もつとも幸福なひと
幕路 鈴
もつとも幸福なひと
私が目を覚ましたとき、そこは病院でした。なぜ私が病院にいるのか、全く検討がつきません。記憶が混濁しているのでせうか。
そして不幸にも、誰も居ないやうで、聞くこともできず、暫く待つてみましたが、いつの間にか寝てしまひました。
**********
次に目を覚ますと、私の横には娘がおりました。娘は私に話しかけてゐますが、肝腎の、私が目覚めたといふ事柄には気が付かぬやうです。
私は娘に声をかけやうとして
「おい」
と云ひました。
しかし、それは声となりません。
仕方なく、手を動かさうとしましたが、手も動きません。それどころか、体を少しも動かすことができません。
如何にもこうにもならないので、せうがなく娘の話を聞いてゐると、それはどうも孫の話のやうです。
娘の息子にあたる孫、ケイイチが、近いうちに結婚し、所沢に家を構へるさうです。息子に子供が産まれたら色々と世話を焼いてやりたいが、姑として介入しすぎるのも嫌だと云つてゐます。
私はケイイチにお付き合ひしてゐる方がゐることさへ初耳だつたので、驚きましたが、同時に喜ばしく、体は動かなゐながらも、涙が出さうになりました。
ケイイチは私の初孫で、産まれた時は我が子のやうに、いや我が子以上に可愛がりました。我が子の時は、緊張と不安で、心の余裕がありませんでしたが、孫となると、いささかの余裕が生まれ、可愛がることに専念できます。そのため、何かと云つてはケイイチにお金をあげてしまひ、娘や妻には甘やかしすぎではないかと怒られてゐました。
そんなケイイチも、いつの間にか大人になり、所帯をもつまでになつたといふと、子供の成長とはやはり早いものです。
娘が話し続けてゐると、妻がやつてきました。そして、娘の獨り言は、妻との会話へと移り変はりました。
それはケイイチの話から始まり、ケイイチの妹の進學の話や、娘の職場の話など、次々と移ろひました。そして、5時になると、看護師に促され、二人とも帰宅しました。
二人がゐなくなると私も暇になつてしまひましたので、静かに眠りに入りました。
**********
そして、それから一週間といふもの、娘や妻は勿論のこと、当のケンイチやその兄弟、また義理の息子や私の元部下など、色々な人が私の病室へとやつてきました。
私は依然として体を動かすことができず、ただ話を聞いてゐるだけでしたが、昔の話や、子供たちの成長を聞いてゐると、時間はすぐに過ぎてゆきました。
それと同時に、一抹の不安を持つてゐました。
死、といふ不安です。
皆、よつてたかつて私の元に来るといふことは、私には死期が迫つてゐるのではないだらうか。余命が幾ばくかしかないのだらうか。
そのような不安が心を支配します。特に皆が帰つてしまひ、時計の音と医療機械の音といふ、無機的な音だけの空間になると、どうしやうもなく心細くなります。しかし、それを伝へることもできません。
また、皆は良かれと思つて、昔話や子供たちの成長、現在の自分たちの状況などを話していきます。しかし、そんなことを聞いてゐると、どうしやうもなく、心の底から、生きてゐたくなるのです。死にたくなくなるのです。未来を見届けたくなるのです。
私はそんな不安と闘いながら、この一週間を過ごしました。
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しかし、今日はいつもと違ひます。私が目を覚ますと、妻は私の横で啜り泣いてゐるのです。
そして、男の声、おそらく医師である男性が、それでは正一さんの呼吸器を外させていただきます、と云ふのです。
私は最初、この人は何を云つてゐるのだらうと思ひました。理解できませんでした。しかし、その言葉の意味を理解した途端、悪寒が走りました。
私は待つてくれと云ひました。懇願しました。泣きたくなりました。
が、声は届きません。
そして、私の口から何かが外された感覚がありました。
私はどうにかして意思を伝へやうと思ひましたが、苦しい感覚が脳を支配していきます。
妻は。私に、苦労をかけました、お疲れ様、と絶え絶えの声でいひました。
そして私は思ひ出しました。
なぜ、私が病院にゐるのか。
私は自殺をしたのです。
私は退職してからといふもの、無気力な毎日を過ごしてゐました。社交的な妻とは違ひ、友人も少なく、また趣味もほとんどない私は、悠久にも感じる時間を、必死に消費しました。
しかし、我慢の糸はある日ぷつんと切れました。希望のない未来。それを嘲笑ふ、膨大な時間。
これは私を絶望させるのに十分でした。
私は衝動的に持病の常備薬を全て出し、それを飲みました。そして、死にました。死んだつもりでした。
しかし、今は生きたくてたまらないのです。どうにかして助けてもらひたいのです。
あれは気の迷ひでした。私には家族がゐて、自分を思つてくれる人がゐました。もし戻れるなら、殴つてでも、それこそ半殺しにしてでも自殺を止めます。どうか、どうか助けてください…。
************
男性は失はれゆく意識の中で、必死に生を懇願したが、その願いが聞き届けられることは、ついに無かった。
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男性の死後、家族の別れも済み、看護師たちは男性の骸を霊安室へと運んでいた。
「この人、自殺した後、ついに意識が戻らなかったわね。」
「ええ、しかし、自殺未遂で意識が戻ったとしても、後遺症で悩まされるだろうし、実は意識が戻らない方が幸福なのかもしれないわ。」
「それをいうなら、この人はもっとも幸福な人だろうね。明日から法改正されて、積極的安楽死ができなくなるのだもの。一日遅ければ、安楽死することができなかった。永遠に無意識下を彷徨う羽目になっていたはずだわ。その点、この人は死という本懐を遂げられて幸福ね。」
もつとも幸福なひと 幕路 鈴 @suzu_makuro
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