第3話・咲夜


 名残惜しそうに唇を外した鬼が、膝を突き頭を垂れた。この姿も、とても懐かしい。


「咲夜姫、お加減は?」

「大事ない。翡翠丸ひすいまる。長の務め、大儀であった」

「…………勿体ないお言葉……」


 よしよしと頭を撫でれば、鬼──翡翠丸は歓喜に震え、綺麗な瞳を潤ませた。


 ……ああ、ほんにい。


 姫だった私に仕え、言の葉に従い、数百年にわたって記憶を守ってくれていたのだ。

 これを忠義者と呼ばずして何が忠義か。


 翡翠丸との出会いは、それこそ話せば長くなる。簡単に言うのであれば、敵地の領主が戦で使役するために行者に喚び出させた鬼を、私が横からかっさらったのだ。


 例え鬼であろうと、己の意思を持って生きている者を、無理やり縛りつけて道具のように扱うなど言語道断である。だから奪ってやった。

 それ以降、恩義を感じた翡翠丸は私に仕え、こうして尽くしてくれている。


『……な、な、何なんだ! 何なんだ、これはッ!!』


 目論みの外れた梗司郎の声が、怒気を含んで響き渡る。無様なものだ。


「翡翠丸、私の記憶を覗き見ることを許す。それゆえ、あとはそなたの好きにするが良い」

「は、では失礼して」


 翡翠丸の長い指が額に触れる。

 この鬼には便利な特技がいくつもあった。

 これもその一つで、触れたものから知識や記憶を得ることが出来る。この国の言葉もこうして知ったと言っていた。私に転生の術を施したのも翡翠丸だ。


「………………ほう」


 翡翠丸の目つきが鋭く獰猛なものに変わる。

 怒りをあらわにし、綺麗な顔に青筋を立てた。

 真っ先に今生の16年を見たらしい。


 夜行院の者たちから受けた、人を人とも思わぬ非道の数々。いずれは鬼に嫁ぐから、と。

 完全には手を出さなかったものの、私の目が見えないことをいいことに、ずっと梗司郎は好き放題してきた。


 それを翡翠丸は見たのだ。

 今までの恥辱、私も許すつもりはない。


 怒りに任せ、重く閉じられた分厚い鉄扉に翡翠丸が黒い爪を立てた。柔らかな粘土に指が沈むように、いとも簡単に鉄が歪む。

 と、そこから赤々と燃える色が広がり、溶けた鉄が溶岩のようにドロドロと流れ落ちた。かなり頭にきているようだ。


 翡翠丸が先を歩き、私はそれについて行く。

 足裏からは、すでに冷たさも熱さも感じなくなっていた。翡翠丸の術のお蔭だ。

 扉のあった場所を過ぎると、翡翠丸は私を軽々と抱きかかえた。


「お一人で歩かれるには、姫はまだ目も足も不慣れかと」

「……相も変わらず過保護であるな」


 数百年もの時が過ぎたというに……。

 あの頃と何も変わらずにいてくれた翡翠丸に、たゆみない感謝の念が湧く。本当に待っていてくれたのだと、嬉しさに頬が緩む。


 転生する前、前世で私と翡翠丸は主従を越えた関係にあった。だが、夫婦めおととなれたわけではない。心は結ばれていたが、身は互いに清いままであった。


 それはさておき。


 夜行院の者たちが屋敷のどこにいるかなど、翡翠丸にとっては夜空に満月を探すくらい容易いことであった。足取りはまっすぐに、人の気配の最も多い場所へと向かっている。


 途中、道すがらに様々な物を目にしたのだが、ここが日本であることは間違いないはずなのに、違う世界に迷い込んでしまったかと錯覚するほど、見たことのない物ばかりであふれていた。


 行く手を阻むように現れる者たちから、翡翠丸が記憶や知識を吸い取る。それを少しずつ分けてもらっているのだが、この世界にある日本は、私の知る日本ではなくなっていた。


 私が知る日本は、約150年ほど前に滅びてしまったらしい。特に直近100年ほどの変化は、別世界になったと考えた方が納得できるものであった。

 私の転生に時間がかかり過ぎたため、思っていたよりも遠い未来に来てしまったようだ。


 しかし翡翠丸は、特別それらを気にした様子もなかった。元々が違う世界から来た存在だからか、このようなことは些細な違いなのかもしれない。


 陰陽寮に務める家系だったこともあり、姫だった頃の私も未来視や他の方術が多少は使えた。

 だがそれでも、鬼である翡翠丸の力の前では幼子の手習いのようなものであったろう。

 翡翠丸がいなければ、私はこうして転生することも叶わなかったのだから。当時の私は、自分に関わる未来を視ることが出来なかった。


「銃も化学薬品とやらも、翡翠丸には効かぬのだな」

「はい。これなら刀を持つ武士や術者の方が何倍も厄介でございました。姫の未来視のお力を借りますれば、これからは天変地異でさえ難なく避けられましょう」


 知識を得て、初めて知る。

 翡翠丸が使っていたのは法力や呪術などではなく、魔法と呼ばれる物であった。

 この世界にもある火や水、風といった自然の力を自身の持つ魔力と合わせて使うという。

 翡翠丸がこの世界に喚び出されたことも、今の世で言えば異世界からの召喚、あるいは転移というらしい。


 私のような者は、漫画やアニメと呼ばれる娯楽物語の中だけの存在で、この世界にはいないものとされている。口に出せば、気が触れた者として扱われるらしい。

 翡翠丸のこともそうだ。鬼だと言い張っても、節分に豆をぶつけられるだけだろう。

 ……それはそれで、少し見てみたい気もするが。

 せっかく同じ国に転生したというに、生まれる時代が違えば、ただの異物扱いであった。


「姫、どうやらこの時代の者たちはパソコンという箱の中に巣を作り、そこに知り得た情報を蓄えているようです」

「私も先ほどから、ずっとそのことを考えていた。やり口が土御門つちみかどによう似ておる。京の都のように蜘蛛の糸で繋がっているのか?」

「……いえ、大変申し上げにくいのですが、そういった次元の話ではないようです」


 翡翠丸が私の額に手を置く。

 さらに増えた知識と情報は、またもや別の世界のものと呼べた。


「これは……この時代の者たちは、この変化を生きながら当たり前に受け入れておるのか」

「は。10年毎でも、かなりの差がございます」

「……なんと。たった10日前の情報がもう古いと言われるのか。季節の有り様も、私の知っているものとはだいぶ違う。なんとも恐ろしい時代であるな」


 翡翠丸が倒した男の懐から抜いたスマホという板には、さらに恐ろしい量の情報が詰まっていた。


 この国だけでなく、地球、太陽系という途方もない規模の話。領主である父上を裏切った夜行院家に復讐するためだけに転生してきたというに、そんなことはどうでもよくなるくらい、目の前にはこの世界が広がっていた。


 翡翠丸が様々な機械から情報を読み取る。

 私たちは時間も忘れ、夢中でこの世界の知識をむさぼった。


 ちなみに夜行院家の者たちは皆、翡翠丸が張った結界の中に閉じ込めてある。しばし放置するが、どこへも逃がしはせぬ。


 そうして途中で仮眠を取り、8時間ほどが過ぎた頃。


 私と翡翠丸はこの時代に合った服に着替え、スマホで検索した月乃珈琲という店に来ていた。


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