第5話 第二章 イナの村2
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意識を失っている間、モリオンの心はイナの丘の上で薬草取りをしている時間に戻っていた。朝の日課の薬草取りをしているモリオンが、そこにはいた。黙々と薬草取りをするモリオン。しかし薬草採りの手をと止めて空を見上げた瞬間、イナズマオオワシが現れ、モリオンは崖の上へと追い詰められ、ついに崖から落ちてしまう。
助けて……
モリオンが声にならない声で叫ぶと、突然何者かがモリオンの身体を掴み、丘の上まで運んでくれた。
「大丈夫かい」
崖下に落ちるのを免れたモリオンの前に、見ず知らずの青年が姿を現す。黒髪の、イナの村人ではない青年……。その横には大きな騎乗用の器具を付けた大きな銀色の鳥がいる。イナズマオオワシの姿は、もうどこにもない。モリオンは、この不思議な青年と話をしようと試みる。しかしモリオンが話し掛けないうちに、青年はモリオンに袋を一つ手渡し、銀色の鳥の背中に乗って、再び空へと飛び去っていく。
青年と銀色の巨鳥の姿が消えると、モリオンは青年から受け取った袋を開け、袋の中身を確かめる。袋には、大きな銀色の卵が見えた。殻の中から雛の声がする、孵化前の卵だ。
(私はこれからどうしたらいいのだろうか)
銀色に光る卵を見ていると、モリオンの心を不安が襲った。そして不安に駆られたモリオンは、ただひたすら不思議な卵に声を掛け続けるのだった。夢幻の中で。
「泣かないで……私が守ってあげるから」
モリオンの呼びかけに答えるように、卵の中から元気な声が聞えてくる。大きな声が一声響き渡ると、銀色の卵に突然、大きなひびが入った。雛が生まれるのだ。しかし雛の姿を見る前に、モリオンは現実の世界に戻された。
何処からともなく聞こえてくる祈りの声を聞き、モリオンはゆっくりと目を開ける。すると見慣れた部屋の中と、寝台に横たわるモリオンを覗き込む女たちの顔が見えた。時間はもう夜の様だ。モリオンは幾つかある家の建物の中でも、母が病人の治療をしたり看病をしたりする為の建物の部屋で、広い部屋に一つだけ置かれた寝台に寝かされていた。しかも今まで着ていた服からゆったりとした病人用のガウンに着替えさせられ、右肩から腕にかけてしっかりと布が巻かれている。絶え間なく聞こえる祈りの声は、村の巫女である母の声だ。
「やっと気が付いたのね、モリオン」
モリオンが目を覚ましたのを見て、一人の女が嬉しそうにモリオンに話し掛けて来る。それはモリオンの叔母の一人で、ベリルと言う女性だった。
「賢女の祈りが通じたのね、よかった、よかった」
叔母はモリオンに話し掛けながら、寝台で寝ているモリオンの頭を撫でる。
「お、叔母さん」
叔母の顔を見たモリオンは、起き上がろうとして上半身を持ち上げる。だがたちまち右肩の痛みに襲われて、再び寝台に伏せった。
「痛い!」
悲鳴をあげて寝台に蹲るモリオンを、ベリルは背中をさすって落ち着かせる。そしてモリオンの上半身を抱き起こし、陶器のコップに半分ほど注がれた薬を差し出した。痛み止めの薬だ。
「さあ、これを飲んで」
モリオンは叔母に言われるままその苦い薬を飲んだ。叔母のベリルは、腕の良い村の治療師だ。叔母の薬を飲んで、症状がひどくなった人は一人もいない。モリオンはコップの薬を一気に飲み干し、寝台に横たわる。薬の効果はすぐに現れたらしい。横になってから暫くすると、痛みは徐々に引いて行った。
「これで痛みは治まるはずよ。モリオン、どうして怪我をしたのか、話してくれない?」
モリオンの様子を見て、叔母はモリオンに問い掛ける。叔母の側には、何時の間にか祈りを終えた母がいた。祈祷用の丈の長い白衣を着た母は、無言でモリオンを見詰めている。慈愛の篭った眼差し……しかし母はその眼差しで、本当のことを話すように娘に促している。母には逆らえない。モリオンは本当の事を話し始めた。銀色の巨鳥と鳥使いの事は省いて。
「崖から落ちそうになったの、薬草の丘の崖から……イナズマオオワシに襲われてね」
「本当?」
「ええ」
モリオンが答えると、そこにいた誰もが驚いた顔をして、しばらく沈黙した。モリオンの言うことが、信じられないというように。
「イナズマオオワシ襲われたなんて……それにこんな怪我をした体で、よくまあ薬草の丘から歩いて帰れたわね。さあ、詳しく話して頂戴。特に、イナズマオオワシが何処に行ったのかを」
沈黙を破って話し出しだしたのは、やはり叔母だった。母は相変わらずその横で、モリオンを見詰めている。
「あの猛禽が何処に行ったのかは、分からないわ。それに、どうやって帰って来たのかも記憶に無いの。気が付いたら鳥小屋の前で倒れていたわ。まるで覚えてないのよ」
モリオンは、懸命にごまかそうとする。どうしても本当の事を、完全には言えなかった。マダラウズラの背中に乗って、村まで帰ってきたなど言ったら、変人扱いされるのは目に見えている。まして空を飛ぶ巨大な鳥に乗る人間と出会ったなどと言ったら……。それにラグに託した銀色の卵も、見つかったら村の外に放り出されてしまうだろう。モリオンはそれ以上何も言わずに、ただ寝台を取り囲んでいる女達の顔を見ていた。薬草の丘で思いがけなく出合った、鳥使いの青年を思い浮かべながら……。
「モリオン」
静かな中に、祈りを止めた母の声が響く。
「辛いのなら、無理して話さなくてもいいのよ。恐ろしい思いをしたみたいだから」
母はまるで、本当のことを話したくないモリオンの気持ちを感じ取ったような言い方をした。そしてそっとモリオンの手を握り微笑んだ。
「でも賢女、猛禽が薬草の丘に着たとなれば見過ごせません。村にはいってくるかもしれないのですよ」
叔母が母に反論する。すると母はモリオンの手を握ったまま、叔母を見据えた。微笑みはすでに消えている。
「心配なら、村の周囲に見張りを何人か立てましょう。二、三日それで様子を見て、猛禽の姿見えなければ大丈夫です。イナズマオオワシは、村の近くで長く居座ったりはしないはずです」
「でも、賢女……」
母の言葉を聞いても、伯母は不満な様子だ。だが母の次の言葉が、叔母の反論を封じた。
「モリオンには休息が必要です。何があったのかは、モリオンが回復してから聞いても遅くありません」
これで決まりだった。母の意見を聞いた伯母は寝台に横たわるモリオンの頭を二三回軽くなでると、黙って部屋から出て行った。伯母が出て行くとそれが合図になったみたいに、モリオンの様子を見に来ていた人達も一人また一人と帰っていく。そして部屋に残ったのは、母と姉のティアドラだけになった。
「モリオン、さあもう休みなさい。今の彼方には休息がなにより必要なのよ」
がらんとなった部屋の中で、母の声だけが響く。母の横で控えている姉は、ただ無表情でモリオンと母を見ているだけだ。そしてモリオンは、母が自分に何が起こったのかを、もう感づいているのではと疑っていた。
「いいこと、モリオン。薬草の丘で何があったのかは知らないけどね、秘密にしたいことがあったら秘密にしておいてもいいのよ。それでいいのなら」
「かあさん……」
間違いない。やはり母は気付いているのだ。自分に何があったのかを。モリオンはそう確信し、困惑した。鳥使いや銀色の卵の事が、母に知られたらどんなことになるのか、皆目分からない。ところが母の次の言葉は、なんとも突拍子も無いものだった。
「実はねぇ、モリオン。私もみんなに言って無いことがあるの」
「えっ?」
モリオンと姉は同時に驚きの声をあげた。だが母は、二人の驚きを無視して告白をしだす。
「モリオンが薬草の丘で薬草取りをしている時だったわ、あの大きな銀色の鳥を村はずれで見たのは。モリオンが薬草の丘にいって暫く時間が経ってから、まずイナズマオオワシが飛んできたの。その後、銀色の大きな鳥が飛んできたのよ。樹海の方角から飛んできて、あっという間に村の上空を掠めて飛んでいったわ。薬草の丘の方向にね。村のみんなは、薬草の丘とは反対方向の畑に出ていたから、まったく気付かなかったようね」
母の思わぬ言葉に、モリオンは声も出ないほど驚いた。母があの鳥を見ていたなんて、思っても見なかった。
「本当なら、みんなに知らせるべきだったのでしょう。でも直感で分かったの。あの銀色の鳥は、人間に災いをもたらさないって。それにちゃんと知らせても、みんな慌てるだけでどうにもならなかったはず」
母の話を聞き、モリオンも姉も、母に何か質問しようとした。だが二人とも、質問する前に声が詰まってしまった。何をどう質問したらいいのか、頭が混乱して上手く考えられないのだ。しかしモリオンは、どうしても知りたいことがあったので、何とか口を開こうとしていた。しかし……。
「分かりました、おかあ……いや賢女。彼方がそういうのなら、それが正しいのでしょうね。でも何故、彼方が見た鳥が災いをもたらさないって、言えるのですか?」
姉のティアドラが、モリオンより先に質問する。それもモリオンが聞きたいと思っていた質問をしていた。
「あの鳥は人には慣れているわ。だって明らかに、人間が作ったものを身に付けていたもの。多分、人が乗る為の道具だろうと思うけど。その鳥に乗っていたのは、樹海の鳥使いでしょうね」
母はたいした事ではないように、自分のみたこと事を話す。その横で、モリオンの姉はうろたえていた。鳥に乗る人間……それはイナの村の人間にとって、想像するのも忌まわしいものだった。昔イナの村は飛べない鳥、走鳥に跨った無法者達に襲撃されたと言う言い伝えが、村人達を鳥から遠ざけていた。鳥に乗る人間の姿は、その無法者たちを連想させる。その襲撃はもう何世代も前の出来事だと言うのに、村人達はずっと、鳥という鳥を嫌い続けていた。そして鳥に乗った人間は、何よりも恐ろしいものの象徴のように言われている。
「ティアドラ、モリオン。今の村人は確かに鳥を恐れているわ。でもね、昔からイナの村が鳥嫌いだったのではないのよ。走鳥に乗った無法者が現れるまではね、樹海にいる鳥使い達がイナにも来ていたのよ」
俄かには信じられない話だ。空を飛ぶ鳥に乗った人間がこの村に来ていたなんて、今まで聞いたことは無い。樹海に鳥使いがいる事も。樹海の鳥使いとは、いったい何者なのだろうか? 謎が多すぎる。むその謎を解き明かすように、母は話を続ける。
「樹海の鳥使いはね、樹海の専門家なのよ。彼らは銀色の大きな鳥に乗って、樹海を縦横無尽に移動するの。この村には、樹海の奥深くでしか見つからない薬草や鉱物を持ってきていたらしいわね。私は直接彼らを見た事は無いけれど、小柄でも逞しい人達だった聞いているわ」
それから暫く、母の鳥使いの話は続いた。母の話によると、鳥使いは樹海の中心部に住んで、銀色の鳥を飼い慣らして生活しているのだそうだ。嘗てはイナにも頻繁に、物々交換に来ていたらしいが、無法者の襲撃の後、交流は途絶えたのだと言う。そして鳥使いの記憶は、どうした訳か村の中から消え鳥への恐怖だけが残ったのだ。村の巫女、賢女を除いては。
「鳥使いが持ってきた薬は、今もこの家に残っているのよ。モリオンの治療にも、その樹海の薬を使ったわ。そこにある塗り薬よ」
母は寝台横の小さなテーブルを指差す。そこには、二枚貝を利用した入れ物に入れた塗り薬があった。
「もう随分数が少なくなって、貴重品になってしまったけれどね、まだ役に立っているわ。これ以上、効き目の強い傷薬は無いのよ」
モリオンはしげしげとテーブルの上の塗り薬を見た。賢女の薬に、こんな秘密があったなんて……。
「信じられない」
ティアドラがぽつりと言う。それはモリオンも言いたい言葉だ。驚く二人を前に、母は話を続ける。
「私が使う分はまだあるわ。でも、彼方達の時代までにはもうなくなってしまうでしょうね。モリオン私はね、彼方がイナズマオオワシに襲われて、その傷を樹海の薬で手当てをしたのは、再び鳥使いとの交流が始まる前触れじゃあないかと思っているのよ」
「鳥使いとの交流?」
母の話は、どうやらイナの村の運命も左右する話に発展しそうだ。そう思ったモリオンと姉は、耳をそばだてて母の話を聞く。何しろ二人とも、将来は村の指導者、賢女になる可能性があるのだ。村のさまざまなことを知っておく義務がある。
「鳥使いは樹海の案内人、交易商人であると同時に、私達の知らない知恵の保護者でもあるの。私達をはじめ、樹海の近辺に住む人間達は、必要な時には彼らの持つ知恵を頼りにしていたの。この村ではもう忘れてしまっているけれど。でも、この村が彼らの知恵を、再び必要する時が来ると私は思っているわ」
モリオンと姉は母の話を聞きながら、互いに顔を見合わせあう。イナの村にとっては、鳥使いの知恵にはどんな意味があると言うのだろうか? 姉の目を見ていると、二人とも同じ事を考えているのが分かった。二人とも樹海の鳥使いについて、もっと詳しく知りたいのだ。そしてそんな二人の気持ちを、二人の母はしっかりと見通していた。
「鳥使いの事については、いずれ彼方達にも詳しく教えていくつもり。でも今はだめ。彼方達には、其の前に覚えなければならない事が、たくさんあるのだから」
母は娘達を諭すように話す。
「はい、お母さん」
モリオンと姉は、素直に母の言葉に答える。しかし二人とも、心は樹海の鳥使いに向いていた。特にモリオンの頭は、薬草の丘で出会った鳥使いの青年の事でいっぱいだった。はたしてあの青年は、何をしに樹海から薬草の丘までやってきたのだろうか? モリオンに手渡した卵を、何故袋に入れて持っていたのだろうか? 知らないうちに、モリオンは寝台に横たわりながら考え込んでいた。
「モリオン、眠たそうね。さあ、もうみんな寝ましょうか」
母はそう言うと、天井から人の手の届く高さまで吊り下げている光籠に覆いを掛けた。光籠には、熱を加えると数日間は光り続ける石が入っていて、夜の薄暗さを和らげる。もう夜だった。モリオンは、今まで時間を忘れていたのに気付く。空に出ている月の数が多い為に、あまり暗くはないけど確かに今は夜だった。それもかなり遅いようだ。
「みんな……遅くまで私の看病をしてくれていたのね」
モリオンが思わず呟いた言葉に、母は微笑みなから答えた。
「気にしないで。これから朝までゆっくり体を休めるから、私は大丈夫よ。お休みなさい」
それだけ言うと、母はさっさと部屋を出る。
「おやすみ」
母に続いて、姉も扉のむこうに消えていき、部屋の中にはモリオン一人だけになってしまった。すると静けさが一人ぼっちの部屋を包み込み、モリオンは何とも言えぬ寂しさを感じる。普段の夜ならモリオンは、母屋の大部屋で年下の子供達と一緒に母と寝ているはずだ。病気になって病室に入った時でも、看病をしてくれる人と一緒だった。
もう大人になる時が、近づいているのかもしれない。一人にさせられた理由を、モリオンはそう解釈していた。イナの娘達は、幼児期から少女期までを親と一緒に寝起きをする。しかし大人の徴を見たときからは、大人の女達が住む別棟の部屋で一人寝起きをするのが決まりなのだ。成人した娘達は自分に与えられた部屋で暮らしながら青年達と恋をし、やがて母親となる日を迎えるのだ。モリオンにも、もうすぐ大人になる日が迫っているのだろう。母はその時が来る前に、一人寝を経験させておこうと思ってモリオンを病室に一人残したのだ。娘のために……。さあ、早く寝よう。母の気持ちを思いながら、モリオンは目を閉じた。今の自分に必要なのは、十分な睡眠と栄養だ。誰にも言われなくても、それくらいの事は理解出来る。まだ空腹を感じらなくても、身体は自然に眠りを欲していた。目を閉じると、モリオンはすぐさま眠りに陥った。
眠りに入ると、モリオンは直ぐに夢を見ていた。薄暗く稲妻が閃く空の上を、銀色の巨大な鳥が空を二羽飛び回っているのを見る夢だった。二羽の銀色の巨鳥達は、それぞれの背中に人間を乗せている。一人は女でもう一人は男だ。二人とも、モリオンが薬草の丘で出会った鳥使いと同じ服装をしている。誰だろう? 空を飛ぶ鳥達を見詰めながら、モリオンは、ぼんやりと考える。あの鳥使いの仲間なのだろうか? そういえば、女の方は薬草の丘で出会った鳥使いに顔が似ている。
[誰、誰なの?]
モリオンは、声にならない声で鳥の背の二人に呼ぶ。すると一瞬、女の方がこちらを振向き、目と目が合ったような気がした。モリオンの呼び掛けが、女鳥使いの耳に届いたのだろうか? それを確かめる間も無く、二羽の巨鳥と二人の人間は、薄暗い中に遠雷が閃く空へと消え、モリオンは目を覚ました。
目を覚ますと、薄暗い部屋が目に入った。まだ夜は明けてはいない。もう少し寝ていなければ。モリオンがまた目を閉じて寝ようとすると、部屋の窓から光が閃くのが見えた。稲妻だ。しばらく窓を見ていると、再び稲妻が閃く。そしてモリオンは、遠雷の中に鳥使いを背中に乗せた銀色の鳥の幻を見たのだった。ついさっき、夢で見た巨鳥と鳥使いの姿だ。彼らは実際、この世界に存在し、モリオンの見ている空を飛んでいるのだろうか? そしてあの銀色の卵を引き取りに、この村にいるのだろうか? その時までに、この病室をでられたらいいのだが。そう思いながら、モリオンは彼らをもっとよく見ようとする。だが再び遠雷が空に閃いたとき、彼らの姿は空から消えていた。幻のように。そしてさっき見たものが幻なのかどうかを確かめる術も無く、モリオンは再び、深い眠りの中に入っていった。
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