんだな。
どうやら、取り付けられているドアベルの音は、バイクのエンジン音と雨音に掻き消されてしまったらしい。
僕は、いらっしゃいませ、と彼女に笑いかける。
彼女は、その白い頰を一刷毛ほど赤く染めて、こちらを見上げたまま恥ずかしそうに笑った。
「こんばんは」
ああ、きれいだな。と、彼女の赤く染まった白い頬や少し雨に濡れた黒髪を眺める。あんまりじろじろ見るのは失礼になるのだろうが、どうしても彼女から視線を逸らせず、何となく居心地が悪いまま彼女が猫と戯れているのを見ていた。
視線に気づいたのか、彼女はロドリゲスに合わせて屈んでいた体をすっと伸ばして立ち上がり、今度は僕と視線を交わす。
色素の薄い綺麗な瞳に僕が映った時、心臓が変な音を立てた。
「雨が降ったので、また来てしまいました」
はにかんだ笑顔を浮かべた彼女に、今日こそ名前を聞くことはできるだろうか。それに、雨が降っていなくたって僕は貴方を待っているのに、なんて。
彼女に言える日は、まだ来ない。
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