もう還れない


「――それはちょっとばかしお待ちいただこうかねぇ、王よ」


 声と共に老狼は降り立った。

 が。


「……おっと」


 降り立つ寸前。老狼の視界がぐらりと歪む。

 足を着す場を誤り、身体が傾いだ。


「老狼殿……!」


 崩れる身体を受け止めようと、幼子が咄嗟に手を伸ばす。

 けれども小さな身体に、その上、片腕しかない状態で受け止めきれるはずもなく、幼子も結局は老狼に巻き込まれる形で倒れ込んでしまう。

 それでもなんとか老狼の下から這いずり出た幼子は、老狼の顔を覗き込んで息を呑んだ。


「老狼殿……それは……」


 それ以上、幼子は――ヴィヴィは言葉を続けられなかった。

 ヴィヴィの“眼”に、それははっきりと映る――老狼の魂が、摩耗していた。

 衝撃で何も言えないヴィヴィを、老狼は小さく笑って細く息を吐き出した。


「……少しだけ、無理をしちまっただけさね」


 倒れた身を起こそうと、彼女は四肢に力を入れる。

 だが、四肢は頼りなく震えるだけだった。


「嫌だねぇ。これじゃあまるで、年寄りみたいじゃないかい」


 くすり、と。弱々しくはあるも苦笑をもらす老狼に、ヴィヴィは気遣わしげな眼差しを向ける。


「老狼殿はお年寄りですよ」


 その眼尻が下がった。


「やはり、あなたには無理をさせてしまったのですね」


 瑠璃の瞳が潤む。

 泣くまいと堪えるのに、目の奥は熱を持つばかり。

 俯けば、ぽたりと何かが溢れ落ちそうだ。


「……王はまだ、精神が拙いんだねぇ」


 老狼のまぶたが震え、碧の瞳が姿を現す。

 その瞳が穏やかに笑った。


「王のせいではないよ」


「ですが、私がのちの対処を負わせてしまったから」


「それは関係ないさね。あたしが、己の力を見誤っちまったせいさ。まさか、ここまで衰えてるとは思わなかったよ」


「でも――っ」


 声がぐずぐずに揺れ、ヴィヴィはそれ以上の言葉を継ぐことが出来ずに俯く。

 その弾みで、ぼたりと瑠璃の瞳から涙が溢れた。


「おやおや、本当に困っちまったねぇ。あたしの過信もあったのさ」


「私が負わせなければ、魂を擦り減らすことも――」


 と、ヴィヴィが言いかけたとき。


「お待ち下さいっ! ニニ様っ!」


 エルザの静止の声が響いた。

 絶えず降り落ちる光の雨の中、エルザの腕からすり抜けたニニが、真っ直ぐ駆けて来る姿があった。

 不思議と彼女が近付くにつれて、ぽろん、と祈りの音が聞こえてくる。

 それが光の雨音だと気付いたとき、あれほど四肢に力が入らなかった老狼が立ち上がった。


「老狼殿……?」


 泣き腫らした目でヴィヴィが老狼を見、そんな彼女の横を老狼は過ぎる。

 それでも老狼の足はもつれそうで、駆けるニニが慌てて腕を伸ばして、足に力を入れた。

 ニニの肩では、ミントが必死にしがみついて揺れに耐えている。

 老狼が足を絡ませ、倒れた。


「おばばさまっ!」


 ニニから悲鳴が上がる。

 急いで駆け寄り、老狼の傍に座り込む。


「おやまあ、ニニの顔までぐしゃぐしゃじゃないかい」


「いいの。ににはもう、あちこちぐちゃぐちゃによごれてるから」


 ニニは我慢することなくぼろぼろと涙を溢して、既に顔はぐしゃぐしゃに歪んでいた。

 老狼は蒼の瞳を朗らかに笑わせ、ニニの大粒の涙を舌ですくい取る。

 涙のしょっぱさの中に、彼女の優しさが舌の上に広がった。


「おばば、さまぁ……」


 ひっくとしゃくり上げるニニが、老狼にすがろうと彼女に触れた――刹那。


「え――……?」


 ニニの瞳が見開かれた。

 手が、透けた。

 そんなばかなと、もう一度手を伸ばす。

 老狼に触れようと伸ばした手。それが、何も触れずに透けた。すり抜けた。

 呼吸が一瞬止まる。鼓動が不穏に跳ねた。

 瞳を見開くニニの肩では、異変に気づいたミントが身を強張らせた。

 なにかの間違いだ。そう思ったニニが、再度手を伸ばして老狼に触れる。

 今度は手の平に実感が伝わった。

 ほら、やっぱり気のせいだったと、ニニが安堵の息をつく傍ら、ミントは苦しげに瞳を揺らし、そっと逸らした。

 ニニが老狼を撫でる。しかし、そこから光が零れる。

 始めは光の雨に打たれて散った燐光かと思った。

 けれども、違うことにすぐに気付く。

 老狼に触れる箇所から、光が零れているのだ。

 それはまるで、何かが解れるみたいに――。


「――っ」


 手が震えた。

 ひとつの気付き。幼子にしては敏いニニは、そのもしかしたらに気付いてしまった。

 老狼は相変わらず蒼の瞳を朗らかに笑わせている。


「まだもうちょっとだけ、時はあるさね。それに、おばばは――」


 よっこいせと、老狼は億劫そうに上体を持ち上げた。

 座り込むニニと目線を合わせ、やっぱり朗らかに笑う。


「この地への縛りで、おばばは還れないからねぇ。――いや、そもそも、もう還れないか」


 朗らかに笑っていたそれが、自嘲じみた仄暗い笑みに変わり、いつの間にか背後に立っていたヴィヴィに向けられる。


「そうだね、王よ」


 振り返った蒼の瞳にヴィヴィは口をぎゅっと引き結び、眉根をぐっと歪ませて、それからゆると緩ませた。


「貴方の魂は、この地に縫い付けられるかのような縛りを受けています。ゆえ、身体うつわを失っても、その縛りが、貴方の魂が大樹へ還ろうとするのを阻んでしまうでしょうが――」


 そこでふつりと黙り、ぐっと小さな握り拳をつくった。

 そこから先を言葉にするだけの勇気が、掻き集められない。

 瑠璃の瞳が俯く。


「王はもっと、冷徹であられるべきだよ」


「……ここまで放っておいた責が、私にはありますから」


「けども、こうなることは承知で、ここまでのことをやってきたのはあたしだよ」


 俯いていたヴィヴィが、はっとして老狼を見やった。

 そこには、老狼、と文字通りの老いた狼の精霊がいた。

 だが、そこに在ったのは、己というものをしかと持ち、凛として佇む永い時を重ねた精霊の姿だった。


「精霊として超えちゃいけない線を超えちまったんだ。それを、かの存在がお赦しになるはずはないんだよ」


 精霊は魔の巡りを保つ者。それは精霊が身体を賜った際に、かの存在から課せられた役目。

 それを老狼は、魔力の濃い地を浄化をもって鎮め保つべきところを、同胞である精霊を用いて行った。

 そしてまた、そのつもりはなかったとはいえ、魔を暴発させ、地を魔で満たし、混乱をもたらせた。


「あたしは、あの子の縛りでこの地からは動けなくてねぇ。大地に癒やしの気を与えながら、他に方法はないかと考えたもんさね」


 苦笑をもらしながら、老狼は一人言のように、けれども、読み聞かせるように滔々と語っていく。


「そんなときに、ひとつの魂が輪廻のことわりを外れちまった」


「それが、ティアさんですね?」


 ああ、そうさね。

 ヴィヴィの問いに、老狼はゆっくりと首肯する。


「精霊はマナで構成された、謂わば魔のかたまり。魔は想いの影響を受けて具現化する――つまりは、あたしの想いが、永い時をかけて作用しちまったんだよ」


「彼女の魂は風が好む色を持っていますから、この地に根付いた老狼殿の想いを、魔が応えて風に伝えたのでしょう。風は、全てのきっかけですから」


 ヴィヴィの瑠璃の瞳が、光の雨を振り落とす夜空を見上げた。

 ぽろん、ぽろろん、と響く光の雨音――祈りの音。

 瞬く星を瑠璃の瞳に映しながら、静かに馳せる。

 火は風を食むことで熾り、植物は風に乗ることで命を渡し、水は風に押されることで進む――全てのきっかけは風だ。


「その上で、あのお嬢ちゃんと一緒に坊やがやってきたのは、予想外のことでも嬉しかったのさ」


 それはシシィのことだ。

 ヴィヴィが老狼を見やる。


「そうすれば、きっと精霊が動くと思ってね。まさか、王自らおいでになるとは思わなかったけどねぇ」


 老狼の蒼の瞳が、困ったように柔らかな笑みを浮かべた。

 ヴィヴィは静かにその瞳を見据え、ゆっくりと口を開いた。


「老狼殿は、精霊達に知ってほしかったのですね。この地のこの現状を」


 瑠璃の瞳が責で揺れる。


「ああ、そうさね。けど――」


 老狼が紅魔水晶の華を見上げた。

 その動作ひとつだけで、もう息が上がる。


「――こんな結末を招くつもりはなかったんだよ。本当に……」


 老狼の声は参ったように弱々しい。

 それでも、彼女の蒼の瞳はしっかりと捉えていた。

 紅魔水晶の深部できらめく、そのきらめきを。


「あの子らは――」


「複雑に絡みすぎた彼らは、もう還れない。解こうとすれば、彼らを壊してしまう」


 老狼が振り返ると、ヴィヴィも紅魔水晶を見上げていた。

 見上げる瑠璃の瞳は、痛みをはらんではいるも揺らぎはない。

 そこに在るのは、精霊を統べる者として立つ、幼子の姿をした王。


「――このまま、紅魔水晶ごと片します」


 紅魔水晶ごと片す――それはつまり、取り込まれたままの精霊ごと滅するということだ。

 老狼が痛みを堪えるように、蒼の瞳を静かに閉じた。

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