アネモネ

ケイ

アネモネ

 私は博士が大好きでした。

 私は博士によって作られた人造人間です。

 目覚めたとき視界に広がっていたのは、ひび割れた白い天井でした。私は台の上に寝かされていました。そこから身を起こすと、体の至る所につけられたケーブルがカサカサと音を立てました。


「おはよう」


 寝台の脇に白髪混じりの男性が一人いました。男性は車椅子に座って、柔らかい笑顔を浮かべていました。その人が博士でした。

 博士は「アネモネ」という名前を与えてくれました。アネモネは博士が一番好きな花でした。

 博士は残された最後の人間でした。博士は事故で両足を悪くしていましたので、車椅子での移動を余儀なくされていました。だから、その車椅子を押して身の回りのお世話をすることが、私の役目でした。

 博士は私が目覚める前にデータベースとして、様々な知識をインストールしてくれていました。そのおかげで、自然科学や人文科学を始め、膨大な知識群を私は先天的に有していました。


 それでも、私にはまだ足りない知識が存在しました。

 それは博士に関するものでした。


 秋の昼下がり、博士と私は銀杏の並木道を散歩していました。赤茶けたレンガで舗装された道に、銀杏の葉の黄金が映えていました。高さの低くなった太陽から降り注ぐ穏やかな光が、衣服を通して肌に温もりを与えていました。


「あの、博士」

「なんだい、アネモネ」


 博士の乗った車椅子を押しながら、その背に私は話しかけました。


「私、博士のことが知りたいです」

「アネモネはたくさんのことをもう知っているじゃないか」

「ここには博士しかいないのですから、それ以外の知識は無意味です」


 博士は頭の後ろを掻きました。

 私と博士が黙ると、車椅子が揺れて立てる音だけが宙に響きました。


「教えてください」


 と、私は強く言いました。博士は頭の後ろを掻くのをやめました。そして、気が進まない声色でしたが、


「……そうだな、今日から少しずつ話すというのは、どうかな」


 と、約束をしてくれました。 

 その日から、私は少しずつではありますが、博士のことをより深く知っていったのでした。博士の物語はすでに与えられた知識に比べて、瑞々しく、私にとって価値がありました。なぜなら、それはどの書物を探しても書いていない、貴重なものだったからです。


 ◇◆◇


 博士がしてくれた話のうちで、私に強く印象を与えたものが二つありました。

 一つ目は、昔、博士がココロに関する研究を行っていたことです。

 博士と私は無機質な研究所から、海辺の小さなコテージに移り住んでいました。コテージは木造でかなり痛んでいましたが、二人で暮らすには十分でした。

 博士は開けた窓から流れてくる海の囁きが好きでした。その夜も博士は、窓の外を眺めていました。窓の外には月光に濡れた砂浜が広がっていました。博士の肩には体が冷えないようにと、私が用意したタオルケットがかかっていました。

 私は博士のすぐ隣に腰掛けて、同じく窓の外を眺めていました。

 そして、博士は外を見たまま、私に話しかけました。


「僕はね、ココロの研究をしていたんだ」

「ココロ、ですか」


 と、私は言いました。


「アネモネはココロが分かるかい」

「ココロの意味は認識しています」


 博士は少し笑ってから、微かに俯きました。博士の横顔は陰り、表情が見えづらくなり、話す唇だけが月光で青白く光っていました。

 

「私の中にもココロがあるのですか」

「どうして?」


 博士は俯いたまま、問い返しました。


「だって、私は博士に作られたのですから」

「答えはイエスであり、ノーだ」


 私は首を傾げました。

 

「科学はココロの秘密を、客観的に、暴いていった。そうして定義されたココロは、アネモネの中にある」


 博士の唇は遠い昔の日々を偲ぶように、少しの間黙りました。


「けれどそれは、種に過ぎない」


 博士はポツリと漏らしました。


「研究にのめり込んだ末に、僕はその種を見つけた。しかし、その種から花を咲かせられなかった」

 

 博士の声は掠れて、非常に聞き取りにくいものでした。遠くから聞こえる潮騒に紛れて、消えてしまいそうでした。

 博士は、ゆっくりと私の方を向いて、私の目を見つめました。


「種から咲くココロの姿を、アネモネはまだ知らない」


 私の耳の中にその言葉がはっきりと残りました。言葉を発する博士の唇の動きから、漏れ出した吐息の音に至るまで、何もかもが今も記憶に残っています。元から私の中にあった何かと符合するために、その言葉は生まれたと言っても過言ではありませんでした。

 

「ココロはきっと素敵なものなのですね」


 と、私は言っていました。博士は表情を変えずに、続く私の言葉を待っていました。


「博士のような方が、追い求めるくらいのものですから」


 私が言い終えると、博士は何も答えず、いつものように笑顔を浮かべました。それから、私の頭を撫でました。


「疲れたから、今日はもう寝よう」

「わかりました、博士」


 私は小さく頷きました。

 この出来事は、私が目覚めてから半年くらいが過ぎた頃のことでした。私と博士とのお話の時間は、気づかないほど僅かにではありますが、日に日に短くなってきていました。


「続きはまた明日」


 ◇◆◇


 二つ目は、博士が奥さんと娘さんを亡くした事故のことです。

 私は以前、博士に頼まれて、一人で研究所に本をとりに戻ったことがありました。その本は博士がもともと居室として使っていた部屋に置かれていました。博士の居室は壁一面が本で埋め尽くされていました。それらの大半は専門的な学術書でした。私は頼まれていた本を見つけ、手に取り、ホコリを払いました。

 そのままコテージへ戻ろうとして、本を抜き去った隙間に一葉の茶けた紙があることに私は気がつきました。本を持った手と反対側の手で、その紙を抜き取ると、それは古い写真でした。写真には若い博士と、若い女性と、その二人の間に一人の女の子が写っていました。

 電力の供給が断たれた現在において、電子媒体として残された記録を見ることは不可能ではありませんでしたが、難儀なことでした。そして、博士の周りには彼の過去を語る思い出の品というものが何一つありませんでした。だから、博士自身から聞かせてもらったこと以外に博士の過去を私は知りませんでした。また、知ろうとも考えていませんでした。博士の物語は博士に教えてもらう、それは私と博士の間の約束だったからです。


 私が目覚めてから幾年かが過ぎていました。その頃になると、博士はベッドで寝ている時間が多くなっていました。コテージの外には冬がやってきて。雪がうっすらと降り積もっていました。けれど部屋の中は、暖炉に灯った橙の炎のおかげで、温かく保たれていました。

 私はたまたま見つけた果樹園でリンゴをいくつか摘み取っていて、博士のために剥いてあげていました。私は器用ではなかったので、剥いたリンゴの形は不格好でした。それでも博士は何も言わず、美味しそうに食べてくれました。


 リンゴを食べ終えてからしばらくして、博士が何度か苦しそうに咳き込みました。

 私がその背をさすろうとすると、博士はそれを手で制して、笑いました。その笑顔を見て、私は前から疑問に思っていたことを尋ねるのは今なのかもしれないと、ふと考えました。その考えは、自分の内側にある認識しきれない回路を流れた、一筋の閃光のようなものでした。


「博士、私は娘さんに似ていますか」


 博士は私にたくさんのことをお話してくれました。けれど、唯一、奥さんと娘さんの話だけはしてくれていませんでした。

 博士は一瞬だけ目を大きくしました。


「どうして、娘のことを知っているんだ」


 私に娘さんのことを尋ねられたことは、博士にとってまさに青天の霹靂だったことでしょう。私が博士の居室で古い写真を見つけたことを話すと、博士は困ったように眉を寄せました。


「隠していたわけではないんだ。ただ、どう説明しようかと悩んでいたんだ」


 博士はベッドの背もたれに寄り掛かって、深く息をしました。白髪混じりだった博士の頭はいつの間にか、外に降り積もる雪のように、全て白くなっていました。

「その写真はここにあるかい」と、言われたので、私はこっそりと持ち歩いていた写真を博士に手渡しました。

 すると、


「まだ、残っていたんだな」


 と、博士はポツリと漏らしました。


 ◇◆◇


 博士の奥さんと娘さんが亡くなったのは、とても素敵な夏の終わりでした。

 当時、博士は研究だけで明け暮れる日々を送っていました。起きて真っ先に考えることも、寝る直前に思い描くことも、全てが研究で染まっていました。もちろん、博士は自分なりに家庭を顧みることもありました。しかし、人間同士、齟齬というものは必ずあるものです。

 ある日、「あなたは自分勝手すぎる」と、奥さんに言われたそうです。研究を自分の役目と言うのならば、娘を愛することも博士の役目であると、奥さんは博士を諭しました。そのとき、博士はすっかり忘れていましたが、娘さんの誕生日があと数日に迫っていました。

 奇しくもその日は、あの災厄の始まりの日でした。すべての人類が、地を這う虫ケラのようになす術もなく死に絶えていった、あの災厄です。

 娘さんの誕生日に、博士はいつもと変わりなく、研究所へ出勤していました。ただし、研究はその日の午前で切り上げ、午後は娘さんと一緒に過ごす約束をしていました。少し遠出をして、ランチをする予定でした。この日のために博士は、娘の誕生日プレゼントとして、テディベアを買っていました。十歳ばかりになる娘が何をあげれば喜ぶか分からないなりに博士が考えた結果としてのテディベアでした。

 時計の針が正午を告げる頃、博士は帰り支度をしている最中でした。パソコンの電源を落とそうとすると、ちょうどパソコンにかけていた数値計算が終了しました。遅れることがないように、博士は研究を予定より一時間早く切り上げていたので、まだ時間には余裕がありました。だから、その計算結果をざっと見ようと考えました。

 しかし、この計算結果が博士の研究に価値を与えるものだったのです。博士はパソコンのスクリーンから目を離せなくなりました。時計の針が一定のリズムで時間を削っていき、約束の時間を過ぎても、博士の思考は戻ってきませんでした。


 博士の集中を途切れさせたのは、大きな地響きと爆風でした。壁の棚からは本が滝のように雪崩れ落ち、机の上に置いてあったマグカップが落ちて甲高い音を立てて割れました。全ての窓ガラスが外からの風圧で砕け散りました。

 博士がスクリーンから顔を上げると、廊下を慌ただしく走ってくる足音がしました。部屋のドアが勢いよく開け放たれると、西日が室内に侵入し、博士の目に染みました。走ってきた人物は肩で息をしながら「大変です」と、叫びました。


 博士はその人物の説明を全て聞く前に、着の身着の儘で走り出しました。全ての交通網が麻痺した中、博士は駆けていきました。

 たどり着いた自宅は、まだ辛うじて残っていました。博士は大声で奥さんと娘さんの名前を呼びながら、中へ入っていきました。

 そして、廊下を抜けて、リビングへの扉に手をかけて、開けました。

 その先に見えたのは、固く繋がれて、血に塗れた、大人と子どもの手でした。全身に割れた窓ガラスが突き刺さった、奥さんと娘さんの姿でした。

 博士は駆け寄りました。まだ娘さんの方は、胸がわずかに上下していました。しかし、博士を見て娘さんは「痛いよ」と、言って事切れたそうです。これら全ては、博士のせいでした。一つの役目に固執し、父である役目を疎かにした結果でした。

 博士が現実を受け入れられないでいると、外で誰かが「崩れるぞ」と、叫びました。博士の耳にその叫びは他人事のようにしか聞こえませんでした。ゆっくりと視線を上げた博士の目には、落下してくる天井が焼きついていました。博士の耳には、自分のあげる鋭い慟哭と娘のすすり泣く声の残響が残り続けていました。


 ◇◆◇


 「そうして僕は車椅子なしでは生きられなくなった。当然の報いさ」


 博士は自分の手を固く握り締めました。私はそっとその手を取りました。


 「娘と妻を殺した人間が、おめおめと生きている訳が分かるかい、アネモネ」


 と、博士は尋ねました。

 私が首を横に振ると、


「きっと必ず、分かる日が来る」


 と、博士は私の頭を撫でてくれました。

 それから、博士は私の剥いたリンゴをまた一つに口に運んで、「娘が初めて剥いてくれたのと同じ味がするよ」と、悲しく笑いました。


「続きはまた明日」


 ◇◆◇


 博士が亡くなったのも、とても素敵な夏の終わりでした。気がつけば、忙しなかった蝉時雨が、ツクツクボウシの独唱に変わるころでした。

 その日の朝、私はいつものように博士の寝室に行き、部屋のカーテンを開けました。夏のムッとする空気も和らぎ、過ごしやすい天気の日でした。

 博士は昨晩と変わらぬ姿で、ベッドの上に横たわっていました。けれど、様子がおかしいのです。私はすぐに気がつきました。夏の間にたくさんみかけたセミの抜け殻と同じだったからです。そこに横たわっているのは博士であったものでした。


 博士は私に書き置き一つ残さずに旅立ってしまいました。途方に暮れた私は、一日中、博士の隣に腰掛けていました。太陽の動きに合わせて、窓からの斜陽が部屋を舐め回し、とっぷりと暗闇が広がり始めても、私は腰掛けていました。ちょうど月明かりが一筋だけ迷い込んできて、博士の顔を蒼白く照らしました。私はそれを黙って、見つめ続けました。

 翌日の太陽が高く昇る頃、ようやく、私は動き始めました。私は博士に火葬を施すことにしたのです。火葬の際、死体は棺桶に収納され、数々の思い出の品とともに燃やされることを、私は知っていました。

 私は外に出て、廃車を歩きわたり、たくさんのガソリンを集めました。その作業は、夕暮れが私の背中を染める頃に終わりました。それから、博士と暮らしたコテージ中にガソリンを撒いて回りました。博士との思い出が思い浮かぶものには特に周到に、一方で、博士にはかからないように撒きました。潮風の匂いさえ遮るほどの強いガソリン臭が、辺りに立ち込めていました。

 博士との思い出がたくさん詰まったこのコテージこそが、その棺に相応しいに違いないと、私は考えたのでした。


 博士の胸の上に、あの写真を残して、私は外に出ました。あたりはすっかり暗くなっていました。


「さよなら、博士」

 

 私はマッチを一本擦りました。しかし、湿気っていてうまくつきませんでした。もう一本とりだして擦りましたが、今度は力を込めすぎて折ってしまいました。それから、三本目、四本目と擦りました。けれど、全てうまく火がつきませんでした。最後の一本を手に取った時、私は自分の手が震えていることに気が付きました。私にはそれがとても不可思議に思えました。頭では動けと命令しているのに、自分の手が自由意志を持って、マッチで火を起こすことを拒んでいるように見えたからです。

 私はゆっくりと、細心の注意を払って、その最後の一本を擦りました。乾いた摩擦音と共に、目の前がチカチカと明るくなりました。マッチには火がついていました。


 私が手を離すと、重力に従って、小さな火は地面に落ちました。瞬く間に、ガソリンで引いた線を伝って、コテージにたどり着きました。

 私の手にあった火は、コテージ全体を包み込み、火柱となって夜の闇を払いました。炎が風で靡くたびに、熱風が頬をかすめました。


 いつの間にか、私の頬は濡れていました。けれど、私はそれを認めませんでした。なぜなら、博士が生きようと思った理由に気づいてしまったからです。なぜなら、それに向き合った瞬間、私の望みの全てが否定されることを知ったからです。

 博士は最初から最後まで、自分の役目を果たす為だけに生きた、とても身勝手な人でした。役目を果たすために、博士は生きようと思ったのでした。博士は自分の役目を最後まで果たしたのでした。

 

 博士の役目、それは、種から一輪の花を咲かせることでした。博士が苦労して見つけ出した種を撒いて、丹精に育て上げて、彼の手によって花を咲かせることでした。

 それだけが博士の役目でした。

 それだけ、なのでしょうか。

 博士の役目は、娘を愛することでも、無論、私を愛することでもありませんでした。


 撒かれた種はひっそりと蕾を実らせていました。そして、蕾を開かせるのに必要なことは、花自身に自分が花であることを気づかせることでした。博士は奥さんと娘さんの最期からその術を学んでしまったのです。

 人は失ったものを愛していれば愛しているほど、深く、消えない傷をココロに負ってしまいます。

 しかし、その痛みは、最も単純に、そして、最も残酷に、花自身に自分が花であることを気づかせることもできるのです。


 内側を抉り取られた痛みによってのみ、花は開くことができるのです。


 もう認めようが認めまいが、とめどなく涙が溢れて、それを拭う糸間もありませんでした。この世界に一人きりで残された私は、大声を上げて泣きじゃくりました。胸を潰されそうな寂しさに、嗚咽を漏らしました。


 それでも、私は博士が大好きでした。

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アネモネ ケイ @undophi

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