苗床


 老狼とヴィヴィが話している。

 そのふたりの会話は、ニニには半分どころか欠片もわからなかった。

 わからないけれども、口を挟んではいけない雰囲気を感じ取り、ニニは口をつぐんで様子を窺っていた。

 そんな時――。


「――このまま、紅魔水晶ごと片します」


 そう言ったヴィヴィが、突としてニニとエルザを振り向いた。

 ニニの肩がびくりと跳ね上がり、エルザが安心させるようにその肩を抱く。

 エルザがヴィヴィへ、ゆっくりと視線を向けた。

 その眼差しに先程までの鋭さはない。


「……おばば様との会話を聞いていたが、あなたは精霊王様なの、ですか……?」


 なのか、と問いそうになり、ですか、と言い直す。

 エルザの瞳から警戒の色は薄れていたが、代わりに緊張の色が滲む。

 じっとみつめるその瞳に、ヴィヴィが諦めたように息をもらした。


「あなたの言う通り、私は精霊王。精霊を統べる者です」


 瑠璃の瞳が凛と揺れ、エルザが息を呑む。そして、彼女は瞬時に思い出す。

 先程、己はどういった言動で目の前の者に接したか。

 さあと血の気が引く音を聞いた気がした。

 流れるような動作でエルザはヴィヴィの前に跪き、騎士として最高礼のかたちで頭を垂れた。


「……なんのつもりです……?」


 ヴィヴィの冷やかな声がエルザの頭に落ちる。

 エルザはそれを精霊王の静かなる怒気と受け取り、冷や汗が止まらない。

 だが、彼女は顔を伏せているために気付かなかった。

 ヴィヴィの頬が小さく引きつっているのを。


「先程までのご無礼をお許しください、精霊王様」


 エルザの後ろでは、ニニが不安げな眼差しを老狼に向けていた。

 老狼がやれやれといった体に首を振る。


「咎はこのエルザにあります。どうか、この首ひとつでお怒りを鎮めてはいただけませんでしょうか」


「は……?」


 低くなるヴィヴィの声に、エルザの声に必死さがはらむ。


「我が主の意思でなく、私の独断での振る舞いなのです。ですから、責を追うべきはこのエルザなのです」


 より深く頭を垂れるエルザを、困惑が十二分に満ちた目でヴィヴィは見下ろす。

 これはどうすれば。別段、その点について彼女を咎めるつもりも、そもそもが怒ってさえもいない。

 それに――。


「――顔をお上げなさい」


 ヴィヴィの声に促されてエルザが恐る恐る顔を上げると、彼女は遠くへ視線を投じていた。

 エルザも釣られるようにそちらへ視線を向けた――刹那。


「のんびりし過ぎましたか――」


 まるでその声が合図だったかのように魔水晶が膨れ上がった。




   *   *   *




 エルザは何かに押し出される感覚を覚えた。

 それからは反射だった。

 咄嗟にニニを抱き込み、押し出される感覚のままに下を転がった。

 二転三転と転がり続け、己が何転したのかわからなくなった頃に動きは止まった。

 微かに感ずる揺れは、魔水晶が膨れ上がった影響か。


「――っ」


 呻き声をもらしながらエルザは身を起こす。

 身体を打ち付けたらしく、あちこちがじんわりと痛む。

 頭を軽く振れば、ぱらぱらと髪から砂が落ちた。


「ニニ様、大丈夫でしたかっ」


 すぐにニニの身を起こす。

 言葉を発すと口の中が砂っぽかった。

 ニニは何が起こったのか把握しきれてはいないようで、しばらく放心したのち、やがて瞳がエルザをみつける。

 途端。その瞳は潤みはじめ、泣き出すのにそう時間はかからなかった。


「えるざぁ……」


「大丈夫ですよ、ニニ様。このエルザがいつでもついていますから」


 すがるニニを、エルザは目一杯に抱きしめた。

 よしよしと頭を撫でる。

 だが、彼女の瞳は鋭く見やっていた。

 転がってきた方向。その先には、弛る半球状の膜のような何か。

 それがエルザらの寸前にまで張られていた。

 魔水晶までをも呑み込んだそれは、水の膜のようにも思えた。

 これが張られたから、エルザ達は外へと押し出されたのだろう。

 それに――。


「私は、おばば様にニニ様を託されたんだ」


 ぎゅっと、ニニを抱く腕に力を込める。

 押し出される寸前、確かに老狼と目が合った。

 その蒼の瞳がしかと頷いたのを、確かに見たのだ。

 エルザは水の膜に覆われた魔水晶を振り仰ぐ。

 老狼や幼子の精霊王の姿は視認できなく、彼女らは何をしようとしているのか。

 あの水の膜から弾き出されたのは、自分達を巻き込まないためなのか。

 わからないことはたくさんある。

 だが、エルザにもわかることが一つあった。

 それは、ニニを護らなければいけないということ。

 魔水晶は相変わらず微弱な揺れを繰り返す。


「まずは外へ……」


 そう呟き、エルザがニニを抱き上げた。

 だが、ニニが拒の意志を示す。


「まってっ! えるざっ!」


 エルザの腕から降りようと手足をばたつかせるニニに、エルザがたたらを踏む。


「お、お静かに願いますニニ様!」


 幼い主を落とさまいと、エルザは堪らず膝を折って屈み込んだ。

 その拍子にニニはエルザの腕から抜けて駆けていく。

 慌てたエルザが腕を伸ばすも、寸前のところで空気を切る。


「ニニ様っ! お止まりくださいっ!」


 静止を求める鋭い声が、ニニの後ろから追いかけて来る。

 だが、ニニは足を止めない。

 彼女の駆ける先は、目指す場は魔水晶。そして、その下に居るであろう――。


「おばばさまっ――!」


 しかし、その行先も水の膜に憚れた。

 構わず突っ切ろうとして弾かれる。

 半球状の水の膜は大きくたわみ、ニニを弾き飛ばした。

 勢いよく後方に飛ばされたニニは、受け身が取れるわけもなく、地を転がり滑る。


「ニニ様ーっ!!」


 悲鳴にも似たエルザの叫び。

 どすっと強い衝撃を受け、ニニはようやく止まることが出来た。

 ずきずきなのか、ひりひりなのか、最早痛みを知覚するだけで、何がどう痛いのかわからない。

 だから、ニニの瞳から大粒の涙が溢れるのは、痛みのせいなのか、それとも。


「ニニ様!」


 エルザの腕に抱き起こされ、彼女が受け止めてくれたことをニニは知った。

 エルザも共に巻き込まれる形で多少地を滑ったらしく、彼女の騎士服がすり破れていた。


「……ニニ様、無茶はおやめください」


 きつく言い聞かせる口調に、ニニは瞳を潤ませる。


「でも、いまいかなくちゃ! にに、ゆめでたのまれたのっ! おばばさまをじゆーにしてあげてって! なのに、おばばさまこのままじゃ……」


 ニニの声が震える。

 先程の老狼に触れた感触を思い出す。

 触れた箇所から、まるで解けていくようなあの感触。

 老狼から光が立ち昇る、あの様。

 瞳から役にも立たない涙が勝手に溢れ出す。

 老狼を――ソフィアを解いてあげてと、自由にしてあげてと、あの夢現の場で頼まれたていたのに。

 ここままじゃ、その言葉を伝えることすら叶わない。


「おばばさまぁ……」


 ニニの泣く声が響く。

 エルザはどう反応すればよいのかわからず、迷った果てに、そっと彼女を抱き寄せた。




   *   *   *




 何かをすり抜けた感覚がした。

 本能が促すままにニニから離れ、気が付けば大樹の種を抱えていた。


『あれ……?』


 種を抱えたまま、ミントは呆然と天を仰ぐ。

 ぽっかりと空いた屋根部分から覗く夜の空が、それに遮られていた。

 光の雨が降り落ちる中で月光を静かに弾くそれは、樹冠を広げる大木のように膨れ上がった魔水晶で。

 透き通る水晶が月の光を透かしてきらめかせる。

 だが、紅の色を残す深部には、鈍くきらめく別の煌めきが垣間見えた。

 それが何かをミントが察し切る前に――。


『――私以外の者は弾き出したつもりだったのですが、ミントさんにまですり抜けられてしまったのですね』


 頭上からヴィヴィの声が落ちる。


『老狼殿にも、ミントさんにもすり抜けられてしまうということは、私の行使する力はそれほどに荒いのでしょうか』


 確かに私は繊細さに欠けて、綿密な魔力の練り上げは不得手ですけど。と。

 やや気落ちしたその声にミントは振り仰ぐ。

 ヴィヴィがはあと嘆息を吐くと、左右で結われた髪束が揺れた。

 降り落ちる光の雨がぽつんとミントを打ち、ふるふると彼女が頭を振れば、光の雨は燐光となって散っていく。


『ミント、精霊王様の言ってること、よくわからないの』


 小首を傾げたミントだけれども、ふと、自分が抱える種に視線を落とした。


『……もしかして、大樹さんの種さんが……?』


 呼ばれた気がしたのだ。

 だからニニの傍を離れた。そして、気付けば種を抱えていた。


『――なるほどさね。大樹の種が、己を運ばせたんだろうねぇ』


 突とした朗らかな声に、ミントの両の耳がぴんと立ち上がる。

 ヴィヴィは振り向き、慌てた様子で足早に近寄った。


『老狼殿、まだしばらくは休まれていた方が――』


『あたしを年寄り扱いしないでおくれ』


 手を貸そうと伸ばしたヴィヴィの手を、老狼はやんわりと首を振って断り、横たえていた自身の身を起こそうとした。

 だが、四肢に力が入らず、すぐに崩折れる。

 その際に身体から光が零れたが、この場の誰もが、気付かないように視界にはいれなかった。


『って、言ったそばからこの様さね』


 苦笑を浮かべ、老狼は首を巡らす。

 蒼の瞳が穏やかな光を宿し、柔らかに細められる。


『リスのお嬢ちゃんは、担い手かい?』


『ううん、違うの』


 ミントはふるふるとかぶりを振った。


『ミントは運び手なの。だからミントは――』


 ふとミントの声が途切れる。

 ぱちりと彼女は瞳を瞬かせ、老狼から逸らされた視線は、彼女自身が抱える種へと落ちた。


『種さん、あっちに行きたいの?』


 種からささやきが聴こえた。

 視線を上げ、ミントは一点を見上げる。

 種が訴える行き先――ならば、そこへ誘うのが運び手の役目。


『じゃあ、ミントが連れて行ってあげるの。ミント、運び手だから』


 足を踏み出す。

 とってとってと、ミントにとっては大きな歩幅で向かう先に、月の光を静かに透かす魔水晶がそびえる。

 そんな彼女の後ろで、息が落ちた。


『まさか、大樹の種が望むのは――』


 ヴィヴィの吐息のような呟き。

 瑠璃の瞳が樹冠の如く先を伸ばす魔水晶を見上げ、そして、とってとってとそこへ向かうミントの背を見やる。


『――そこへ根を下ろそうというのかねぇ』


 ヴィヴィの視界の端で、白がちらつく。

 彼女が横を振り向くと、よろよろとした足取りで老狼が並び座った。

 動作の弾みなのだろうか。

 どすんと老狼が尻を落とした瞬に、彼女の身体から幾つもの光が零れ、光の雨を降り落とす夜空へと登った。

 もう、気付かぬふりは難しい。

 老狼の魂の摩耗の深さに気付き、ヴィヴィは瑠璃の瞳を小さく震わせる。

 だが、口を引き結んだのは一瞬。普段の調子で言葉を継いだ。


『だとすれば、大樹の種が自身の場を定めた、ということなのでしょう』


 ヴィヴィと老狼が魔水晶を振り仰いだとき、ミントがその下へとたどり着いたときだった。

 ミントも仰け反ってしまう勢いで仰ぎ、空から降り落ちてきた光の雨に打たれて、反射的に目をつむる。

 その雨音が音を奏でる。

 ぽろん。ぽろろん。ぽろん――祈りの音だ。

 薄ら目を開き、ミントの耳が跳ね上がる。


『むかしむかーしの祈り。それから、いまの祈り。いろんな想いがあって、祈りに転ずるの』


 ぽろん。光を伴って降り落ちる祈りの雨。

 雫に打たれる度、燐光となって散っては溶けていく。

 ミントが振り返った。


『担い手のあの子は選んだの。種さんを受け取ることを選んだの。だから、大樹さんの種さんも、自分の場所を定めたの』


 ぱきぱきぱき、と異質な音が響く。

 それは、さもすれば魔水晶の樹と評しても言いほどに膨れ上がった魔水晶が、深部の紅の色の範囲を広げようとする音。


『大樹さんの種さんが言ってるの。これを支えにおっきくなるって、抑えてあげるよって』


 大樹は旅を終えた精霊の魂を抱き、疲れを癒やす存在。

 そしてまた、新たな旅へと送り出す存在。

 ミントの抱える種は、そんな大樹の種なのだ。


『私が掬えなかった同胞達を、そのまま抱こうというのですか――?』


 ヴィヴィの懸念の色をはらんだ小さな問いは、ミントに向けられたものではなく、その彼女が抱えた種に向けられたものだった。

 種がミントの小さな前足の中で震える。

 ぽろろん、と祈りの雨が勢いを増して降り落ち始めた。

 それは言葉を持たない種の答えなのか。

 しかし、ヴィヴィの懸念は拭えない。


『ですが、種が根を下ろすために必要な、みなもととなるものも、栄養源となるものもありません』


 祈りだけでは、大樹は成長を遂げられない。

 それどころか枯れていくだけだ。

 この場は、最早面影はなくなってしまったが、確かに箱庭の如く地下牢だった。

 土もあり、緑も水もあった。

 だが、それは所詮仮初めの箱庭。

 大樹となるには、何もかもが足りない。

 それに、魔水晶を抱え込もうとしているのだ。

 オドで構成されて魔水晶。生き物が内包する魔であるオドとはいえ、それが過ぎればやはり毒となる。

 なのに、大樹の種は何を考えているのか。

 ヴィヴィがさらに言葉を継ごうと口を開きかけたとき。


『リスのお嬢ちゃん、一つ、訊いてもいいかねぇ』


 老狼が先に口を開いた。


『担い手ってのは、一体誰なんだい?』


『担い手は、あの子なの。あの女の子なの』


 ミントの答えを受け、老狼が静かに口の端を持ち上げる。


『そうかい、ニニを選んだんだねぇ。なら、このおばばも己の先を定めようじゃないかい』


 そして、ゆっくりと隣のヴィヴィを振り向いた。

 蒼の瞳が、愕然とした面持ちで見つめるヴィヴィを見据え、言葉をこぼす。


『まさか――』


『――王よ、あたしを苗床にすればいいさ』


 遮ろうとしたヴィヴィの声が、老狼の一言に遮られた。

 ぽろん、ぽろろん――祈りの雨音が、やけに鮮明に聴こえる。


『王ならお気づきだろう。あたしはもう、存在を保っていられるのも時間の問題さ』


 朗らかに笑んだ老狼の、その輪郭がぶれた。


『ちょっとばかし力を使い過ぎちまっただけなんだけどねぇ。無理も出来ないほどに、それだけあたしは、永く時を重ねすぎていたのかねぇ……』


 老狼から零れる解れの光。

 空へと登る己の光を、老狼の蒼の瞳は静かに追いかけた。

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