第2話・嫁入


 足裏が凍りつくような、月の無い冬の夜。

 ついに、その日が訪れた。


 薄衣を一枚だけ身に着け、石の上に膝を突く。

 水垢離みずごりのために浴びせられる冷水は、容赦なく私の体温を奪った。

 手足が千切れるような感覚のまま、今まで触れたこともないような上等な絹に袖を通す。


 たぶんこれは、花嫁衣裳。


 直接は触れないよう布越しに手を引かれ、鬼の元へと案内される。あの異質な気配に、どんどん近づいて行く。

 私が歩を進めるにつれ、鬼の気配は燃え盛る炎のように怒りの色に染まっていった。


 何にそんなに怒っているのだろう。

 私が痩せっぽちで、食べるところがあんまりないからだろうか。私を喰らう日を楽しみに待っていたのなら、ごめんなさいとしか言えない。



 錆びついた重い鉄扉が開く。

 ギギギ、ギギギィ、ギギギギギ──……と。


 何重にも閉じられた扉が開いていくと、私はまた手を引かれた。

 一つ扉をくぐる度、後ろから扉の閉じていく音が聞こえてくる。二度と外に出ることはないのだと、わからせるように重い音が閉じていく。


 そうして何の音も聞こえない空間に辿り着いた時、手を引いていた物が無機質な機械音を上げた。


 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

 生き残ってしまったあの日から、ずっとつけられていた私の視界を奪っていたもの。

 それが嘘みたいに剥がれ落ち、目の前が一気に開けたのだ。



「……………………外れ……た…………」



 今までどんなに力を込めても、決して外れなかったのに。

 震える手で、自分のまぶたにそっと触れた。


「あ、ああ、ああぁあぁぁ……」


 ちゃんと、目がある。

 12年ぶりに外気に触れた瞳からは、ぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ちた。


 手が、指が、足が見える。

 薄暗がりの墨色、土の茶色、着物の白、自分の肌の色。いろんな色がある。夢の中でさえ、もうずっと色を思い出せなかったのに。


 裸足にしみる冷たさなんか忘れ、私は自分の手をじっと見つめた。

 爪がある。皮がある。シワだって……。


 私の手は自分が思っていたよりも、随分と細くて小さかった。陽に当たっていなかった肌は青白く見える。


『──紫苑、鬼の前に立て』


 どこからともなく、夜行院家当主──梗司郎の祖父のしわがれた声が聞こえてきた。

 姿はない。あるのは機械を通したような音だけだ。


 鬼……。


 言われて顔を上げる。

 閉ざされた空間には、蝋燭のようなほのかな灯りだけがともされ、自分が立っている場所と鬼の周りだけが、ぼんやりと暗闇の中に浮かび上がっていた。



「────!」


 目に映ったのは、壁にはりつけにされている、とても美しい青年だった。


 濡れ烏羽からすばのような黒い髪。

 高く通った鼻筋に、整った眉目。

 薄く綺麗な形の口唇。

 背が高く、男らしく引き締まった体躯。

 和装をしていても、なぜか日本人のようには見えなかった。けど、外国人とも違う。人の形はしているけど、人間じゃ……ない。


 太い釘で壁に両手を打ちつけられている鬼が、静かに目を開く。その目はまっすぐに前を見据えていた。


 その瞳を見て、息を呑む。

 それは吸い込まれるような澄んだ翡翠色で。

 こんな綺麗な色があるなんて、今まで想像したこともなかった。


 …………どうして。


 これほど怒りの気配をまとっているというのに、鬼の瞳は憐れみに満ちていた。

 これから起こることに、心から同情しているように。


 その瞳に見とれていると、私の手を引いてきた機械が再び動き出した。バケツのような本体に、伸び縮みする手が何本もついている。

 機械は鬼の周囲に張り巡らされている紙片を破り捨て、鉄糸を断ち切り、両手の釘を抜いていった。


 血は出ないようだけど、わずかにひそめられた眉で、鬼にも痛みがあるのだと伝わってくる。とても痛そうで見ていられない。

 釘の錆びついた色は、そのまま刺さっていた年月を表しているのだろう。


 その時、聞き慣れた声が嘲笑と共に響いてきた。


『くくく……。なァ、紫苑。腹を空かせた猛獣の檻の中に入れられた気分はどうだ? 今どんな気持ちなのか言ってみろよ。ひゃはははは!』


 …………梗司郎。


 いつにも増した下卑た笑い声が、閉じた空間にこだまする。この言い方からすれば、釘が抜けたら私は鬼に食べられてしまうのだろう。


『お前が死ねば、やっとその目が手に入る。安心しろ。お前の代わりに、ボクがその力を存分に使ってやるからなァ! ははっ』


 梗司郎が何を言っているのか、私にはわからなかった。鬼が腹を空かせているのなら、目だって残らず食べられてしまうだろうに。

 やっぱり馬鹿なんだろうか。


 ゴトッ、ゴドンッ。


 重い金属の落ちる音が響くと、鬼はズルリと両腕を垂らした。縛りつける物は、もう何もない。

 彼はいったい、いつぶりに腕を下ろしたのだろう。私は不思議と自由になったその鬼を見ても、恐怖を感じることはなかった。


『ねぇ、父さん。これから何が起こるのさ。もうそろそろ教えてくれてもいいだろう?』

『ああ、良いだろう。鬼は紫苑の魂を喰らう。残った身体は石のように固くなり、そして落ちた目玉は手にした一人にだけ、未来を視せるようになるんだ』

『父さんが持ってるソレみたいに?』

『ああ、そうだ。これで夜行院家は栄えてきたんだ。次はお前の番だ、梗司郎』


 見世物小屋にでも来ているような、浮かれた声が耳に障る。


 鬼の吐く息も、私の吐く息も白かった。

 下げられた鬼の両手から青い炎のようなものが揺らめくと、開いていた手の傷が見る見る内に治っていった。やはり人間ではないのだ。


「治って良かった……」


 思わず、心の声がこぼれる。

 すると鬼は、無気力に丸めていた背筋をグンと伸ばし、力いっぱいに見開いた目で私を見つめた。


 澄んだ翡翠色の瞳に光が宿る。

 初めて、鬼と目が合った。


「…………その言霊ことだま、お声は……咲夜さくや姫──……」



 次の瞬間、私は鬼に抱き締められていた。

 力強く、たくましい腕で。だけど、そっと抱き寄せるように、とても優しい手つきで。


「姫、ずっと……ずっとお待ちしておりました。お預かりしていたものを、今お返し致します」


 言うなり鬼は自分の唇を噛み切り、紅く染まった色を私の唇に重ねた。


「────!!?」


『なッ!? え、あッ!?』

『何だ、これは! 何をしている!?』


 夜行院の親子が間抜けな声を上げる。

 そんな中、私は口の中を絡め取られ、舌の上に乗せられたソレを、ノドの動きだけでどうにか飲み込んだ。鬼の血の甘い匂いが身体中に染み渡り、骨の髄まで酔いそうになる。


「────ッ!!」


 胸を焼く熱さを感じた瞬間。

 私の脳裏には、膨大な量の記憶があふれた。


 陰陽寮に務める領主の娘として生まれ、『咲夜姫』と呼ばれて戦国の世を過ごした過去の記憶。


 懐かしさも、愛しさも、温かさも。

 裏切られた悔しさも、その怨みも。

 何から何まで思い出した。


 私は、『転生の術』に成功したのだ。


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