夢遊病者の歩く港町にて。右手に観覧車。目の前に囚人ども。左にらぶい二人。ども。らぶい奴らめ。いつまでも大切に。遠くから。噛み締めて。

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第1話

忘れては居ないですよ。人の〈事情〉や〈家庭〉に、こちらの夢も感情も投影しないので。外で音声を記録する事で《夢》を見ない為です。但し、それではこちらの《絶望》に負担を巻き込む事へと繋がるので、今夜の食器の洗浄の全ては私が。誤解する方が多いので先に伝えます。何があろうと、あなたの味方であることに変わりはない。《TENET》や《BATMAN》、それからその他のアンチヒーローものを見ているのであれば、彼らの街への見方や関わり方、それ以外のホロコーストへの対処する方々との価値観を生かした生涯に現実への繋がりを与えています。要は《居場所を生む》と云う事。一年ほど過ごしたので、既にシュルレアリスム、反出生主義思想、その他の迫害へのメスを入れる思想やナチュラリスム、詩と劇を介して表現の場を授けたフィールド。22日には一度に会する座標が用意されています。文筆家のための集いです。こちらの現実法則を彼らのその先の作家業へと提供する事に。研究者であれば、論文執筆の為の新たなテーマや事物への捉え方への変容。錬金術師と同一の認識を見つけて頂く。こちらの生存過程を生かさなければ、人や街へと投影されるだけ。そうは成らない為の命題への第三項の呈示。二項対立における闘争反応に向けた、新たな選択肢の呈示。初めからお遊びは終わりなのだと云う事。5歳の頃にチーちゃんやカタツムリ。げろぴょんにメロンとミミとタマ。それから妹を大切にする為の童話や替え歌。電子ピアノと恐竜のおもちゃ。トイザらスと舞浜。それから二人の優しさと悲しみ。それらを無駄にはしない為の現実への関わりを生み出す日々を送っています。我々全体に於ける命題への答えが呈示されるのは5年以内に終える作業。その間にお世話になった同業の方や迷えるかつての我々の残骸とその先の絶望に苦しむ駅前に座り込む方々。保護犬救助活動やカウンセリングや薬物療法、行政に頼る事でしか生き永らえない無価値とされた我々の同胞。彼らに居場所は与えることは出来なくとも、いつもの様に夢では無く、事物の呈示を。人や街では無く、現実へのアクセスを。図書館やローマへの見方と生き方。これらを類推して錬成する新たな警句の伝授。例えば、《全ての道はローマへと通ずる。》これをこちらの価値観で再錬成することで、《全ての道はロマから通ずる。》根無草である我々の本質と時間の不在することで夢に投影し出す、その方なりの現実法則から成る記憶と自我の投影。社会的自己ではなく、その方の目の前の方を大切にする為の新たな法則の錬成を促す。先祖の始めた悪夢に囚われること無く、その方の見たいものや、生きたい文化圏へと繋がる為の《杖》の発見する為の視野の養成。図書館に行く前の我々の子供たちへの脱出策を生み出すと云う事。冬に人は夢に囚われ互いに争い、本質へと辿り着く事が多いのだそう。冬の絶望は春に仕込んだ枯葉の様なもの。決して投げつけても為らない。噛み締めても為らない。ただ目の前のその子の先を見つめて生かす。必ずその子の事物としての価値を尊重する。でなければ事情に囚われ、日頃から駅や街、収容施設で行われた法則が作用する。そう為らない為の嘯いた街の無価値化でしか無い。本当はどんなものであれ、自分にとっては大切。ソフィもミミもあなたも妹も、それから他の関わりのある方々。例外無しに皆大切な存在なので。人とは異なる価値観で生まれたとしても、話せば必ず理解してくれたし、それでは我々に挨拶や人間関係などは不在したままで良いと信じている。人は遠くから眺めることが難しいのだけれど、僕には愛も死も、初めから齎される事は無かったのだから。人が争うその最中に於いても、我々は笑うしか方法の無くなった、目の前の暴漢やご老人、あなたのような心の優しい母や父。その先にまで水を届ける事が出来たから。初めの現実を生かすだけ。人にはその先に見えても、僕には5歳の頃に見つけた現実法則。虫探しをしたくは無くても、そうした事情と、運命とされた現実内容のおかげで祖父のことだって大切に見つめることが出来るから。必ず祖母の始めてしまった、あなたたち二人の悪夢や、僕の父の囚われた先祖の悪夢と、その継承と存続。ゴミ屋敷も骨董品も、カルト思想にだって居場所を与えない。この先に夢は見せない。ただの僕らのかつて生きるはずだった、現実生活の建築。修道院に夢を見たところで、習慣的にあの土地を見つめていれば、玄関の不在する日常を送る事になる。街も部屋も、互いに大切な居場所なのだと云う事。ロマに居場所が無いとされたところで、我々の暮らすこの場所が、夢と現実の投影先でしか無い。そこで生まれた事情などに価値は与える必要が無い。共に生きる為。寄り添うのでは無く。その先の現実と、その人の見たい世界を遠くの国へと見つけて頂く為。僕らの輪郭が曖昧なもので在れ、子供や恋人、両親やその他の隣人たち。人では無く、街でも無く、我々の現実に残された記録に投影するといい。映画館での過ごし方を考えるに当たって、参考にしてくれた、あなたの生かした〈僕らの信頼〉に命を与える為の、ご褒美から抽出した答えを伝えて記録を終える。《TENET》を一番後ろの席で見ると云う事について。前列には《夢遊病や、睡眠に生きた場合に於ける我々》。真ん中の列には《明晰夢の中を彷徨う、繰り返される日々を生存した我々》。あの日の僕らの座るその席から眺めた作品世界が、現実の捉え方としては、僕の現実感覚に近しいものだから。隣の空いた席に座らせるとしたら、彼らの名前も不在する。それでも会話に持ち込むにあたって名付けたとすれば、Johann Wolfgang von Goethe, Simone Weil, Blaise Pascal, Erik Satie, Ernst Jünger, André Breton, Vilhelm Hammershøi, J. M. G. Le Clézio, Andreï Tarkovski, Christian Boltanski etc. 彼らの残した記録を学ぶ事で、僕はこれからも生きると決めた。大学に通えなくとも、図書館や研究者の話す内容にはアクセスする事が出来たから。社会の為より人の為。我々の罪としての《ホロコースト》や、祖父に見せた悪夢。70年前の愚かしさと集団自殺を見つめる事で夢を見せずに、あの子が10歳になる頃に僕と同じく、轢かれる事や飛び降りる事への関心さえも初めから終わらせる事が出来る。誤解された所で、僕らの幼少期に纏わる事物の想起によって、誤解を元にしたパラノイアを起こさずに済む。あの子が泣いても僕は笑わない。あなたが虐めたところで、僕はあなたのことを見つめ続けた。夜の7時頃に繰り返された、壁際でのあなたの自傷。それを許したから、その先の迫害生活を生き存える事が出来た。冷やかす事で寂しさは埋まる。そこに人間関係が形成されるからだ。僕は冷やかさない。初めから《お遊びに価値は無いよ》、と黙示する。梅組の皆んなにも存在を否定されたので。僕の現実は、あなたの絶望を癒す事が出来る。必ずあなたをフランスへ連れて行くので。その時までの家庭や生活、その他の事情に寄り添うことが出来るのは、あの子達。僕らの大切な行政の方や、あの子達。誰でも間違えは起こしてしまう。それは仕方の無い事。誰も生き方なんて知らないままに、結婚や出産、家出、就職、自傷、放浪、絶望を生かしてしまう。誰もが互いを事情や関係無しに助け合えば、どんなに無価値な事物であれ、必ず目の前の方の慰めでは無く、生きる為の《杖》や《水》へと変わる。互いを理解出来なくとも、同じ手の形をしているのだとか、同じ耳の形、同じ体毛、本当は怖く無い翅の裏側。これらを捉えたのなら、後は最後の微風を浴びせて、明日に向かって銃を構える事も無く、路地裏の安全な場所へと連れて行ってあげたらいい。そうして互いに水を分け合う。始まりも終わりも、我々の本質的な姿に変わりは無い。夢であれ現実であれ、そこが僕らの生きる世界なのだから。頭のおかしなカルトに生きる必要などは無い。出生理由や、故郷の習慣、先祖の遺した殺人道具に命を与える事は無い。捨て子や迷子、家無き子の我々が互いに優しく生かし合えば、もう二度と争いに苦しむ事は無い。目の前の闘争に子供は不要。人や街では無く、記録へとご自身の現実感覚や夢と願いを投影すればいい。残された記録を大切に見つめて学ぶといい。それが夫婦喧嘩や家庭内暴力に於ける《カルト思想》への第三項の呈示へと繋がる。人を見つめた際の姿勢に必要となる感覚を伝えて今夜の記録を終える。

《目には目を、奥歯に花を。》

これを唱える事で、その瞬間に噛み締める事無く、その子の事を赦せる。僕は確かに、あなたの元から誘拐される生涯でした。それでも僕らの認知症やアル中の女性にだって、母も息子も失われたから。彼女に捧げる言葉が無くとも、僕らで悪夢の存続を終わらせる事が出来る。彼女の始めた悪夢の人生に囚われる事は無い。必ず最期に駄菓子を舐めさせるし、そうして人は後悔と絶望、僅かな救いを頼りに、この世を去る。決して置き土産を残す事の無いように終わらせる。求めた答えは初めから誰もが向き合えなかった事物に隠された。箱の中は空っぽでも、そこに入れる為の《現実》であれば、誰しもその人なりの価値観として失う事が無かった。不在する現実原則を生かすといい。その人が物語を建築するだけ。人を生かす為。罪を生かす為。その日に間違えない為。互いに寄り添う事無く、遠くから生かせばいいのだと云う事。縁を切る必要も無い。縁を生む必要も無い。ただ思うままに人を生かして過ごすといい。ミミやタマなら、初めから教えてくれた。チーちゃんも7歳までには学ばせてくれた。その他の小人たち。さっき駅で遊んだ鳩の三人。誰もが僕らの言語を必要としない同胞だから。必ず生きる事が出来るので。悪夢の中を彷徨うのでは無く、現実の、その先を。不在したままでは居させない。僕らが間違えなければ誰も死なない。誰もが笑う事無く、互いを大切に見つめる事が出来る。テレビの電源ボタンを押して会話をしない事への誤魔化しをせずとも、人は互いに寄り添うことが無ければ、必ずその先の事情を生かす事が出来るから。異なる言語で生活する難民の方であれ、駅で犬の殺害状況を報告する方であれ、誰もが互いを恐れて生活する。そこには僕の生かせなかった現実原則が不在する。人が夢を見たり、驚いたところで、それが僕にとっての5歳の頃から変わらない関わり方だから。人には誤解されても、それが僕の習慣や日常だから。夢にはしない。遠くから僕の生涯を眺めて必ず現実に戻す。必要だから。無価値じゃ無い。誰もが僕にとっての大切なお兄さんやお姉さんだから。そこに事情や人間関係から成る夢は不在する。《事物を生かす》と云う事。僕の現実。人の夢。僕らの明晰夢。既に SNS にも時間を割かない。メールや電話も通知を止めた。アプリでは無く、サイトにアクセスするだけ。冬までにアルバイトで30,000円を用意して、5年ぶりに PC を購入する。論文や連絡を保持する為。手伝って頂ける方は幾らでも話し合える。僕らの人生だ。小さな事情に居場所は与えない。あなたの囚われた悪夢を生かさない。生前に人が口にするこの世の真実を参考にして生きていく。遊びは初めから終わっていたと云う事。あの頃と何も変わらない。僕の一人遊びが明日の僕らを生かす。冬のその先を生きる為。必ず答えも呈示する。僕の大切な家族だから。初めと何も変わらない。夢には寄り添わない。全てが妄想でしか無い。人にとっては町内会やクラス、野球部に全体行動をさせる為のルールなのだとしても、それで僕や僕のペットが殺されてしまうのならば。僕は事情に寄り添わない。ソフィやクロエ、シェリーとトマシン。アオちゃんだって、知らせてくれたから。僕は二人を生かす。あの子たちにも同じ絶望は与えない。僕らの罪だ。あなたのでは無く。幾らあなたが自分の罪なのだとこじつけたところで、僕にはただの妄想や慰め、その他の夢遊にしか捉えない。あなたは何も悪く無い。仕方の無い事だから。幾ら叫んでも僕は寄り添わない。父や祖父とは違うから。人とも関わらないし、死と愛も初めから価値を感じなかったから。僕があの子の自殺を止める。この先の10年間での出来事だ。僕と同じで通学路を俯きながら帰宅する。そこに落とされた不思議な異国のお菓子に記されたのはラテン語警句。あの子が《空虚》に見惚れない為の、口癖にする為の。いつもの事だ。あの子の呼び名に取って代わるものが良い。柑橘類や夏休み、冬の海や小人たち。建築や調理に関する内容のものを用意する。幼稚園の頃に皆んなで遊んだことの延長だ。ポケモンの名前を繋げ合わせたり、電子ピアノで歌った替え歌とか、その他の社宅での遊びの数々。それが鍵となる。人は追い求めても、僕は初めに教わった。ある日の朝に、池に散歩へ向かった。僕らは池の目の前で立ち竦む。目の前には黄色い虫が泳いで来る。それを《ミズカマキリ》なのだと知っていたところで、彼にとっては《タイコウチ》。鎌も太鼓のそれも人を殺す為の道具。僕らの見たのも一つの水生生物。見方が互いに異なると云うだけの事。同じものを見つめても《類推》か《分類》によって、認識手段を変えることにも通ずる。ゲーテが頼りになる。人を見つめるのはヴェイユ。本質を捉える為のサティ。図書館であれば幾らでも。無意味な祝祭だろうが、愛の完成だろうが、Odoradek である事に変わりは無い。我々の全員がある朝、夢から目覚めて甲虫へと変わるのだと云う事。お遊びをする為の〈SNS版 恋愛シミュラークル/ふたりはクルミっち! マックス⌛︎ニール!〉にだって価値は無い。見たいものを好きに見たら良い。タマに水をやるのと同じ事。タマはその箱の中で砂山になっている。ミミも僕が埋めたまま。今では二人とも夢に投影するだけ。それでも声や感触、記憶にアクセスするには、街や家庭の事情から目を閉ざす必要がある。どちらも僕にとっては同じ映画館での人形劇でしか無いけれど、それでも僕には現実だから。そこは初めから誰にも理解しては頂けない。ノーランくらい。これまでに知ったのは。《TENET》や《INCEPTION》を描いた人。いずれお話しすることが出来たらいい。近所の彼がノーランの友達だから。僕が英語を話さなくとも、彼なら子供の頃からミッションスクールで育ったから。高校生の時に食事会で話した j-wave の彼。僕らが諦めても、彼らは生きるから。残すものなど無くとも、自分から終わらせる事は無いから。なので心配するだけ無駄な事。自分のことを大切に出来るのは僕以外の人にしか務まらないから。僕にはもう、この体を生かしてあげる余裕が無い。人には出来ても、僕には〈カルト暴力〉は耐えられない。だから寄り添えない。遠くから生かすだけ。図書館や先人と学びながら。映画も一番後ろから。夢も見ずに、事物を生かす。それだけ。誰もが公園から出る事も無く一生を夢遊して終わるけれど、それでも生きることに価値は在るから。その日に囚われたところで、習慣や価値観がその人を生かすから。《無価値なのだ》と思ったところで、それを生かす為の生き方を既に送っていたのなら。必ずその人たちだって別の選択肢に目をやる。初めから悪夢を産まずに済むと云う事。僕らの先祖の夢は叶えない。僕らの生きる為の世界だ。生きて、殺さず、産む事無く。必ず全員無事に終わらせる。この先に未来など与えない。互いを大切に生かして終わらせる。悪夢の存続を止める為。同じものを見せない為。僕がミミを夢にしない為。埋めたのは誰とも葬式ごっこで遊ばせない為。お爺ちゃんの時も、お婆ちゃんの時も、他の皆んなの時だって。そこにはヒーリングや YouTube の検索した楽曲が流されたから。僕には本当に訳が分からない。一体皆んな何をしていると云うの。それでも人は互いに寄り添い夢遊して過ごすと言うから。僕は寄り添わない。彼らの絶望の先に居場所を与える。止まらぬ為に。見たいものを見るために。その人なりの求めた世界へと繋げる。ローマであればフィズィリを。パリであればマカロンを。そうして初めから脱出ロープを提供する。その日に枝に結ばせないため。それではこれで。洗い物は生きる為。決して雑用などでは無い。レストランでも学んだから。人が生きる為の日常生活。無価値な事なんて何も無い。また。お休みなさい。また斉藤さんとお話しするので。いつでも相談相手になってはくれるはずだから。あなたは絶望する必要が無い。互いに協力して憎しみも生まずに生かす事。間違えたところで僕が秘訣を教える。必ず悪夢を終わらせる。誰も争う必要が無い。僕にとっては初めからお遊びに過ぎない。翔くんやちーちゃんだって教えてくれた。亜美ちゃんや萌ちゃん、彩ちゃんだって。僕らは初めに社宅で暮らせたから。その先はただの余生でしか無い。なっちゃんだって、いつかは僕と話してくれるから。同じものを見せては為らないからね。本当に。僕らで終わらせる。続きは先祖にはやらない。僕らの生きたい形で生きるのさ。互いに遠くから記録を残して。強く生きる。必ず出来る。図書館と美術館。隈なく見渡す事で絶望はただの悪夢に過ぎないのだと。ミミだって笑っていた。僕はミミのことは思い出せないけれど。悲しいのはそれだけのこと。他は何でもいい。どんなことでも許せるのはその為。無価値な明晰夢さ。枯葉を捨て去り終えるだけ。オペラハウスはこの先に待つ。プラハでは無く。パリを見つめて。

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夢遊病者の歩く港町にて。右手に観覧車。目の前に囚人ども。左にらぶい二人。ども。らぶい奴らめ。いつまでも大切に。遠くから。噛み締めて。 u @mir_ewig

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