僕の人生

カフェオレ

僕の人生

 交際を申し込んでから4年。同棲を始めてから1年半。敬語はとうに使わなくなって、手を繋ぐ機会を伺いあっているような初々しいあの頃が遠い昔に感じる程の期間、僕らは恋人という関係を築いている。2歳年下の彼女、カナは僕より少し背が高くて、茶色に染めた長髪が切れ目の顔によく似合っている。同じ大学で知り合った僕らは今では社会人で、僕は市役所で事務、彼女は高校で教師として働いている。非日常だった労働が日常になっていくにつれ、大人の自覚が芽生え始めるとともに、生活には余裕ができ始めた。そして、大人になれた安堵の中で、少しずつ、未来を具体的に言葉にしながら考えるようになっていく。今日は、そんな僕らの理想にまた一歩近づくために、実家に足を運んだつもりだった。


「ダメなものはダメだ」


 昔気質で強情な父は、僕が彼女と真剣に将来を考えていることを伝えた途端、つっけんどんな態度を取って、この話は終わりだと言わんばかりに立ち上がって和室から出て行ってしまった。正直、この父親がまともに取り合ってくれるはずもないとは想定していた。しかし、残った淡い期待も虚しく、乱暴に開かれた襖から目を戻した母が紡ぐ言葉にも、落胆することになった。


「あんたももういい歳なんやから、父さんの気持ちもわかってやんなさい」


 電車での往復1時間、意思表明は5分。僕の想いに両親からの賛同は得られなかった。あっけなく予定を終えてしまった僕らは、太陽の見えない空の下を、同居中のアパートに帰ろうとのんびりと歩いていく。


「やっぱり駄目だった」

「残念だね。ハルの両親とはうまくやっていける自分は想像できないな」

「ごめん、うちの親あんなかんじで。しばらく会ってなかったから少しは考え方変わったかななんて思ったりしたけれど、相変わらずだった」

「大人になってから考え方を変えられる人って少ないだろうしねー。それに比べてうちの2人はあっけらかんとしてたなぁ。足して二で割ればそれなりにマイルドになりそうだ」


 望ましい結果とは言えなかった談合も、こうして話のネタになって、顔を見合わせた僕らは思わずくすりと笑みをこぼした。その鼻先に、ぽつりと何かが落ちる。


「げ、雨だ」


 傘を持っていないときに限って、気分屋な空が泣き出すのはこれで何度目だろうか。あっという間に雨はコンクリートを叩き出し、バチバチ、ベチベチと不快な音でコンサートを始めだした。今日は晴れのち曇り!と快活な声で告げられた天気予報を信用し、リビングに洗濯物を干してきたことが悔やまれた。


「僕スニーカーだから、家まで走って洗濯物取り込んでくるよ」

「うーん、こんな時に限って気合い入れてハイヒール履いてる私。ごめん、お願いする」


 さすがに、ハイヒールで走るのは雨で歩道が滑りやすくなっていることを踏まえなくても危険だ。カナには近くのファストフード店に留まってもらい、僕は1人で豪雨の中に駆けだした。中高と真剣に陸上に取り組んできたこの足でも、降り注ぐ雨粒を避けることはできず、スニーカーに染み入る水気を防ぐこともかなわない。僕は水たまりに勢いよく足を踏み入ることもいとわず、向かい風の中を猛進する。頬に勢いよく打ち付けられる大粒の雨が、少し痛かった。不幸中の幸いは、信号で足を止められることなく、ノンストップでアパートまで辿り着けたことだろうか。走った距離は300メートル程だったが、築数十年の古びたドアノブを回す頃には、アイロンをかけたばかりのワイシャツが全身にぴったりと張り付いていて気持ち悪く、顔をしかめてしまう。諦めて2人でのんびりハンバーガーでも食べておくんだったかなという後悔は、どう足掻いても先には立てられないのだった。


 <服、死亡。雨が弱まってから帰っておいで>

 <ありがと、ゆっくり帰る>


 濡れたスニーカーは早く乾くように玄関に立て置き、服や髪の水気はハンドタオルに吸わせる。そうして部屋を濡らさないようにしてからずぶ濡れの衣服を室内に取り込む間に、帰宅してから送ったショートメッセージに返信がきている。それを確認して、僕はぺったりシャツ地獄から抜け出すためにシャワーを浴びることにした。すぐに出てこない温水を裸で待つ時間は非常に虚しいので、服を脱ぐ前に蛇口は捻っておく。洗濯機に、ティッシュをゴミ箱に捨てるように服を放り込む頃には、シャワーヘッドからは細かく分かれた温水が降り注いでいた。頭から放射状に体を流れていく熱が、冷えた体に心地いい。濡れて固まった髪も手に取ったシャンプーで1つ1つほどけていって、気持ちよさから滝に打たれずとも体は清められるのではないかという中身のない余念が生まれて、すぐに消えた。

 蛇口を右回りに捻ると、風呂場には静寂が訪れる。自分の体から落ちていく水滴の音だけが、湿気のこもる狭い空間に反響していく。外気に体温を奪われて冷えていく体の中で、目尻だけが熱くなっていくのを感じた。期待はしていなかった。期待はしていなかったが、肉親に恋人を、そして将来を否定された現実と戦うには、愚痴をこぼすだけでは足りなかった。

 ガチャリ、と玄関の扉が開く音にハッとしたが、「にわか雨でしたー」と届いてきた上声に、警戒心はゆるゆると消えていく。コツコツと靴を並べる音を聞いていると急にさっきまで一緒にいたはずのカナの顔が無性に見たくなって、僕はガラスの曇りを指先で拭って自分の顔色を確認してから、湯気を連れて脱衣所に出た。新居に来てから購入した、大きな青色のバスタオルで全身を包むように水気を取る。それから服を着ようとして、脱衣所に下着を持ってくるのを忘れていることに気が付いた。仕方なく、体に巻いたバスタオルで身を隠し、濡れた髪が冷たくなるのを感じながら服のあるリビングへ向かう。

 リビングはキッチンと一つドアを隔てたところにある。カーペットの敷かれた床の上に、カナはケータイを片手にごろりと寝ころんでいた。


「おかえり」

「ただいま。なんで巻きずし状態?」

「下着忘れて」

「あー、ほい」


 僕らは家事を分担制にしていて、衣服を畳んでまとめるのは彼女の役割なのだが、昨日はその仕事をほっぽり出していて、リビングの片隅に水色のブラウスを頂点にした小山がこんもりとできてしまっていた。カナはそこから無造作に取り出したパンツとブラジャーを、ぽいっと僕に投げた。


「ありがとう」

「ブラのサイズあってるの?それ」

「少し小さい」

「今度買いに行かないとね」


 後ろ手にホックを止めるのは、いつからか当たり前になった。膨らんだ胸が走るのに邪魔に感じてきた頃、初めて自覚した恋心は、いつまで経っても当たり前になりえない。何をしたわけでもないのに、お前はおかしいんだと罵詈雑言を浴びせられる日々は、いつ僕を殺してもおかしくなかった。浮かび上がった苦い記憶に、思わず歯を食いしばってしまった。

 おもむろにカナが立ち上がって、僕に歩み寄ってきた。


「どうかした?」


 僕の問いかけに応じることなく、カナは僕に近づいてきて、近づいてきて、その距離はゼロになる。驚きより、心地よさがまさって、僕は彼女に身を委ねた。唇から伝わってくる熱が、頭の中を反芻していた呪いの言葉の数々を、じんわりと溶かしていく。


「1人じゃないんだから」


 優しい言葉が、細胞に染み渡って、僕の原動力に変わっていく。細められた双眸から、無償の労りが伝わってくる。取り繕った僕の心を、見透かしてくれる人がいる。その存在で、生き地獄のようだった世界から、あなたは決して孤独ではないのだと、何度も救われてきた。

 塞がれていた口が自由になった後に伝える言葉は、一言だけしか考えられなかった。


「ありがとう」


 どういたしまして、と微笑んだカナに、僕からもう一度口づけをする。また顔を見合わせて、僕らは笑いあう。この時間が、彼女が、たまらなく愛おしくて、何より大切なものだと再認識する。誰に何と言われようと、この幸福を、僕の人生を曲げてなるものかという確固たる決意を胸に、この頬は緩んでいるのだった。

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