忘れ草の楽園
玻津弥
忘れ草の楽園
忘れない。
忘れられるわけがない。
あの日、君がくれた植木鉢はまだ鮮明に覚えている。
花の色も、赤く目に焼き付いている。
いつだって僕は君の先輩で、これからもきっとそうなんだろう。
そう思っていたんだ。
きれいな空気をつくりだす植物は、土地にバランスよく配置されて、僕たちの生きる世界を守っている。
その大切な植物たちを守り、育てる植物管理という仕事があった。
僕は小さいころから植物が大好きで、物心がついたときにはその仕事に憧れていた。
十歳になると、両親を粘り強く説得した甲斐あって、植物専門学校に入学することができた。
学校の中はまるで植物園のようで、見たこともない植物の世界に僕は大口をあけて見入り、初めの日を過ごした。
天井には長くも強く丈夫そうな枝がほびこっていて、屋内の食堂には大きなブナの木が毎日お腹をすかせてくる生徒たちを迎えてくれた。
僕はこのブナの木を見上げながら食事をするのが大好きだった。
家の周りの植物たちは、無口だったのに、学校の植物たちはとてもおしゃべりでいつも僕にいろんなことを話しかけてくれた。
『短いおかっぱの一年生を見た? とってもかわいいのよ。私に鼻をぶつけてごめんなさいって謝ったの。鼻が赤くなってたわ』
『その子をいつも追いかけまわってる男の子がいるんだよね。ちょっと乱暴そうだけど、とてもやさしい子だよ。だって、ぼくの枝が折れた時、ぼくに薬のついたテープをまいてくれたんだ』
当番制で、水やりをしているときは、自然と植物との会話の時間になった。
僕が話にあいづちを打ちながら、ジョウロの水をかけてやると、花たちはクスクスと笑って喜んだ。
ある日も、花に水やりをしていると、一人の女の子が僕に話しかけてきた。
僕と同学年の子で名前は、シャアラだった。顔立ちが整っていて、人形のような美しさのある女の子だった。男子からも人気があるのを知っていた。
「ねぇ、あなただよね。植物の気持ちがわかる人って」
気さくな話し方だった。
「温室にずっと花を咲かせないバラがあるんだけど、あなたの力でなんとかできないかしら」
僕は人と話し慣れていなかったので、その時はうまく呼吸ができなかったのだろう。
「うん、できるよ」
それだけを答えるのに精いっぱいだった。
僕がバラに話しかけてから、二日後に花は咲き、ほんのひと時、僕は学校中の有名人になった。
友だちがたくさんできた。もちろん、植物じゃない。人間のだ。
それをきっかけに、シャアラとも仲良くなった。
告白をしたのは何かの拍子だった。
クラスメイトのだれかが、シャアラは僕のことを好きだとほのめかしたからかもしれない。きっとそうだ。
そうでなければ、あの時の僕が、気持ちを伝えるなんてことはできなかっただろう。
シャアラの答えは、やさしく僕を突き放すようなものだった。だけど、ひどいものでもなかった。これでよかったんだと思えたのは、それからずっと後だったけれど。
何が起こったのか分からないまま、僕はふらふらと温室を出ようとした。
いきなり、モンステラの大きな葉がゆれて、小さな女の子が飛び出してきた。
その子は一度、僕を見た。肩までもないその子の髪がさっと毛先をそろえて並んでいた。リンゴのように赤いその小さな頬は濡れていた。
「あら、リリ」
シャアラが驚いたように、女の子をそう呼んだ。
その途端、リリの顔がくしゃくしゃになったかと思うと、大声でリリは泣きだして、、僕を追い越すとドアから出て行った。
その後に、続くように茂みから飛び出してきた子がいた。男の子だった。その子は僕の目の前に立ち止まると、敵意があるかのようにじっと下から睨みつけてきた。
「ばーか」
そう言って男の子は、温室を出て行った。
僕は何が起きたのかを分からずにそこに立ちつくしていた。
ミルトニアの紫の花が笑ったような気がした。
しばらくして、その女の子と男の子が誰なのかが分かった。
なぜなら、同じ植物担当の班になったから。
「この子はリリ。わたしの妹よ」
シャアラが改めて紹介してくれた。
「よろしくね」
僕が笑顔でそう言うと、リリは後ろで用心するように僕を見ていた。
「班のリーダーだけど、私たちが一番このなかで年長ね。あなたがやらない?」
シャアラはそう提案した。
そのとき、僕は四年生になっていた。
四年生にもなると、班のリーダーを任されることも出てくる。そして、僕はリーダーを引き受けることになった。
リリにはいつも後ろをついてくる男の子がいた。
「セスっていうの」
そう教えてくれたのは、同じ班になってから数日後のことだ。
いっしょに水やりの仕方や植物の健康の調整をしているうちに、リリは少しずつ話しかけてくれるようになった。それでも、時々、急に泣き出してどこかに行ってしまうことも多かった。
セスという男の子は、リリの幼馴染だった。
目が鋭くて、僕はいつも背中に視線を浴びていた。
物言いも少々きつい子ではあったが、植物を相手にするときだけはやさしい顔を見せた。
植物たちが話しているように、本当は良い子なんだろう。
なるべくそう思って、叱りすぎないようにしたが、時どき予想もしなかったことをやることがあって僕とシャアラは目を合わせて、よく肩を落としていた。
セスが植木鉢を割ったことがあった。
先生に怒られて、逃げ回っているときに僕が植えた花の芽もいくつか踏みつけていて、さすがにこれには僕は腹が立った。講義の提出用だったのに、植木鉢の花はぽっきりと折れてしまっていた。
「ここでは走らないようにって何度も言ったよね?」
僕がしかると、セスはすぐに反抗する態度に出る。
このときのセスも話を聞きたくないと、耳に栓をして土を掘りながらそっぽを向いていた。
「このままだと、セスはここに入れなくなるよ。シャアラも同じ意見だ」
そう言うと、さっとセスは僕をふりむいた。
「なんだよ、お前、いつまでもシャアラ、シャアラってさ。フラれてたくせに!」
「……聞いてたのか」
僕はいつも通りの顔をしていたつもりだが、内心ではひどく動揺していた。
下級生にあの告白を見られていたのだ。
「そうだよ! お前がリリを泣かせたから!」
「そういえば、リリはどうして泣いていたんだろう。知ってる?」
「そんなこと俺が知るかよ!」
セスが怒鳴った。
僕が途方にくれていると、ローダンセの花が僕に話しかけてきた。
『セスはリリのことが好きなのよ』
「そうなんだ」と、僕は答える。
「なに、花としゃべってんだよ! きもちわるいよ!」
セスがわめいた。
『いいなぁ。俺も話してみたいな』
花が言った。ローダンセはセスの気持ちを読み取っているようだ。
僕は思わず顔の全体でほほ笑んでしまった。
「ばーかっ!」
セスが耳まで真っ赤になっていた。
花は育ててくれた人のことをよく知っていることが多かった。
そして樹木よりもずっとおしゃべりだった。
特にローダンセはセスのことならなんでも教えてくれたから、セスに特に腹を立てることも次第に減っていった。
セスはリリと植物以外には素直に感情をあらわせない少年で、よく僕とシャアラの手を焼かせた。
二年生にもなると、セスは自分よりも下の学年ができて、以前より大人しくなってきた。
温室では走りまわらなくなったし、後輩にもやさしかった。
だけど、僕に対する敵対心は変わらなかった。
セスは何かにつけて、僕に張り合おうとした。
たとえば、昼食後にテラスでくつろいでいるときのことだった。
そこは晴れた日になると、木陰の涼しい風がふいて、日光がよく当たる気持ちのいいお気に入りの場所だった。
僕たちはよくそこで、集まって班の相談をしたり課題をしたりした。
「俺さー、クラスで一番さいしょに元気のなかったシクラメンを復活させたんだぜ。日差しを強すぎないようにして、水の量を多めにやるようにしただけでよかったんだ。すごいだろっ」
セスは自信満々に反り返って言った。
それを聞いて、ジュースを飲んでいたリリは首をふった。
「でもね、せんぱいは、花を咲かせるのがむずかしいプリンセス・オブ・ウェールズを咲かせたんだよ。お姉ちゃんが言ってたけど、学校の伝説になってるって」
「伝説ってほどじゃないけど……」
あまりにリリが目をきらきらと輝かせてセスに言うので、僕は苦笑した。
するとセスはこちらをにらみつけた。
だが、すぐに、その鋭く細くなっていた目が突然丸くなった。
「もしかして、そのプリンなんとかってあれ?」
セスは僕の後ろのほうに見える、庭を見つめている。
「そうだよ」と、僕は答えた。
「わあーすごくきれい!」
リリが歓声を上げた。
庭には、通る人の目を惹きつけて離さないようなあわい桃色のバラが咲いていた。
繊細な一枚、一枚のやわらかい花びらが一つの芸術品のように集まっている。
「ずっと病気だったみたいなんだけど、話しをしたら気が晴れたみたいに咲いたんだ」
「せんぱいすごいな~、リリもきれいなお花たくさん咲かせたいな」
セスの表情が、僕が授業で品種改良しているラーレの花のように真っ赤になった。
そのころから僕は、よくリリとセスと三人でいることが多くなった。
同級生から、下級生とばかりいると馬鹿にされたこともあったけれど、僕は三人でいることが楽しくてあまり気にしなかった。
六年生になった僕は、学校でも優秀だと、表彰されることもあって、教師たちからはとても期待されていたんだと思う。
「将来有望だわ」
先生たちはよく僕を誉めた。
植物と会話できる能力のおかげか、僕が担当した植物たちは成長が速く、きれいな花を咲かせた。
僕の日々の成果が認められて、学校で一番大事な花を任された。
それが、国にしてもこの学校にしかないという、巨大な花アリストロキア・ギガンテアの世話だった。
僕は、責任を持ってその仕事に励んだ。
学校にはめずらしい、シダレトウカという木があった。
シダレトウカの桃色の花は、自然に落ち、その無数の花は養分になる。
落ちた花は、係の子どもたちがバケツに注いで、バルコニー下の土の上にまく。
僕が一年生のときもその役割をしたのだが、とにかく楽しい作業だった。
花びらがあたたかくほほ笑むように舞う様子はいつ見てもきれいだ。
僕は昼休みに、庭に舞い落ちてくる花びらをながめるのが好きだった。
庭を歩いていると、シダレトウカの花びらがちらほらと舞い落ちてくることがよくあった。
ある日、僕とセスに何十回目かの口論をしていた。
リリがハラハラと見守っているのが実は心の底では面白かった。
「なんだと!」
ちょうどセスが怒鳴った時だった。
どさーとセスの頭に大量の花が落ちてきた。セスの足元が桃色一色になっている。
まずはじめに笑いだしたのはリリだった。
つぎに僕が噴き出した。
セスは怒って、逃げる一年生を追いかけて行った。
「ねぇねぇ」
リリが僕のブレザーを引っぱった。
「どうかした?」
「あのね、教えたいことがあるの」
リリは小さな声でそう言った。
僕たちは食堂のブナの木の裏にまわった。そこには大きな穴があった。
その穴をくぐると、広い場所に出た。
「ここね、わたしのひみつの場所なの」
リリがにっこりして言った。
一面に同じ植物が生えている。
「忘れ草だね」
「そう。人が全然来なくてね、私はよくここに来るの。悲しい時はね、ここに寝転ぶの。そうしてるとね、嫌なこともぜんぶ忘れるの」
リリはごろんと草の上に横になった。
僕もリリの真似をして、草の上に寝転んだ。
「気持ちがいいな……」
目を閉じると、全てを吸い込むようなざわめく草の声がした。
まるで、海のなかにいるようだった。
リリと二人っきりで。
あの時のことはこれからもずっと忘れないと思う。
なぜなら、それが、あの事件が起きる前の日だったからだ。
それから数日はいつものように過ぎた。
そして、その事件は起きた。
僕は夜中に、冷たい廊下を走っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
泣きじゃくるリリを引っぱって、僕はアリストロキア・ギガンテアの巨大な花のある温室へ急いだ。
「私が水を止めちゃったの。ごめんなさい……」
僕はそこでリリをなだめるのに必死だった。
月夜のなかで照らし出された巨大な植物の陰に僕らは沈んでいた。
巨大な花は僕たちの上に重く垂れさがり、無情にも一晩で枯れていた。
失望した。
そう言われたのは覚えている。
教師たちの手でなんとか、根元だけ再生したが、あとはどうにもならなかった。
僕は学校を退学になった。
その辺の記憶は吹っ飛んでいる。思い出したくないのかもしれない。
セスは僕を見てもなにも言わなかった。
ただ背を向けて走り去った。
だけど、リリは何かを言いたそうに僕の後ろにいた。
リリがくれたのは忘れ草の花が咲いた植木鉢だった。
それはリリが大事に育てていた花だった。忘れ草の花は咲かせるのが難しく、とても貴重だということも僕は知っていた。
しかし、リリは無言でそれを差し出した。リリは泣いていた。
「ありがとう」
僕は、その次の日、学校を出て行った。
飛行機の中で、窓の外を眺めると、僕のいた国は、遥か下方にあった。
そこでは、今も、植物たちが緑豊かに呼吸をしている。そうして、僕たちを包んでいる。
枯れてしまったアリストロキア・ギガンテアのことを思い出す。
もっとリリを見ていてあげたらこんなことにはならなかった。
僕とシャアラはいつもセスばかりに注意していたから……。
そんなことを考えていたときだ。
『ずっといっしょだよ』
誰かがそう言った。
一瞬、まだリリが隣りにいるのかと錯覚した。
横を見ると、リリの置いていった花が置いてあった。
花がしゃべっているのだ。
なぜかリリの育てた植物は、リリ自身であるかのように話すことが多かった。
そのとき、僕は思った。
リリはいつも植物に話しかけているのだと。
植物はその話を覚えているのだ。
花はリリのことをなんでも話してくれた。
セスにリボンをはさみで切られて大泣きしたことがあるだとか、とてもリリが話しそうにないことまでも教えてくれた。
隣りの国に着いてからも、まるですぐ近くにリリがいるような毎日だった。
新しく転入した学校では、植物管理職はあきらめていた。
ただ、植物の多い学校を選んだ。
ちょうど上級生だったので、友だちはそんなに作らずに勉学に励んだ。
植物たちはべつの国からきた僕を歓迎してくれた。
そこでは、人間よりもずっと植物のほうがやさしかった。
退学になったことが悪い波風を立てて、冷たい目で見る人も多かった。
家に帰ると、リリの花になぐさめられた。
僕は植物学校の教師を目指した。
学校を退学になって以来、ずっと先生のことは嫌いだったが、植物が大好きな近所に住む男の子とよく話すようになってから、植物のことを本格的に教えたいと思った。
そして、僕は教員試験に合格した。
僕は、国に帰ることになった。
空港では、リリとセス、シャアラが迎えに来てくれた。
「まぁ、背が伸びたわね! わたしと何センチ違うのかしら。十センチ物差しじゃ足りないんじゃない?」
シャアラは化粧をしていて、大人っぽくなっていた。
「お帰りなさいっ!」
リリは満開の花のような笑顔で僕に駆け寄ってきた。
どうしてだろうとふしぎだった。
以前よりリリは明るくなったように見える。
呆けている僕にセスが近寄ってくると、黙って荷物をとりあげた。
「ありがとう、セス」
「なんだ。俺の方がでかいじゃん」
セスは、生意気にも僕を見下ろすと鼻で笑った。
「お前は変わらないな」
僕はわざとため息交じりにそう言った。
「変わったよ、ばーか」
「ほら、やっぱり変わってない」
リリとシャアラがくすくすと笑っている。
学校にいた頃と同じだ。
帰ってきた。
僕は心のどこかで安心していた。
けれど、時は移り、少しずつ僕たちの関係は変化していた。
帰国してから四日後、僕はシャアラとリリと喫茶店で昼食を取った。
僕らは積りにつもったこれまでのことを話した。
「セスは木のお医者さんになったのよ。まさかあのセスがとは思ったけど」
シャアラがそう教えてくれた。
「へぇ、すごいな。あのセスが」
「そうでしょう。学校ではクスノキにいたずら書きしてたのにね」
「セスは成長したのよ。私も、ね」
にこにことテーブルの向こうに座っているリリが笑いかけた。
「リリは明るくなったね」
僕がそう言うと、シャアラがにやりと含み笑いをしてリリを見た。
「リリは植物管理職を目指しているのよ。今は私の下で助手をしてるわ。それで、あなたは? 一昨日が着任式だって聞いたけど?」
「ああ。植物の生態について教えてる。人に植物のことを教えるのは楽しいよ。そういえば、クラスにとてもセスに似た男の子がいてね。その子が、女の子をいつもいじめてるんだ。止めるよりも先に懐かしくって笑ったよ。セスとリリみたいだったから」
シャアラが笑った。
次の日、学校からの帰りに、偶然に校舎の前でセスを見かけた。
空港で会ったきり、それぞれの仕事で忙しく、会っていなかった。
僕は声をかけようとして、上げかけた手を止めた。
セスはバラの花束を持っていた。そして、その先にいたのはリリだった。
僕は行き場をなくしたように立っていて、セスの持っていた花束がリリの手に渡るのを見ていた。
遠目にもその花の種類が分かった。
リリが一番好きなバラ。プリンセス・オブ・ウェールズだ。
僕が咲かせてリリが感動してくれたバラだった。
大好きな花を抱えて、幸せそうにリリは笑っていた。
僕は二人には会わずに家に帰った。
リリとセスは付き合っているんだ。
一人きりで自分の思考にひたっていると、誰もいないはずの部屋からリリの声が聞こえて、僕は一瞬肩をふるわせた。
植木鉢の忘れ草の花がしゃべっている。
『あなたが好き』
リリの声で花はしゃべっていた。
まるで僕に向かってリリが花を通して、話しかけているかのように。
『あなたが好き』
嘘だ。
『ずっと好きだったの』
嘘を言っている。
黙れ。
『ずっと……』
気がつくと手には、剪定ばさみが握られていた。
床には、花の頭が転がっている。
まだ、色はこんなにも赤い。
それなのに、花はもう一言も話さない。
静かになった。
そして、それだけだった。
その日から、忘れ草だけではなく、他の植物も心を閉ざしたように僕には一言も話しかけてくることはなくなった。
午前の授業は予定よりも早く終わった。
昼食を取りにブナの木のある食堂に向かった僕は、ブナの木の裏に穴があることを思い出した。リリが教えてくれた忘れ草の楽園の入り口だ。
そういえば、忘れ草の楽園はどうなったのだろう。
僕は気になって、木の穴をくぐって通り抜けた。
白衣の背中が見えて、僕は彼女の名前を呼んだ。
「リリ」
「忘れ草のこと覚えてくれたんだね」
僕はうなずいた。
「私ね、忘れられなかったの。この楽園が。だけど、大分、忘れ草も減ってほとんどかれちゃって。今、元に戻そうとしてるんだけどなかなかね」
リリが風に揺れる髪をつかんで話した。
「ほら、あなたは、植物とお話ができるでしょう。だから、ここのこと助けてもらえると、とても助かるわ」
植物と話ができる。
僕の心にその言葉はバラのとげのように突き刺さった。
傷つけるバラには相手を傷つけようだなんてまったく思っていないのに、やさしく触れようとした手にとげを刺す。それに似ていた。
「また一緒にこういうことができると……」
「ごめん」
もうできないんだ、と言おうとしてものどにつっかえて出てこなかった。
「また、セスと三人で、昔みたいに仲良くできないのかな」
リリは僕にそう言って笑ったが、僕の口は演技でも笑ったりしなかった。
そんなこと無理だと思った。できるはずがなかった。
リリは何かに気づいたかのように僕の顔を見つめた。
「ほら、実はさっき食堂でセスを見かけたんだ。行ったらどうだい」
その時、僕は素直じゃない自分に気づいた。
心では反対のことを言っている。
僕も小さいころのセスと同じだ。素直になれない。
「セスは変わった。僕も、そして君は泣き虫じゃなくなったそうだろう。みんな変わっていくんだ」
「ええ、そうね。私はもう、忘れ草に頼るのは止めたわ。ずっと忘れ草に頼って嫌なことを全部忘れようとしていたけど、もうやめようって。大事な気持ちは、忘れちゃいけない気がしたから……」
僕は何も言わず、花のようにおしゃべりになれたらいいと思いながら、ただ指先を手の内にしまいこんだ。
「あなたがいなくなってから、忘れ草がきかないの。忘れようとしても忘れられない……」
僕もだ、と言いたかった。
だけど僕は、それを言うことができないで手を握りしめていた。
そのとき。視界が明るくなったと感じた。
桃色の花びらが舞っている。
手のひらに降りてくるそれは、シダレトウカの花びらだった。
「わぁ、懐かしい」
リリが子どものような歓声を上げた。
『アイシテル、アイシテル』
あたたかくほほ笑むように花びらがささやきかける。
忘れることができない想いを。
「好きだよ」
花が手のひらからこぼれ落ちるように言葉が出た。
桃色の先でリリが僕にほほ笑んでうなずいた。
この想いは忘れなくていいのだと、初めて分かった。
そして卑怯なことにも、花を撒いているのは子どもではなくセスだった。
子どもの花のたくさん入ったバケツを奪い取って撒いているのだ。
セスはこれからも、ずっと何にも言わないつもりだろう。
僕には素直じゃないから。
すべての色を、想いを、愛すべきものを抱きしめたいけれど、僕の腕は二本しかなくてとても足りなかった。
できないその代わりにずっと、忘れないことにしたい。
子どもたちの笑い声と、シダレトウカのささやきがいつまでも残った。
(完)
忘れ草の楽園 玻津弥 @hakaisitamaeyo
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