5話 模索

「忘れて生きていくのはつらいことだよ」

 駅前のショッピングモールに向かう途中、君が言った。

 距離は少し遠いが電車で行くのは馬鹿馬鹿しかったので歩いていくことにした、そんな道の途中。

 公園のグラウンドの近く、距離的には目的地の半分くらい、で今までの沈黙を破って放った言葉だった。君の名前も過去も知らない、でも一瞬見せた表情が彼とひどく似ていた。

「……」

 言葉を発したら、答えは出るのだろうか。いや、出ない。でも、それでも僕は。

「百円ショップに行って、生活の質を上げるんだろ。ほら、信号赤になっちゃうよ」

 僕は、彼女の一つしかない手を引き走る。最初は抵抗があった右手だが徐々に軽くなっていった。僕は言わなければならなかった。

「間に合わなかったね、これだったらゆっくり歩いたほうがちょうどよく渡れたかもしれないね」

 彼女はカラカラ笑いながら言った。ありもしない選択肢を並べて、そこにとどまる。僕がよくやっていたことだ。

「でも、運動になったからいいじゃん」

「確かに、最近太ってきたからちょうどよかったかも」

 彼女は、無い左腕を挙げる。汗をぬぐう手はいつも左手だったのだろう。

「それで、百均で何買うの」

 息を整えて問う。

 百円ショップに行くからついてきて、と言われたのはいいものを何を買うのか知らされていない。行く途中で教えてくれると思ったが、ここに来るまで沈黙を貫いていたし。

「キッチンの下に引く絨毯みたいなやつ」

 息を整えた彼女が答える。

 キッチンマットね、と僕は訂正をした。彼女の想像力を僕の言葉で固定化しているようでひどく後悔した。彼女は何かを求めているようだった。でも、彼女には僕でなくてもよいように思えた。

 信号が青になり、僕たちは車道を堂々と歩いた。それから彼女と僕は一言も言葉を交わすことなく目的地を目の前にした。彼女は何を考えていたのだろう。僕は何を話せばよかったのだろう。

 話すのは苦手だ。自分の考えていることはいつもばらばらで、言葉にするとつぎはぎだらけになってしまう。言葉を発するときまって居心地が悪い。宗教に対しても、哲学に対しても、科学に対しても、今の社会制度に対しても、僕は外に晒しても腐らない何かを持っていると思っていたが、腐る、腐らない以前に僕の持っている物が言葉として成り立っていないことに気が付いたのは最近になってのことだった。

 こんな僕だから人と話す話題なんてないのだ。彼の死だってうまく伝えられる気がしないのに。


 百円ショップは、僕が前に来た時とは配置が換わっていてキッチンコーナーを見つけるのに数分かかった。来たことのある僕が案内しようと思ったけれど、逆に僕が案内されてしまった、それで予想以上に時間がかかった。なんであの時、百円ショップの配置を知っているのが僕だけと錯覚していたのだろう。

「あっ」

 小さな口を開けて驚いて見せる。これはきっと見せる驚きだ。

「どうしたの」

「私、お金持ってくるの忘れちゃった」

 多分、彼女は知っていたのだ。自分が財布を忘れていることを、ここに入る以前に。

「それ何円だっけ」

「悪いねぇ、帰ったら渡すから」

 ちょっと待って、と彼女は値札を探す。

「300円だから310円かな」

 ここでよく100円の物を買っているのだろうか。

「330円だね」

 財布から330円を取り出し、彼女が持っているものを受け取り渡す。

「え、なんでこれを僕に渡したの?」

「なんとなく」

 彼女がお金とこれを両方持ってレジに行けばいいのに、彼女は僕に役割を与えた。

 僕たちはそのままレジへ向かった。


 僕たちはこの後すぐに帰った。フードコーナーで休憩するとか、ゲームセンターによるとかせずに。きっとそれで正解だったと思う。歩くだけで心地よかった。

 案の定、僕と彼女は一言も喋らすに自分たちの家のあるビルへと帰った。

 

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