バレンタイン・イヴ
宮守 遥綺
バレンタイン・イヴ
それはまさに、青天の霹靂だった。
二月十三日 土曜日。
外国産の感染症が地球のすべてで猛威を振るい始めてから既に一年。感染押さえ込みのために強制された「全国学校一斉休校」なるもののせいで、僕たちの土曜休みは奪われた。 憂鬱な土曜授業。ため息を吐きながら開いた靴箱の中に、それはあった。
「……え」
棚の上段、上靴の横。
くたびれた上靴に立てかけるようにして置かれた、鮮やかな赤い箱。
一瞬、息が止まる。
これは、何の間違いだろう。
開いた扉を一度閉め、書いてある番号を確認する。
二年C組一番。
うん、間違いない。
もう一度歩開いてみる。
やっぱり入っている、小さな箱。
世の中のおモテになる方々はこんなこと、学生時代に何度も経験しているのだろうが、これまで生きてきた十七年、義理以外のチョコレートをもらった経験など無かった僕がそこで固まって閉まったのは仕方が無いことだろう。
恐る恐る手に取った箱は掌に収まる大きさで、真っ赤な包み紙を白いレースのリボンが飾っている。自分で結んだのだろうか。結び目が斜めになっていた。
昇降口のドアが開く度、凍てついた風が僕の後ろを吹き抜ける。繊細なリボンが、ふわふわと揺れる。
頬が熱くなるのを感じ、僕は慌てて箱を鞄に仕舞った。同じクラスの奴らに見られたりしたら、面白おかしくイジり倒されるのは目に見えていた。
上靴を履き、教室に向かう。大切に鞄に仕舞った小さな箱を思い出すと、頬が熱くなり、筋肉が緩むのがわかった。感染症のおかげで外せないマスクに、今だけは感謝だ。
後ろのドアから教室に入ると、中はお祭り騒ぎだった。
「え、これ誰から?」
「それ、佐々木から! めっちゃうまそうだよな!」
「うまそう、じゃなくて、うまいのよ!」
普段はいがみ合っている男子、女子が、入り乱れてのチョコ祭り。ラッピングされたチョコレートやらブラウニーやらの包みがあっちへこっちへ飛び交っている。
僕の机の上にも、すでにいくつかの包みが置いてあった。透明の小さな袋に入ったクッキーに、淡いピンク色の袋に入ったブラウニー、溶かして固めたチョコレート。
「これ誰から?」
隣の席でスマホゲームに興じている高倉に聞く。「ちょい待ち」とこちらを見もせずに言った高倉のスマホを覗き込む。彼の指がするするとパズルをそろえて消し、禍々しいオーラを放つデフォルメキャラクターに攻撃した。
「お、新ステージ。どう?」
「このキャラいないときついかも」
「ガチャ引けってことか……。石ないって」
「まぁ、それが運営の狙いだろうしな。で、何だっけ」
「ああ、これ誰から?」
「クッキーが佐々木、ブラウニーが井田、チョコが渡辺」
「ありがと」
女子三人に礼を言って席に戻る。ふと、靴箱に入っていた箱の送り主が気になった。そういえば、名前を確認していない。
そっとスクールバッグを開けて、中で小さな箱をクルクルとひっくり返してみる。名前は書いていない。
一体、誰から。
「あれ、
からかうような小声が後頭部から降ってきて、驚いて振り向く。さっきまで隣でゲームをしていた高倉が、ニヤニヤしながらこちらを見下ろしている。
うわ、マジかよ。
「んな顔すんなよ。アイツらには言わねぇからさ」
「……絶対言うなよ」
言ったら、絶対に面倒なことになるからな。 僕たちみたいな平々凡々、薄影野郎は教室の隅っこで目立たないようにしているのが一番なんだ。そんな奴が、ともすれば義理じゃないチョコをもらったなんて知れたら……。 そこまで考えて、ため息を吐く。
面倒だ。絶対に面倒だ。少なくとも今日一日はイジり倒される。男子にも、女子にも。
不審に思われない程度に周りを見回す。予鈴五分前の教室にはすでにほとんどの生徒が集まっていて、お祭り騒ぎはさらに大きくなっている。教室の隅でゲームに興じているコミュ障二人組を気にする人間はどこにもいない。
僕はニヤニヤしたまま椅子に座り、こちらに寄ってきた高倉にこれ見よがしにため息を吐いてやりながら、観念して赤色の箱を取り出した。
「お、これは多分手作りだな」
「多分な」
「開けていい?」
「なんでお前が開けるんだよ」
斜めになったリボンを解こうとする高倉から、慌てて箱を取り上げる。
「開けてみようよー、明日実くーん」
ユラユラと体を揺らして急かす高倉。
「名前、書いてないんだろ? 中に何か入ってるかもよ?」
この野郎、僕が何で箱を見てたのか、初めからわかってたな。その勘の良さが恨めしい。
高倉を睨み付けるが、奴はどこ吹く風で「早く早く」と楽しそうだ。
仕方なくレースのリボンを解いていく。丁寧に折られた包み紙を開くと、出てきたのは真っ白な箱だった。蓋を開けてみる。
「お、チョコマカロン! うまそう」
出てきたのは、少し形の崩れたマカロンだった。リボンといい、マカロンといい、送り主は不器用らしい。
歪なそれを笑う高倉を尻目に、僕は包み紙や箱の蓋を隅々まで観察する。しかし送り主に繋がりそうなものは何ひとつ出てこなかった。 ガラリ、と前のドアが開く。
入ってきた担任が「俺が見てないうちに、お菓子はしまえよー」と脳天気に言った。
高倉は「よかったな」と最後までニヤニヤ顔で言って席に戻る。僕は包み紙でもう一度簡単に箱を包み、リボンと一緒に大切に、鞄の中に仕舞った。
その時、手の甲に触れた別の箱。
白い包み紙を赤いリボンで飾り付けた、小さな箱だ。
それを見て、どうしようもない申し訳なさが心の中に広がる。
赤い箱の送り主はわからない。
だけど僕は、この箱の送り主の気持ちに応えることはできないのだ。
帰りの会終了と同時に僕は教室を出た。高倉はまだニヤニヤとしたまま僕を追いかけてこようとしていたけれど、その毒牙に捕まるわけにはいかなかった。
階段のある方向に歩きA組の前で立ち止まる。ドア窓から覗くと、まだ帰りの会の最中で、距離をとって並べられた机に行儀よく生徒が座っていた。
廊下の端に寄り壁にもたれかかる。
鞄の中から、白い箱を取り出した。
中は昨日の晩、ネットでレシピ検索しながら作ったチョコレートのカップケーキ。
姉から「バレンタインのお菓子にもね、意味があるんだ。カップケーキもらったら教えなさいね。本命、ってことだから」とからかい半分に言われたのを思い出しながら焼いたのだ。
何も、バレンタインに告白するのが女子からでなければならない、なんてことはない。最近は「逆チョコ」なんて言葉もあるんだし、大丈夫なはずだ。
黒髪を揺らして笑う幼なじみの姿を思い出し、心の中で「大丈夫だ」と繰り返す。
そうこうしているうちに教室のドアが開いた。雪崩れるように出てくる生徒たちの間に目的の人物を見つけて、僕は声を上げた。
「
黒髪の頭がぱっと振り向く。
その目が僕を捕らえた瞬間、大きく見開かれた。
そして。
「え、結!?」
彼女――
「結! アイツ、足速……」
昇降口を出て、大きな通りを走り、住宅街を走った。結はまったく振り向かない。「女子と男子だ。いくら何でも追いつける」なんて高を括っていたが、結は案外足が速かったらしい。体力もある。対して僕は、足は大して速くもなく、体力なんて無いに等しい。住宅街の中で、追いつくどころか見失ってしまった。
大きく鳴る心臓が苦しくて、立ち止まる。さすがに苦しくて、マスクを外した。冬の風が頬に当たって心地いい。
仕舞う間もなく、右手に持ったままだった白い箱に視線を落とす。中のカップケーキはきっとグシャグシャになっているだろう。想像して、ほんの少し泣きたくなった。そっと、それを鞄に仕舞う。
それにしても。
「相変わらず、結はすごいなぁ」
足も速くて、体力もある。頭も良くて、優しくて、笑うとかわいい。泣き虫で、ちょっと不器用だけど、そんなものが気にならないくらい結にはたくさんいいところがある。
だから僕は、ずっと彼女が好きなのだ。
「結……」
もしかしたら、結にはほかに好きな人がいるのかもしれない。だけど。
だけど、伝えずに諦めるなんてことはしたくなかった。
いつもの帰り道を歩き、隣の家のインターホンを押した。
『はーい』と出てきたのは結のお母さんだった。由比に会いたいことを伝えると、「ごめんねぇ」と笑った。
「あの子、まだ帰ってきてないの。昨日、一生懸命お菓子作ってたし、友だちと教室で食べてるのかもね」
「お菓子?」
「うん、何だか張り切ってね、チョコレートマカロンなんておしゃれなお菓子、作ってたんだよね」
チョコレートマカロン。
それを聞いて、僕は走り出していた。
頬が熱くなる。
隠すものは今はないけれど、それでよかった。
勘違いかもしれない。
だけど、勘違いじゃないかもしれない。
僕は走った。
遠い昔、いつも一緒に遊んだ公園へ。
「……っはぁ、見つけた……」
上がった息のままに吐き出した言葉に、振り返る姿がある。
「……
目を見開き逃げようとする結に駆け寄り、慌ててその手を握った。もう、逃げられるわけにはいかない。
「マカロン、ありがとう」
結の目がますます大きくなる。瞳がこぼれ落ちそうだ、と思った。
「でさ、これを、僕からも渡したくて」
「え?」
一度鞄の中に仕舞った白い箱を差し出す。赤いリボンはふにゃりと曲がってしまっていた。
「……持ったまま走ったから、中身、グチャグチャかもしれないけど」
目を白黒させたまま箱を受け取った結が小さな声で「開けていい?」と言った。僕が頷くと、恐る恐るといった手つきでリボンを解く。
中は、思ったよりもグシャグシャになってはいなかった。入れた場所からは寄ってしまっているけれど、それくらいなら御の字だ。
結は一度大きく息を呑んで、そのまま僕が作ったカップケーキを眺めていた。
やがてその顔にゆっくりと、柔らかな笑みが広がる。
「ありがとう、悠斗」
その笑顔が、その言葉が。
何よりも僕の背中を強く押してくれる。
「これからもずっと、一緒にいてほしい。結に、僕の特別な人でいてほしいんだ」
今まで経験してきた緊張なんて目じゃないくらいに、大きく大きく心臓が鳴る。こちらを見ている結の顔を見ていられなくて、僕が思わず下を向いた。顔だけじゃない。体全体が熱い。凍り付いた雪が足の下で溶けてしまいそうだ。
結の冷たい手が、僕の手を握った。
「私も、同じ気持ち」
その言葉に顔を上げる。
目の前には、今まで見たことがないくらいキレイな笑顔の結がいた。
バレンタイン・イヴ 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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