心理学概論 期末試験(持込可)

夜々予肆

臨床心理士、異世界人、母親、人形使い、ヤギ。

 うだるような暑さが続く7月30日の午前11時、仙台市にある仙泉せんせん大学の301講義室では「心理学概論」の期末試験が行われようとしていた。


「それでは、試験開始!」


 担当教員で試験監督の犬木村優香いぬきむらゆうか講師の声が講義室に響く。その瞬間、紙を捲る音やシャーペンで文字を書き込む音が一斉に聞こえ出す。


 早速最前列の学生が手元にある大量の資料や書籍とにらめっこを始めた。犬木村はもっと内容を頭に入れておきなさいよとその学生を見て思ったが、このように持込可にしてしまったのは自分なので何も言えなかった。あまり厳しくして落第者が続出してしまうと学務課から適切な授業を行っているのか何やらと説教を受けて評価にも影響が出てしまうのだ。大学教員は他にもこのように多少思うところがあっても飲み込まなければならないことが多々ある。つくづく難儀な職に就いてしまったなと犬木村は思った。


 ともあれ今は自分がやるべき事をやろう。犬木村はそう思い直し、名簿と座席表を手に講義室を歩き始めた。まずやらなければならないのは学生の照合だ。


「あなたは……?」


 そうして犬木村が学生を一人ずつ確認しながら歩いていると、座席表では空席になっている席に白衣を着た小太りの中年男性が座っていたので声を掛けた。社会人学生なのだろうか。だが授業でも見た事のない男性だった。男性は犬木村を見るとすっと立ち上がり、犬木村に名刺を差し出した。


「初めまして。私、東京の方で臨床心理士をしています、風魚田守かぜうおだまもると申します」

「そうみたいですね……。ですがなぜここに?」

「はい。こちらの光土屋ひかりつちやさんに頼まれまして、試験問題を解くお手伝いをしています」

「光土屋くん、これは不正ですよ」

「はぁ? いやいやだって先生が何でも持ち込んでいいって言ったんですよ? なら人を持ち込んでもいいじゃないですか」

「た、確かにそう言いましたけども、いくら何でも人を持ち込むのはダメだと解るでしょ。もう大学生なんだし」

「もう大学生って……今時そういう括り方よくないですよ。大学生って言っても人によってバックボーンが全然違うんですから。それに風魚田さんだってこのためにわざわざ東京から自費でここまで来てくれたんですよ? それなのに追い返すんですか?」

「あ、いや、その……あの、風魚田さんはどう思いますこれ?」

「私はクライエントである光土屋さんの味方です。光土屋さんはどうにかこの試験を突破したいという悩みを抱えて私の元に来てくださいました。ですから私は全力で光土屋さんのサポートをさせて頂きます」

「そ、そうですか。わかりました」


 やはり現職の心理士には勝てないなと犬木村は思ったので退散した。犬木村は気を取り直して照合を続けた。


「えっと、あなたは?」


 しばらくするとまた空席に座っている人がいたので犬木村は声を掛けた。今度は派手な青い髪でゲームのキャラクターのような装飾が多い服を着ている女性だった。その女性は犬木村を見て優雅に微笑みながら口を開いた。


「わたくし、そちらの無小林むこばやし様にお仕えしております、メルクラウディア=フェルトムーンナイトと申します」

「ミルクキャンディ?」

「メルクラウディアですわ。失礼な方ですわね」

「す、すみません。あの、無小林くん?」

「何だ」

「なぜ彼女を?」


 1億歩ほど譲って臨床心理士を連れてくるのは理解できる。だがなぜこんな心理士でもなさそうな珍妙な女性を連れてきたのか犬木村は理解できなかった。


「メルクはデイ=フィエスでも有数の才女だ。きっとこの試験でも俺の力になってくれると信じた。だからだ」

「デイ=フィエスって……?」

「この世界とは異なる宇宙ユニヴァースにある異世界だ。俺たちは普段その世界を救うため日々激闘を繰り広げている」

「異世界って、まさかそんな……」

「ふっ。これだから無知な人間は困る。実感しないと何も理解できないからな」


 無小林は指を鳴らした。すると犬木村が持っていた名簿と座席表がみるみるうちに燃えて消滅した。


「あっつ! い、今のは危険行為と見なします! 失格ですよ!」

「俺を失格にするのか?」

「本当に無小林様を追放していいんですの? ?」

「言っておくが今のはごく初歩的な炎魔法だ。俺がその気になればお前のも消滅させられるからな。俺を敵に回すのなら覚悟しておけ」

「きょ、脅迫には屈しませんよ!」

「まだ言うか。まあいい、今回はこの程度で許してやるから少し頭を冷やせ」


 無小林は再び指を鳴らした。


「け、ケロケロケロ!」

「ケ!」


 犬木村は絶句した。言葉が発せなくなったのだ。何かを喋ろうとしてもカエルの鳴き声のような声しか出せなかった。


「しばらくカエル語しか話せなくなる魔法だ。これでわかっただろう。俺との

「ご愁傷様ですわ」

「け、ケロケロ!」


 犬木村は撤退した。勝てない。理屈ではない、


 だけどどうしよう。名簿も座席表も消えてしまったので誰が誰だかわからない。なので犬木村は明らかにおかしい人だけ確認することにした。カエル語しか話せなくなったがそれは仕方ない。


「ケロケロ!」

「あらどうもー! いつも凌雅りょうががお世話になってますー!」

「ケロケ! ケロケロ!」

「カエルみたいに喋る先生ね!」

「そうだね母さん(そうだったっけ)」

「ケェー!」


「ケ!」

「あたしに話しかけるな……!」

「ケ、ケロロ……」

「今、この人形に魔力を込めてるんだ……! ……来た!」

「コレハ『内発的動機付ケ』ダネ」

「ケェー!」


「ケロ」

「メ?」

「ケロロ……」

「メェー」


 犬木村は小さな子ヤギを見かけたので声を掛けた。カエル語で会話ができているのかわからないが子ヤギは返事をしてくれた。子ヤギが何を言っているのかは全くわからなかったが。


「俺、実家農家やってるんでこいつ連れてきました。メトロって言います。いざってときはこいつに全部食わせて共倒れにしてやりますよ。落ちるときは全員でですよ」


 子ヤギの飼い主の学生の羊川ひつじかわが犬木村に話した。


「ケロー!」

「え?」

「今すぐやってぇ!」


 犬木村はようやく人間の声が出せるようになり、メトロと羊川に土下座した。犬木村にプライドはもう無かった。


「俺はいいですが……本当にいいんですね?」

「いいからあ!」

「わかりました。よし行けぇメトロ! ここにある紙は全部お前のエサだああ!」


 羊川が勢いよく立ち上がり叫び、メトロがメェーと応え、手当たり次第に紙を貪り始める。


「おっとヤギさん。あなたも私のカウンセリングを?」

「ちょ、ちょっと紙食われてる食われてる!」

「なんてことだ……俺はヤギは……ヤギだけには勝てないんだ……!」

「無小林様! お気を確かに!」

「あらあらヤギちゃん。これも食べる?」

「なんで解答用紙食べさせてんだよ(別にいいけど)」

「ヤギヤギヤギヤギヤギギギギギギ」

「くそ、バグったか……!」


 301講義室はたった1匹の子ヤギにより阿鼻叫喚に包まれた。


 その後全員が追試対象となった。追試は一切の持込が不可になった。


 犬木村優香は准教授への昇任が見送られた。


 メトロは伝説のヤギとして、宮城県内に語り継がれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心理学概論 期末試験(持込可) 夜々予肆 @NMW

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ