第3話

 『聖堂』というのはこの世界の神である『光の女神オラトリア』と『闇の女神レイクエム』の神像を祀り、その神の教えを広める施設である。

 こことはまた違った世界の常識で例えるなら、『教会』や『礼拝堂』などに近い。


 ブラッドが立ち寄った聖堂は、飾り気のない白塗りの壁で、かなり年期の入った古びた建物であった。

 しかし掃除は行き届いているようで、チリひとつ落ちていない。


 大きな両開きの扉を開けて中に入ると、室内はがらんとしていた。

 礼拝者は誰もいないようで、古びた椅子だけが並ぶばかり。


 奥には天井に届かんばかりの女神の立像。

 その前では、ふたりの男女がいた。


 ひとりは16~17歳くらいのうら若き乙女。

 質素な白いローブを身に着けていることから『聖女』だというのがわかる。


 腰まで伸びたストレートの黒髪に、パッチリとしたおおきな瞳。

 あどけなさと清廉さを兼ね備えた、まさに聖女然とした麗しき少女であった。


 もうひとりは、脂ぎった薄毛の中年男。

 だらしなく太った身体を、黒地にラメの刺繍が入った下品なデザインのローブで覆い隠している。


 そして中年男の首には、見逃せない輝きがあった。

 『銀の国輪』……サウンドザンド帝国における、『上級国民』の証である。


 ふたりはなにやらモメているようだった。



「なにを迷うことがあるんですぷぅ。この聖堂を早いところ捨てて、ぷぅが管理している帝国の聖堂に来るんですぷぅ」



 中年男がやたらと身体を触ってこようとするので、少女は戸惑っている。



「あの、聖父せいふ様のお気持ちは大変ありがたいのですが、私は祖母から受け継いだこの聖堂を守っていきたいのです。それに、私たち聖女がいなくなってしまったら、この街の人たちは神にすがれなくなってしまいます」



 聖父せいふというのは聖堂の管理をしている人間のことで、いわば『神父』や『司祭』にあたる。

 立場のある人間のはずなのだが、その中年男は頬を膨らませて下品に吹き出した。



「ぷぷぷっ、この街の誰が神にすがっているんですぷぅ。今日は日曜日だというのに、礼拝に来ている者などひとりもいないんだぷぅ」



「そ、それは……! 亡くなった私の祖母は聖母でしたが、私はまだ聖女なのです。私が聖母になれば、きっと街のみなさんも礼拝に来てくれるはずです!」



「ぷぅがなにも知らないと思っているんですかぷぅ。先代からこの聖堂はずっと貧乏だったんだぷぅ。潰れるのはもう時間の問題なんだぷぅ」



「で、でも、ひとりでも礼拝者さんがいる限り、この聖堂は……」



「なら、こうすればいいんだぷぅ。ここにいる聖女たちは、皆ぷぅの聖堂に入るんだぷぅ。そのかわりにぷぅの聖堂から、飽きたババ……いや、ベテラン聖女をここに遣わすんだぷぅ。そうすれば、この聖堂は潰さなくて済むんだぷぅ」



「えっ? 帝国からどなたかを遣わせてくださるのですか? なにも、そこまでしていただかなくても……」



「いや、あなたたちはここにいたら、みな不幸になってしまうんだぷぅ。あなたを慕っている聖女たちを、不幸にしてしまっていいんだぷぅ? でも帝国の聖堂に来れば、みんな幸せになるんだぷぅ」



 他の聖女たちを引き合いに出され、少女は胸痛のようにふくらみを押えた。

 彼女は自分が貧しいのはかまわない様子だったが、他の聖女たちに貧しい思いをさせるのは本意ではないようだった。


 その桜の花びらのような唇が、その鈴音のような声が、迷うように震える。

 そして、ついに……。



「わ、わかり……」



 ピィィィィーーーッ!



 少女の決断を、警笛のような音色が断ち切った。



「あ……あと少しだったのに……! 誰だぷぅ!?」



 中年男と少女が同時に見やった先は、聖堂の入り口。

 そこには扉によりかかるようにして、ひとりの青年が立っていた。


 小笛を煙草のように銜え、音色を紫煙のように、ひゅるるとくゆらせていたのは……。

 そう、ブラッドである。



「おい、プゥ野郎。お前『奴隷狩り』だろう?」



 ブラッドはコツコツと靴を鳴らし、ふたりに近づいていく。



「なっ!? プゥ野郎とはもしかして、ぷぅのことかぷぅ!? なんたる無礼なっ!?」



 「黙れ」といわんばかりの音色が、ピュウッ! とはしる。



「いいから答えろ。お前はその子を奴隷にしたくて、うまい話を持ちかけてるんだろ?」



 すると少女が割って入ってきた。



「違います! こちらのお方は帝国の聖父様なんです! 同じ女神に仕える者として、私のことを気づかってくださっているんです!」



「そうなんだぷぅ! ぷぅはこの子の幸せを思って、帝国の聖堂に移住させようとしていたんだぷぅ!」



 ピュゥ、とからかう口笛のような音色が吹き抜けた。



「そうかい、じゃあ、本音を聞かせてもらうとするか」



 「「ほ、本音……!?」」とハモるふたりに向かって、ブラッドはファイティングポーズのような構えを取った。

 中年男はビクリとあとずさりする。



「まさか殴るつもりかぷぅ!? 帝国の人間を殴ったら、しかも上級国民であるぷぅを殴ったりしたら、ただじゃすまないんだぷぅ!」



「誰がお前みたいなのを殴るかよ。ハゲが伝染うつるぜ」



「なっ……! なんだとぷぅ!?」



 憤る中年男をよそに、ブラッドはグーにした手を、リズムを取るように上下左右に動かしはじめた。



 ……シャカ! シャカ! シャカ! シャカ!



 するとマラカスを振っているかのような軽やかな音が、拳の中から起こる。

 目を丸くする少女と中年男に向かって、さらにテンポを早める。



 ……シャッカシャッカシャッカ! シャッカシャッカシャッカシャッカ!



 そしてついに、もたらされた。



 少女にとって初めてとなる、『歌』が……!



 ♪ フーアーユー? フーアーユー?

 ♪ あなたのお名前 フーアーユー?



 身体をくねくねと動かすブラッド。


 少女は初めて『音』というものを聞いた赤子のように、唖然としていた。

 生まれて初めて耳にする『リズム』と『歌声』、そして『ダンス』があまりにも衝撃的すぎたからである。


 中年男は帝国の人間であるので、驚きはそれほどでもない。

 しかしこの『帝国外』において、いまや帝国では禁止されている『音楽』を耳にしたのは不意を突かれた気分であった。



「きっ……貴様っ!? もしや、吟遊詩人トラバドールかぷうっ!? でも音楽のないこの国には、吟遊詩人トラバドールはひとりもいないはずなんだぷうっ!?」



 中年男は責めるような言葉とは裏腹に、身体はリズムに合わせて動いていた。



 ♪ フーアーユー? フーアーユー?

 ♪ あなたのお名前 フーアーユー?



 ブラッドは唄い続けながら、いつの間にか中年男のすぐそばまで来ていた。

 マラカスのような拳を、中年男の口元にサッと突きつける。


 すると、口が勝手に唄いだす。



「♪ぷっ……ぷぅの名前は、『シン・プゥ』だぷぅ」



【フーアーユー】

 この歌を聴いたものは、自分の素性や考えを話したくてたまらなくなる。



 ♪ フーアーユー? フーアーユー?

 ♪ あなたの目的 フーアーユー?

 ♪ この子なにを フーアーユー?

 ♪ しようとしてたの フーアーユー?



 この時点でプゥはすっかりノリノリになっていた。

 脂ぎった顔から「待ってました」とばかりに笑みがこぼれる。



「♪ぷぅはこのメスガキを騙すんだぷぅ ♪そして奴隷にするんだぷぅ ♪国輪をやるといえば ♪どんな女もホイホイと ♪付いてくるんだぷぅ」



 ……シャカ……。



 そこで、マラカスの音色が止まった。


 同時にプゥも正気に戻り、テカテカの顔から笑顔が消える。

 目の前にいるブラッドがニタリと笑っていたので、自分がとんでもないことを口走っていたことに、ようやく気付いた。



「ぐっ……!? い、いまのはこの男の『歌』のせいだぷぅ! 歌のせいで、あることないことしゃべらされてしまったんだぷぅ!」



 慌てて少女に弁解するも、少女はドン引き。



「ま……まさか聖父様が、そんなことをお考えだったなんて……!?」



「ぐっ……ぐぬぬぬぬっ……! ど、どっちみち、この聖堂はこのままだと、潰れてしまうぷぅ! 生き残るためには、帝国の聖堂に来るしかないんだぷぅ!」



 プゥはドスドスバタバタと、耳障りな足音をたてて聖堂の入り口まで走っていく。

 扉のところで振り返ると、



「今日は邪魔が入ったから、これで失礼するぷぅ! でも次に来るときまで、よく考えておくんだぷぅ! その馬の骨のような男と、このぷぅ……! どっちが正しくて、どっちの言うことに従うのが、幸せになれるのかを……!」



 捨て台詞を吐いたプゥは、表に待たせておいた馬車に何度もずり落ちそうになりながら乗り込み、逃げるように走り去っていった。

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