たとえお母さんが悪の組織の女幹部だったとしても私はお母さんのことが好き。

おなかヒヱル

第1話

 私は母子家庭で育った。

 物心がついた時にはお母さんと二人きりだった。私はいつもエレベーターのない市営住宅の五階に住んで、毎朝毎晩、無機質な階段を登ったり降りたりしている。真夏の太陽に照らされた鉄筋コンクリートは凄まじい暑さで、部活の帰りには三階の踊り場で心が折れそうになる。もちろん夏だけじゃなくて春も秋も冬も、毎日そんな過酷な階段を往復している。そのせいで格闘ゲームのヒロインみたいな太ももになってきて、それが最近悩みの種のひとつに追加されたばかりだ。私なんかはまだ若いからいいけど、お母さんは大変だろうなぁって思う。朝早くから仕事に出かけて18時ごろに買い物袋を提げて帰ってきてそれから夕飯の支度をする。手伝いたくても、あんたは勉強してなさいってなかなか手伝わせてもらえない。いっしょに買い物に行くタイミングもあまりない。一週間交代でお母さんが夜勤の時はまるで一人暮らしみたいになる。保育園に入園する際に引っ越すからとお隣さんがくれたダイニングテーブルの上に『ごはんを食べながらテレビは観ないこと。洗い物をして勉強をすること』との置き手紙。サランラップにくるまれた肉じゃがなどをレンジでちんして炊飯器からご飯をよそってひとりもくもくと夕食を摂る。テレビは観ない。もともと観る習慣がないからなんだけど、お母さんは私がテレビを観るものだと思っているらしい。自分がそうだから娘もきっとそうだろうと思っているのかもしれない。昼勤の時はテレビを観ているお母さんの横で私が勉強をしている。お母さんは部屋に戻って勉強しろってうるさいけど、私はテレビが点いていてガヤガヤしているほうが集中できるからそのほうがいい。なにより、夜勤のせいで一週間置きにしかいっしょに過ごせないのだから、できるだけお母さんのそばにいたかった。私としては自分の部屋に戻って勉強なんてしたくなかった。お母さんの隣に座って勉強ができるのは私の特権なのだ。

 お母さんの勤務パターンは私が小さいころから今と変わらない。夜勤と昼勤が交互にくる交代制の仕事で、昼勤は朝8時から17時まで、夜勤は18時から翌朝9時までとなっている。お母さんが今の職場で働き出したのは私が3才の時。今から13年前、ちょうど私が保育園に入園したばかりのころだった。昼勤ならまだしも、母子家庭の夜勤でどうやって私を育てていたのだろう。記憶もおぼろげであまりはっきりとは覚えていない。小学校に上がるまでは誰かがいっしょにいてくれたような気がする。夜勤に出かけて行ったお母さんの代わりに誰かが--といっても誰だかまったく思い出せない。女性のような気もするし男性だったような気もする。とうぜん、それはお父さんではない。お父さんは私が2才の時に亡くなっていた。お母さん曰く不慮の事故だったらしい。けど、ことの詳細はいくら訊いても教えてはくれなかった。だから親子といっても秘密はあって、しょせんは他人でしかないのかもしれない、なんてことも考えたりする。私はお母さんがどんな仕事をしているのか知らない。尋ねてみても工場のライン作業だからといってその先は教えてくれない。いくら訊いてもどこにある工場なのか、何を作っているのかさえ教えてはくれなかった。世間は工場のライン工というといわゆるヒエラルキーの下のほうで、ひょっとすると見下されるような仕事なのかもしれないから、お母さんはそれを気にしてあまり仕事のことは話したくないのかなって思った。べつに恥ずかしい仕事とかないと思うし、なにより自分の娘なんだから、そんなこと気にせずに教えてほしいなって思います。やっぱり、親子といえどしょせんは他人なのかな……。

 そして、今日はそんなお母さんの夜勤の日。水泳部の帰り、私が耳に入った水を出そうと頭をトントン叩きながら団地の階段を登っていると、お母さんが急ぎ足で降りてきた。先にびっくりしたのはお母さんのほうで、それを見た私がまたびっくりした。いつもなら私が学校から帰ってきたあとにお母さんが出かけるから階段でばったりなんてことはあまりない、ていうかこんなことまったくなかったことだ。たかが親子が自分たちの住んでいる団地の階段でばったり出くわす、そんなことは珍しくもなんともない。けど、私にとっては--お母さんにとってもだけど--初めての出来事だった。耳の水がもごもごと音を立ててうまく聞き取れなかったけど、たしかにお母さんは「今日は仕事はお休みするから」と言っていた。そしてお母さんは足早にその場を立ち去った。おかしい、こんなことは今までになかった。お母さんが仕事を休むなんて。平日に職場の工場が稼働してないなんてことは考えにくい。ということはお母さんが自主的に仕事を休んだということだ。いったい何があったんだろう。見たところ体調が悪いわけではなさそうだ。服装も普段と変わらない、ファストファッションのお店のワゴンで買った安物のパーカーとスキニージーンズだ。それにあの驚きっぷりは尋常ではなかった。見られてはいけないものを見られたような、そんな雰囲気だった。いや、あれはただ頭をトントンやりながら斜めになって階段を登っている娘の姿に驚いただけかもしれない。その可能性はある。けどやっぱりおかしい。考えれば考えるほど怪しさはつのるばかりだ。お母さん、あんたいったいどこへ行くつもりなの?

 その晩、私は一睡もできなかった。勉強もまったく手に付かず、数学の公式も頭に入ってこなかった。どんな状況でも--たとえば宇宙人が攻めて来て日米同盟が迎え撃つもアメリカが裏切って日本だけめちゃくちゃにやられても--寝落ちできるのが私の特技、というかそれしか取り柄がないのだけど--今日の私はまるで魚のようにぱっちりと目を開けて一切眠れなかった。それはお母さんのせいだった。階段で出くわしたお母さんは「今日は仕事には行かない」と言った。こんなこと初めてだった。もし私に内緒のところへ行くのなら仕事に行くと言ってその場をやり過ごしてもよかったのに、そうはしなかった。少なくとも、お母さんは私に嘘はついてはいなかった。もうそれだけでいいような気もするけど、やっぱりお母さんの行き先が気になる。だから眠れないのだ。ふとデジタル時計に目をやると1時30分だった。その時、私はパッと閃いた。もしや男なのでは……。あり得る。18の時に私を産んで今年34歳になるお母さんはまだ十分に若い。職場かなんかで男と出逢って再婚なんてことも可能性としてはありだろう。そうなるとその男は必然的に新しいお父さんということになる。うーん、あんまり嬉しくない。私とお母さんの間に誰かが入るような気がして素直に喜べない。お母さんが真ん中で、私がその横にくるようならまだ喜ぶ余地はある。でも、もし新しいお父さんが真ん中になったとしたら、私はその男とは手をつなげない。つなぎたくない。だけどお母さんには幸せになってほしい。人生のほとんどを私のために費やしたお母さん。友達とも遊ばず、好きなミュージシャンのライブにも行かず、私の知る限りでは異性交遊もなかったはずだ。だからお母さんにはもっと自由な時間を生きてほしい。お母さんが望むことなら--たとえそれがどんなことであったとしても--私は受け入れなきゃダメなんだ。でもなぁ……新しいお父さん、なんか今さらなんだよなぁ……とかなんとか、うだうだ考えていたらもう2時だった。羽毛布団をよっこらしょと持ち上げた私は居間に移動した。部屋は真っ暗だった。紐を引っぱって電気を点けようと思ったけどやめた。だいたいどこになにがあるかわかるし、このままのほうが悪いことをしているみたいでわくわくする。多少よろけながらも私はお母さんがいつも座っているソファーに腰をおろしてテレビのリモコンのスイッチをオンにした。古いテレビだから立ち上がりが遅い。たしか私が保育園のころにはすでにあったはずだ。ぼんやり起動したテレビは深夜アニメを映しはじめた。テレビには魔法少女が好きな男子生徒に校舎の屋上で愛の告白をするというシーンが映っていた。魔法少女はもじもじしていてなかなか告らない。なんかイライラする。私だったら玉砕覚悟で単刀直入に告っちゃうんだけどなぁ……んー、じれったい。そしていいところでCMになった。私は壁時計の秒針を確認した。もうすぐ3時。もちろん午後ではなく午前である。あした学校あるんだけどどうしよう。このまま夜更かしするか布団に戻るか。戻ったところで眠れそうにない。というわけで徹夜決定。と思ったらニュース速報が流れた。眉毛のない女性のアナウンサーが出てきて原稿を読みはじめる。最初は誰だかわからなかったけど、テロップで名前が出たから誰だかわかった。今もっとも人気のある女子アナだ。急遽呼び出されたのだろう、すっぴんでかわいそうに。御愁傷様です。そのアナウンサーによると、神楽坂の料亭で総理大臣が襲撃されて連れ去られたらしい。恐いなぁ……物騒な世の中だ。そういえばこの間も政治家が襲われていた。あの事件も続報がないところを見るとまだ解決はしていないのだろう。私はその事件が気になり、毎朝届けられて部屋の片隅に積ん読になっている新聞を手当たり次第にめくりはじめた。あ、あった。今からちょうど一週間前の新聞だ。その新聞によれと、どっかの犯罪組織が関与しているみたいで、犯行当時、犯人たちは全員黒ずくめで覆面をかぶっていたらしい。そのうちのひとりが女性、防犯カメラの写真を見ると、光沢のあるハイレグのコスチュームに目の回りだけ隠れるマスクを着用した巻き髪の金髪女が写っていた。まるでアメコミのコスプレだ。このひとこんな格好で恥ずかしくないのかな。それにしても、いったい何が目的で総理大臣を誘拐したんだろう。国家の転覆でも目論んでるのかな。総理大臣を人質にして国家予算規模の身代金を要求したりして。後に、私のこの予言は的中することになる。ソファーの上で猫のように丸まった私は、すっぴんアナウンサーの早口を聞きながら深い眠りに落ちた。

 翌朝、トースターで焼きたての食パンをかじりながら「遅刻遅刻~」とアニメのヒロインのようなセリフを吐きながら住宅の階段を猛スピードで駆け降りる私。学校までは歩いて10分、走れば5分以内にはたどり着ける。遅刻しそうな時にはこの好立地に感謝せずにはいられない。市営住宅よりも一軒家に住んでみたい気もするけど、まぁいいかとさえ思えてくる。ホームルーム直前に教室に入った私は半分くらい残った食パンを急いで完食した。教室は昨夜の事件の話題で持ちきりだった。またしてもあの女、アメコミのコスプレ女の姿が防犯カメラに映っていたらしい。みんなはスマホでYouTubeにアップされたその動画に釘付けになっていた。私も観てみた。黒ずくめの五人組はSPと運転手を射殺、料亭から出てきた総理大臣をそのまま迎車に押し込んで走り去った。この間たったの40秒。プロの仕事である。私は思わず「すごい……」と感嘆してしまった。犯罪グループに感心している場合ではないのだが、すごいものはすごいのであるからしょうがないのである。ガラガラッと教室の扉が開いて先生が入ってきた。みんなは一斉にスマホをしまって席についた。あれ、でもよく見ると先生じゃない。二十代前半くらいの若いお姉さんだ。実習生かなにかかな。それにしてはやけに目立つ服装だ。膝上までのミニスカートにスパンコールのド派手なジャケットを羽織っている。むかし、ミラーボールをくるくる回したディスコという場所があったとお母さんから聞いたことがある。きっとあんな感じのミラーボールがくるくると回っていたのだろうな。そんなミラーボールみたいなひとはつかつかとハイヒールのかかとを鳴らしながらこっちへ歩いてきた。そして私の横にすっと立った。お姉さんは腰に手を当てた。どうやら私に用があるらしい。どこかで会った覚えはない。いったいなんだろう。すごくドキドキする。お姉さんは机に手をついてそっと顔を近づけてきた。私の顔を覗き込むように、「ちょっといいかしら?」みんなの視線を浴びながら、私はお姉さんといっしょに教室を出た。そして体育館の用具室へと連れて来られた。これはもしかして殺されるパターンというやつではないだろうか。今のうちにダッシュで逃げたほうがいいのかもしれない。でもこのお姉さんがどこの誰なのかすごく気になる。ここで逃げちゃこのひとの正体がわからない。薄暗い用具室は埃っぽくて息が詰まりそうだった。しばし無言のあと、いきなりお姉さんはハイヒールを脱いで私に回し蹴りを放った。続いてプロボクサー並みのコンビネーションを繰り出したかと思えば、テコンドーの有段者のように変幻自在の足技を使ってきた。私はこの攻撃のすべてかわした。息を切らしながらお姉さんは「合格」と言った。「あなたを対西日暮里ゲートウェイのヒロインに任命します」ポカーンとしている私に「総理大臣誘拐事件と言えばわかるわよね?」ああ、なるほど。やっとぴんと来ました。お姉さんはあの事件を捜査している刑事さんだったのですね。違う、と言わんばかりにお姉さんは首を横に振った。「わたしは秘密結社月光同盟の会員です。国から依頼を受けて総理大臣の奪還ならびに西日暮里ゲートウェイの壊滅に従事することになりました。以前より、わたしたちの会員候補リストに載っていたあなたをテストしました。結果はさっき言ったとおりです。今日からあなたには正義のヒロインとして活躍してもらいます」お断りします。いきなりひとに向かって蹴りやらパンチやらをお見舞いしておいて何を言っているんだこのひとは。合格とか言われてもそんなもんこっちから願い下げです。まぁ、そのヒロインとかいうのにはちょっと興味はあったりするけど。でもなんで秘密結社のリストに私の名前が載ってたんだろう。「中学校時代に陸上6種目で大会記録を更新したかと思えば、高校生になったとたんに水泳部に入って日本記録を塗り替えるだけの実力があればどこの組織からも引く手あまたよ」そうか、それが原因で変な組織に目を付けられたというわけか。むかしから運動神経だけはよかったんだよなぁ……。このことは他言しないようにときつく念を押された私は、お姉さんから名刺をもらって教室に戻った。

 つつがなく下校時刻となり、部活でヘロヘロになりながら帰宅した私を黒の高級車が待ちかまえていた。後部座席のウィンドウがゆっくりとおりてお姉さんの顔が見えた。微笑したお姉さんは手招きをして私を後部座席のシートに案内した。誰にも見られていないことを確認した私はお姉さんのとなりに乗り込んだ。車はゆっくりと動き出し、スモークを張ったウィンドウは音もなく閉まった。車は地元のさびれた商店街に入った。ほとんどのお店はシャッターが閉まっている。そんな中、ぽつんと一軒だけ営業している靴屋があった。店番をしているおじいちゃんは椅子に座って居眠りをしている。車はハザードを焚いてその店の前に停車した。もしかしたらここは秘密結社のアジトなのかもしれない。車から降りた私とお姉さんは死んだように眠っているおじいちゃんを素通りして靴屋の敷居をまたいだ。框で靴を脱いで座敷に上がる。そこはごくごく普通のお茶の間だった。襖をそっと閉めたお姉さんは「さて」と言って座布団に腰をおろした。普通は『さて』と言って腰をあげるものではないのだろうか。それにしてもなんかイメージと違う。秘密のアジトっていうからにはもっとアングラっぽい雰囲気なのかと思った。六畳一間にまるいちゃぶ台、箱みたいなテレビが置いてあってわざと昭和を演出してるとしか思えないような部屋だ。お姉さんは私に座るようにと顎をしゃくった。湯呑みを二つ取り出してポットから急須にお湯をそそいでお茶を淹れてくれた。私とお姉さんはずずっとお茶をすすった。「ここはわたしの実家なの。秘密のアジトじゃないわよ」ということはさっきのおじいちゃんは「わたしの祖父よ」お姉さんは籠に盛ってある煎餅の袋をあけると二枚のうちの一枚を私にくれた。食べかすをこぼさないように手で受けて食べていると、お姉さんがちゃぶ台の上にドサッとボストンバッグを置いた。「着てみて。サイズは合ってると思うから」え、なんですか急に。「正義のヒロインの衣装よ。我が結社のデザインチームが徹夜で作ったの。きっと気に入ってくれると思うわ」私はその衣装とやらをボストンバッグから出してみた。うわぁ、なんだこれ……ショッキングピンクのフリフリ衣装、しかも胸にでっかいリボンが付いてるし。これを着るのか、正直きついなぁ。「……」お姉さんはボリボリと煎餅をかじりながら私のほうを見ていた。無言のプレッシャーである。しょうがない、とりあえず着てみるか。私は制服を脱いでヒロインの衣装に着替えた。サイズはぴったりだった。なんというか、思ったほど恥ずかしくはない。ハロウィンの仮装だと思えばそれほど抵抗もなかった。「さすが女子高生、想像以上に似合ってるわ。じゃあ後はこれね」プリント用紙を私に手渡すお姉さん。鍵かっこでセリフのような文字が書いてある。なんですかこれ。「正義のヒロインには決め台詞が必要だと思ってね、きのう寝ないで考えてきたの。本番までに暗記しておくように」これは恥ずかしい。一読しただけで赤面してしまった。「それと……」まだなんかあるんですか、もうおなかいっぱいなんですけど。お姉さんはおもむろに一枚の写真を取り出した。「その女は西日暮里ゲートウェイの女幹部よ。この間の総理大臣誘拐事件の主犯格でもあるわ」私は一瞬我が目を疑った。写真にはお母さんが写っていた。運命の歯車が、ゆっくりと回りはじめたような気がした。

 高級車に送られて団地に戻ってくるころにはすっかり夜になっていた。私は衣装が入っているボストンバッグをぶらさげて住宅の階段を登った。なんだか足が重い。まさかお母さんが悪の組織の女幹部だなんて……なにかの間違いであってほしい。私は3階の踊り場で立ち止まった。チカチカと切れかけている蛍光灯の下で、盗撮されたであろう写真をまじまじと見つめた。芸能人がパパラッチされたような構図の写真に写っているのは、どっからどう見てもお母さんだった。私は魂が抜けるようなため息をついて再び階段を登りはじめた。団地の階段には黒く変色したガムが無数にこびり付いている。なにかヤなことがあって気をまぎらわしたい時はいつもそのガムを踏んで階段を登った。ゲーム感覚ですべてを忘れさせてくれる、とまではいかないが、これがけっこう楽しいのだ。いつも五階まで登るのにだいたい二、三人の住人とすれ違う。ここの住民はあいさつをしてもなかなか返してくれない。それでも私はめげずにあいさつをし続けてきた。『あいさつはちゃんとしなさい。されなくてもいいから』というのがお母さんの教えである。私は物心がついたころからその教えを忠実に守ってきた。お母さんの教えが間違っているとは思えないし、なによりお母さんのことが好きだから。

 私は玄関のドアを開けてただいまと言った。いつもより声が小さかったかもしれない。奥から「おかえり。遅かったわね」聞いたことはあるけど誰だかわからない声がした。お母さんじゃない。私は玄関に整然と並べられた靴を見た。履き古したお母さんのスニーカーの横にスタッズが打ち込まれた派手なハイヒールがあった。お姉さんのだ。さっきまでいっしょにいたお姉さんがどうしてここに……。私はまるで他人の家に上がり込むかのように、そっと玄関ののれんをくぐった。そこには談笑するお母さんとお姉さんの姿があった。「では、わたしはこのへんで」突然おじゃまして申し訳ありませんでした、とペコリと頭を下げたお姉さんは呆気にとられている私を素通りして玄関まで急いだ。私はあわててお姉さんを追って玄関まで引き返した。お姉さんは私の耳元で「明後日、やつらのアジトに乗り込むわよ。それまでにちゃんと台詞を覚えておいてね」雑に脱ぎ捨てられた私のスニーカーを整えたお姉さんは重厚なドアを開けて帰っていった。ドアの閉まり際、お姉さんは私をチラと見て微笑した。意味深長な笑顔で、どことなく不気味なオーラを感じた。私は玄関の鍵を閉めると居間へ戻った。お母さんは夕食の支度をしていた。カレーの匂いが部屋中に充満している。帰宅した時にはぜんぜん気がつかなかった。それだけ緊張していたのだ。悪の組織の女幹部と目されるお母さんと、それを正す正義の組織に身を置くお姉さんが同じ部屋にいた。しかも世間話をして談笑していた。なんだかわけがわからない。お姉さんはいったい何の用があってここに来たのだろうか。そのことをお母さんに訊こうにもなんて尋ねたらいいのか、言葉が見つからない。いつもならお母さんと話しをすることをためらうなんてないのに、それを意識したとたんにとてつもなく難しいことのように思えてくる。点けっぱなしになっていたテレビからアナウンサーの声が響いた。総理大臣を誘拐した犯罪結社西日暮里ゲートウェイが国家予算規模の身代金を要求しているとの内容だった。アナウンサーは抑制の利いた声で淡々とニュースを読み上げた。私は横目でお母さんの反応を伺った。微動だにしない。表情ひとつ変えず、黙々とカレーを煮込んでいた。お母さんは総理大臣を誘拐した組織の女幹部かもしれない。私の思考はお姉さんの与えた情報に傾きつつあった。でもまだわからない。そうと決まったわけじゃない。私はバイアスを振り払うように頭を振った。あんた何やってんの、といった表情でお母さんがカレーを持ってきた。香辛料の香りが食欲をそそる。お母さんはいつものソファーに座った。私はその左横に腰かけた。手を合わせていただきますをしてカレーを頬張る。ふと、お母さんの肩に視線を向けた。蛍光灯に照らされて一本の筋が光っていた。よく見るとそれは金髪だった。ウィッグの抜け毛……お母さんは黒髪だからお母さんの地毛ではない。私はYouTubeの動画を思い出した。あの女幹部も金髪だった。まさか本当にお母さんが……私は味のわからなくなったカレーを病人のようにゆっくりと咀嚼した。案の定どっか「悪いの?」とお母さんが訊いてきた。私は首を振って答えるのが精一杯だった。

 

 そしてついにその日がやって来た。いわゆるワンボックスの軽の中でヒロインの衣装に着替えた私は、お姉さんから暗記するように言われた決め台詞を反芻していた。それにしてももっと大きな車はなかったのかな。敵のアジトに乗り込むというのに軽自動車はなかろう。しかもこの中で着替えるとか。正義のヒロインというからには呪文を唱えて光に包まれて一瞬で変身するもんだとばかり思っていた。まさか軽自動車の中でだんごむしのようにごそごそと着替えるハメになるとは思わなかった。「準備はいい?」運転席からお姉さんが振り返って訊いてきた。私はとりあえず頷いてみる。準備などどこまでしてみても足りないような気がするからもうこれでいいやという感じだ。「あ、そうだ忘れてた」お姉さんは先っちょにハートマークの付いた物体を後部座席の私に押し付けてきた。マジカルステッキみたいなやつだ。この期に及んでなんだ。「それで戦うの、わかった?」わからない。こんなおもちゃで平気で人を射殺するような連中に勝てるわけがない。「そろそろね……」お姉さんは車のデジタル時計で時間を確認した。20時59分、湾岸埠頭に停車していた軽自動車は、さびれた倉庫に向けて徐行した。「いくわよ!」お姉さんはアクセルを目一杯踏み込んだ。軽自動車は扉をぶち破ると倉庫の中に突っ込んだ。天井から吊るされている総理大臣の周りを黒ずくめの覆面たちが囲んでいる。その中に、いた。金髪のハイレグ女、お母さん?「さぁ降りて、決め台詞を言うのよ!」急ブレーキでスピン気味に停車した軽から降車した私は、半ばヤケクソで決め台詞を叫んだ。


「たとえこの世が滅んでも、正義の炎は消えはしない。完全無敵、絶対的美少女ヒロインマジカルスカーレット、ここに推参!」



「はいオッケー!」



 覆面たちはとたんにリラックスした様子になり、どこからともなくメガホンを持ったチョビ髭が現れた。「いやぁよかったよ、じゃあここからは台本があるからこれね」インカムを付けた女性から監督と呼ばれるそいつは私にその台本とやらを手渡した。表紙にはポップな書体でタイトルが描かれていた。



 たとえお母さんが悪の組織の女幹部だったとしても私はお母さんのことが好き。

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たとえお母さんが悪の組織の女幹部だったとしても私はお母さんのことが好き。 おなかヒヱル @onakahieru

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