小・中学生の俳句

友未 哲俊

下の句、上の句

お断わり:

以下の文章は、「小・中学生の俳句」(あさを社)の著者である日本学生俳句協会の水野あきら氏の許可を得て、友未哲俊によって書かれた過去作品です。出典は同書、及び第十六回全国学生俳句大会入賞作品集に基づき、句末に付した学年は、いずれも各句の発表当時のものとなります。作者名、所属校名は都合により割愛させて頂きました。            


            § 下の句


   十二湖を若葉がそっと守ります   中1 女子


第十四回全国学生俳句大会首席のこの句は、私にはまだ良く解らない。この大会の母体である日本学生俳句協会の水野あきら氏も、その著、「小・中学生の俳句」(あさを社)の中で、この句についてこう述べている。「うっかり見落としそうな句が、こうして大会史に刻まれたことは、氏(友未註:俳人、金子兜太)の慧眼によるもので、少なくとも筆者には、まだこの句を万余の中から首席に推すほどの勇気と眼力はない」。ひとつ確かなことは、この句があまりにも素直で単純なために、それほど純粋でない読者の心が追いつけないということだ。

 同じように、それぞれの年度の首席、次席の句でありながら、一見、それほどの出来栄えとは思えなかった作品を、もう幾例か拾ってみよう ―


   かたつむり目だまをだしてすすんでる   小1 男子

   さかあがりできてひろがる秋の空     小2 女子?

   電気ガマくりのごはんがうなってる    小3 男子

   けし咲いて母のエプロン光らせる     中2 男子


 こうした句が私にとって難しいのは、そこに人をハッと驚かすような意外性や新鮮さが無いように見えるからだ。たとえば、かたつむりが目玉を出して進んでいますよと言われても、それは私がすでに知っている表現であり、そのような当り前の言葉の中から何かを見出す余地は、もはや残されていないようにように思われる。だが、もし、読む者が、たった今この世に誕れて来たばかりのこどものように、言葉に対する慣れや常識や先入観から離れて、観念的に類型化される以前の言葉そのものとまっすぐに向き合うなら、而して、「目だまをだして」「すすんでる」という言葉の真実味に突然思い当ることになるのである。即ち、言葉との裸づきあいができるかどうか、言葉と現実の両方に対する初々しい共感を持ち合わせているかどうかが問われるのである。

 一方、


   夕やけに遊びつかれた三輪車   小5 女子


のような句の場合には、逆に、一目で大人の読み手の心をとらえてしまうだけの大きな魅力を持ちながら、どこか手放しでは信用しきれないということもある。あまりにも「出来すぎて」いて、読み返して行くうちに、何か本当でない、上等のこしらえものという感じがして来るのだ。

 以下にご紹介するのは、前述の「小・中学生の俳句」中、個人的に特に深く心に遺った秀句名作たちである。そして、二、三の例外を除いて、その殆どが、この俳句大会の首席、次席には選ばれなかったという事実によって、十二湖やさかあがりの句が解らないという私の言葉の趣旨を、より正確に汲みとって頂けるのではないかと思う。


   あやめえんひごいゆっくりみてまわる   小2 女子


 本書のなかでも特に好きな一句である。かな文字の一音一音の流れが、詠み込まれた情感の落着いた美しさと溶けあって、低学年の句には珍しく、しっとりと和やいだ趣を見せている。ひごい「が」みてまわるのか、ひごい「を」みてまわるのか …


   でんせんをうつして水田田うえまつ   小2 女子


何気ない「でんせんをうつして」の発見の確かさ。がらんと鄙びた静けさの中に潜む生命感。


   みずすましみずをまわしてあそんでる   小2 男子


見た感じをそのままの言葉で詠みとった面白さが、いかにも二年生らしい。


   山のバス氷柱を下げて帰り来る   中3 男子


透明なリリシズム。「山の」と「帰り」に表現密度の高さを感じる。清楚な質朴さに心洗われる一句。


   汽車のくるたびに手をふり甘藷掘る   中3 男子


のどかで、おおらかで、何とも可笑しく、懐かしい。読む際は、上五、「汽車のくる」で区切りたい。


   蟇どっしり水に入れば目だけ浮く   中1 男子


   出羽山地入道雲が立ち上がる     中1 男子

   大海をもろとも父は昆布引く     中3 女子


   かぶとむしじまんのつのでぼくをおす  小1 男子

   雲を見てかにの目玉ものびている    小2 男子


こうした大スケールの逞しい句もあれば


   いちょう散る明るさに読むグリム集       小4 女子

   こけししゃべりあって合ってご主人のうわさ話  小6 男子


あるいは、


   銀のさじメロンはすぐに食べ終わる   中3 男子

   レモンティ飲んで雪より軽くなる    中3 女子


   白かべの蔵にデザインアブラ蝉   小6 男子


のように感覚に勝れた句も多い。


   まん月やおはかの石もおきている   小3 男子

   墓石にとかげが舌を出している午後  小6 男子


両句とも特異な鮮烈さが際立つ。


   台風の中で老婆が釘を打つ   中2 女子


不気味なファンタジーの図だ。


   ぶらんこに知らない子とのる海の家  小3 女子

   秋の風まだ飛び越さぬバーが高い   中3 女子


孤独な別世界への入口のような前句。その先にはどんなエピソードが待ち受けているのだろう。後句のバーは未知への水平線のようだ。


   赤とんぼ飛びなおしてももとのえだ   小6 女子

   あじさいの円みに合わせ蝶の舞う    中3 女子


この前句は、紛れもなく最近十年間に私が出会った最も驚くべき作品の一つである。この作者は、確かに、ニュートンがりんごの落ちるのを見たときに見たものと同じものを見たのだと思う。その叙述の何というさり気なさ。後の句にも、物体が重力曲線に沿って落下して行くような真理を感じる。


   かぶと虫角振り上げて売られけり   中2 男子

   貨車に牛のせられている夕やけ    小5 男子?


「角振り上げて」の写生が哀れ。後句、字足らずの余韻。


   赤とんぼ赤きそのまま地に死せり   中3 女子


この句の発見は、もちろん中七の「赤きそのまま」にあるが、強烈な下五の迫力もまた印象深い。「地に死」のフォルティシモから一転、とんぼの翅さながらに崩れやすい最後の二音「せり」に至る。


   まひの手にとんぼ二つが来てとまる   小6 女子


― とんぼが「ひとつ」ではなく、「一匹」ではなく、そして「二匹」ではなく、「ふたつ」きてとまったのである ― 「小・中学生の俳句」より水野あきら氏


   父ときた道きて父の墓洗う   中3 男子

   父と来て進路語りつ墓洗う   中3 女子


   父に会う日焼の顔が恥ずかしく   中3 女子

   好きな人母にも秘密水中花     中2 女子


   いとこきてうちわの風に笑い声   中1 女子


   乙女像胸に夏日をもり上げる   中3 男子

   秋風にふかれてわれも女なり   小6 女子


最後の句、作者には失礼だが何度読んでも吹き出してしまう。深読みすれば初潮の句ともとれそうだが。


   さんまやくにおいにつられさんま買う   小5 男子


俳句には、俳味、軽みなどと呼ばれる独特の美学がある。この句も、日常の取るに足りない一場面をそのまま拾い上げてきたスケッチでありながら、思わず口ずさまずにはいられなくなるような不思議な可笑しみがある。こういう、深刻さとは無縁の工まざる飄逸さや凡俗の風情には、いわゆる「詩情」という言葉ではうまく量りきれないところがあり、その意味で、この句のいかにも俳句らしいニュアンスに富んだ詠み口など、とても五年生のものとは思えない。


   お母さん登山に行っても化粧する   小4 女子


この快作は、さんまの句とは違って、明らかに川柳のようだ。


   初雀祝いのことばにも逃げる   中1 男子


これもクスリと可笑しいが、意表をつかれた拍子に、ふと何かを考えさせられてしまう。


   おとうさん青いいねかりどうするの   小2 男子

   わたり鳥いまもどこかで戦争が     小6 男子


単純な問いかけだけに前句はショッキング。漢字の「青」一字がくっきり映え残る。人間を時の高みからまさに鳥瞰するような後句の悲しい広がりは、この世への問いと祈りを交錯させて、奇妙に懐かしい。


   かみさまのひこうきになるあかとんぼ   小1 男子?

   タンポポの種はどこかへ行くとちゅう   小5 男子


   まん月に弟生まれたうれしいな   小5 女子

   ひよこ見て遠足の列ばらばらに   小5 女子


狸のような前句の愛らしさ。後句、詠まれた光景と、それを詠む作者の、二重の愛らしさ … フィナーレは、この二句で締めくくらせて頂きたい。


 「大人の書いた児童文学としての俳句」を指す呼び方の一つに「童句」という言葉がある。先日、テレビで、ある童句グループの活動の一端が紹介されているのをたまたま見かけた。もとより、わずか数分の断片的な内容から全てを窺い知ることなどとうていできないが、少なくとも、そこで紹介されていた二、三の俳句は、私の気に入らなかった。 ― 童心や郷愁へのセンチメンタルな憧れの中へ自ら退行した、自己憐憫の産物という感じがしたからである。そう言えば、私自身、「児童俳句」を書こうとすると、決ってそういう、おとなこども的な、いじけた方向へ妙にのめり込んで行ってしまうことが多い。

 もし、我々大人の書いた児童俳句がより「児童」的であり、子供達自身の作品がより「文学」的であるとすれば、これは少しばかり由々しき現象かもしれない。


            § 上の句


   ゆきだるま名まえをつけておともだち   小1 女子

   どんぐりがベレーボーこてきたい     小2 男子

   こいはねる昼ねのねこのひげ動く     小5 男子


 児童俳句というジャンルがあるのだろうか?大人の書いた児童文学としての俳句については不明だが、子供たち自身の俳句は以前から立派に存在している。日本学生俳句協会の水野あきら氏のご厚意によりお送り頂いた第十六回全国学生俳句大会入賞作品集から、小学生の句のごく一部をここに紹介してみよう。


   かたつむりあるいたところがつめたいよ  小1 女子

   えんそくのれつにかみなりついてくる   小1 女子

   赤とんぼおまえも本をよみたいの     小2 男子

   ゆきだるま夜はだれかと話してる     小2 男子

   すいか食べごろりと父が横になる     小3 女子

   学芸会たしかに母のはく手聞く      小4 男子

   ボール投げる川の向こうのコイのぼり   小4 男子

   シャボン玉われるとほうたいほどけそう  小4 男子

   花火にも血液型があるような       小4 女子

   カレンダーのこり二枚は冬ばかり     小5 女子

   わらぼっち十つみ上げて月のぼる     小5 男子

   テーブルにみかん4つと百円玉      小5 男子

この句は新しい。具象的、生活的でありながら、その客観性が景色を自ずと抽象化している。写生画にアラビア数字の「4」が鋭い。

   しゃぼん玉割れてわたしが消えちゃった  小5 女子

   ささぶねがささのはっぱになっちゃった  幼稚園 男子

   はだ寒さ秋は真っすぐ逃げて行く     小6 男子

   お別れに桃色の雪舞い落ちる       小6 女子?

   道ばたに鈴すてられてねぶたゆく     小6 男子


 青少年俳句の現状について、水野あきら氏より次のような御返事を頂くことができた。

― 大人の書いた児童文学としての俳句という点については、二、三その試みを聞かないではありませんが、垣間見たところでは、いずれも、回想、回帰にとどまるもので、むしろ童心にかえるという名の老廃物という感じが濃厚であり、とても正視にたえません。ご当人が大上段にふりかぶって物申す姿勢から出ているため、なおのこと陳腐です。俳人の青少年俳句に関する認識は極めて希薄で、ようやくここ一、二年、マスコミがとり上げはじめた事で、斜視的な感想を述べる人が現れてきたというのが現状です。まだまだこれからの分野であり、現段階でこれが○○だ、を語るには早計の感の強いことを小生なりに評釈しているつもりですが、小会の試行錯誤的歩みに便乗した評論家気どりの人が出はじめてきていることも事実です ― と、なかなか手厳しい。愛するが故の厳しさか …


   ツクシさん花びんわったのわたしなの   小3 女子

   ゆうやけがきれいぼくだけ暮れのこる   小6 男子


                                   (終)


   




   

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小・中学生の俳句 友未 哲俊 @betunosi

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