望み
若子
望む
自分の脳が自分のものでは無いようだった。何もない。何かがあったというわけでも無いのだ。ただ、訳もなくただ漠然と死にたくなる。そんな時期が度々あった。ネットで知ったんだけれど、これは希死念慮というものらしい。実に厄介だ。何かしらの原因があればそれの解決のために動けるというのに。ただただ訳もなく、死んでしまいたくなる。
その思考から逃げるために、僕はノートに自分の思いや、自分とは一切関係のない物語を書き進めていく。このノートは、もう二冊目。眠ってしまうまで書いているときが多いから、きっと今日もそうなるだろう。眠ってしまえば、こちらのものだ。眠ったあとは、希死念慮はどこか遠い場所へと行ってしまう。まあ少しすればまた戻ってきてしまうから、あまりいい方法とはいえないのだろうけど、目先の苦しみを何とかするということに焦点を絞ればいい方法だった。だから今日も、暗い部屋の中でスマホの電気を頼りにしながら書き進める。
「何かあったら、いつでも相談してね」
そう言った知人の顔がふと頭をよぎった。僕宛にしろ僕宛じゃないにしろ、こういうことを言う人間は多い。僕もまあ、誰かに相談しようとしていたこともあったさ。あったけれど、でもそういう人は、突破口を見つけてくれるわけじゃない。「死なないで」「生きるだけでいい」そんな言葉は僕には向いていない。頭では死にたくないと思っているのだから。何故か、体が、僕じゃない僕が死にたいと叫ぶのだ。不思議な感覚だと自分でも思う。僕は死にたいわけではないんだ。ただ、この死にたいという気持ちをどうにかしたいんだ。
自分でもうまく言えない感情だと分かっているんだけれど、どうにも伝わらない……というかまともに話すことさえ出来なかったことが多くて、何回か相談したときは全て「聞いてくれてありがとう。楽になったよ」と言って話を切り上げた。以降、誰にも話さないし話せなくなってしまった。どうせこの人もだめなんだという気持ちが相談しようとしたときに顔を見せる。諦めの感情がそこにあった。
お気に入りのシャーペンを持って、がりがりと自分だけの世界を書いていく。僕はどうにも幸せな世界観は好きにはなれなかった。何故、どうしてこの世界のこの人は成功したのに、幸せなのに、僕はこうなんだろうと惨めな気持ちになってくるからだ。フィクションと現実は違うものなのに混合して考えてしまっている自分を笑ってしまいたくなる。けれどどうしても、羨ましい、妬ましいという気持ちは僕の心のなかに芽生えた。だから僕は今日も暗い話を書く。誰にも邪魔されない、僕だけの世界を形作っていく。シナリオなんて考えていない。ただただ自分の作ったキャラクターが生き生きと、人間らしく動いてくれればそれでいい。誰かに見せるわけじゃないのだ。技法なんて考えなくていいだろう。
物語を書いていると、今まで分からなかった自分の感情が浮き出てくることがよくあった。僕はそれに気がつくたび、あっと思って嬉しくなった。まるで僕じゃない誰かが僕を見つけてくれたような心地がするのだ。僕の書く物語は、僕を見つけてくれる。だから僕は、自分の書く物語が大好きだった。楽しくなくていい。面白くなくたっていい。僕がいいと思えば、僕の書く物語は最高のものになる。唯一無二の、自分に寄り添ってくれるもの。自分を否定しないもの。それが、僕の物語だ。
……ああ気がついているさ。自分の体が欲している望みも、悩みも、その解決方法も。全部分かっている。分かっているけれど、それが、僕が諦めてしまったものの場合、どうすればいい。諦めを撤回する。出来るものならしているさ。僕はもう疲れたんだ。期待して、そして失望するのに疲れたんだ。誰か誰かと求めても、誰も応じてくれない。そればかりか距離を取られる。寄り添ってくれる人なんて、どこにも居やしない。形だけ心配するふりをして見せて、その実、心配している自分を愛している人のなんて多いことか。誰かに期待するくらいなら、この死にたいという気持ちに付き合ってやるさ。
人は生まれた瞬間から一人だ。孤独だ。知っている。知っているけれど、それでも、寄り添ってくれる人が、もしかしたらいるんじゃないかって。僕はまだ巡り会えていないだけなんじゃないかって。期待する苦しさを知っているくせに、失望する苦しさを知っているくせに、思ってしまう。
僕はただ、寂しいんだ。誰かに寄り添ってほしいんだ。誰かに理解してほしんだ。誰かから……なんの打算もなく、ただ僕のことを見てくれる人がほしいんだ。
強欲だな、とぼんやりする意識の中で、小さく笑った。
朝。朝刊がポストの中に入れられるときのカタンという音と、走っていくバイクの音で目が覚めた。何時間寝ただろう。真っ暗な部屋の中、手探りでスマホを探し見てみれば、朝の四時だった。だから、多分二時間くらい。ぐ、と伸びをして、朝ごはんの準備をしようと自分の部屋を出た。
「あら、おはよう」
「あ、おはようお母さん!朝早いね。お疲れ様、いつもありがとう」
「ふふ、どういたしまして。帰りはまた遅くなると思うけど……」
「うん、何か簡単なもの作るから、私は大丈夫だよ」
「出来のいい娘が居て本当に助かるわ……じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね!」
母が玄関のドアを開けてから出ていったのを確認して、僕は重いため息を吐いた。
「出来のいい娘、ねえ」
自分に都合の良い娘、の間違いだろう。迷惑にならない、ちゃんと自分を引き立ててくれる、いたわってくれる愛しい愛しい愛娘。反吐が出るな。まあ今更、か。親も人間だ。そういう面があるのは仕方ない。
台所へと向かって、まだ寝ている父と弟の朝食を作り始める。トントンと味噌汁の具材を切りながら、お湯を沸かす。
希死念慮。一度母親に言ったときは、ヒステリックに叫ばれたなとぼんやりと思い出す。まあ多分、長年愛情をこめて育てあげた娘がそんなことを思うなどと信じたくなかったんだろう。自分の教育は間違っていなかったんだと信じたいんだろうさ。ああくだらないくだらない。皆結局は、自分が何よりも大事なんだ。それは僕も、同じだ。人のための行動が神聖なものならば、自分のための行動は薄汚くていやらしいものなのだろう。僕も所詮は、薄汚れた汚らしい人間の一人に過ぎないんだよ。神聖なもの。何故神聖なのかと言われれば、そういう行動をする人が極端に少ないからだろう。打算のない人間なんて、世の中には中々いないさ。そういう人を求めているんだよ僕は。なんて愚かなことなんだろう。
切った具材をお湯の中に入れる。ぱんと頬を叩いて、自分を切り替える。
こんな薄汚れた世界で生きるんだ。汚れてしまうのは仕方ない。自分の望みなんて、叶わないことのほうが多いんだ。それはきっと、他の人も同じだ。だから仕方ない。
「お父さん!起きる時間過ぎてるよ!」
だから、せめて、出来るだけ綺麗な人を装うんだ。類は友を呼ぶ。そういうふうに装っていたら、いつか、本当に綺麗な人が、目の前に現れてくれるかもしれないから。
望むぐらいは許してくれないか。その苦しみを、ちゃんと受け止めるから。せめて、望むぐらいは、させてくれ。
望み 若子 @wakashinyago
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます