終、それは選びを示すこと
ニニは深く眠っていた。
それはとても深く――。
◇ ◆ ◇
ニニは気が付くとそこに立っていた。
はっとし、目の前に広がる光景に息を呑む。
きょろきょろと、思わず辺りを見渡してしまった。
前も後ろも、右も左も、ニニの目の前に広がるのは緑ばかり。
風がそよげば、緑はさわざわと豊かにざわめいた。
上を見上げれば梢が空を覆っているも、そこから透ける陽の光がきらきらとしていた。
足元に視線を落とせば、ふかふかとした土に木漏れ日が踊っている。
ニニはそれらをじいと見つめ、やがて瞳が興味で輝いた。
「ここって、もしかして……もり、なの……?」
口の端はにんまりと持ち上がり、ニニの顔に喜色が浮かぶ。
「にに、はじめてみたっ!」
がばっと勢いよく顔を上げると、草木の隙間から飛び出した何かが動きを止めた。
それが警戒したようにじいとニニを見つめる。
ニニもそれを見つめ返し、ややしてそれが何かを思い至った。
「しかだっ!」
大声を上げると、鹿はくるりと身を翻して跳ねて行く。
ぴょーんっと跳ぶ様はニニの目を丸くさせ、しばし呆気に取られていた彼女は、待ってと慌てて追いかけた。
ふかふかの土を踏みしめ、木漏れ日の中をひた走る。
「あはははっ!」
次第に込み上げた喜びに、ついには声がもれた。
森の中を駆けている――その事実が、ニニの心を躍らせる。
いつの間にか鹿を追いかけていたことも忘れ、ニニは夢中で走った。
時折片足を軸にくるりと身体を回し、その度に森を見回しては心を弾ませる。
だって、これが森なのだ。
本の中の挿絵でしか見たことのない光景が、こうして目の前に広がっている。
はしゃがない方がおかしい。
何度目かのくるり。ワンピースがふわりと膨らんだ。
そんな時だった。ふいにニニの鼻先に清涼な気がくすぐった。
足を止め、自然と足先はそちらへと向く。
匂いを辿るようにふらりと足は動き、しばらく歩き進むと水の音が聴こえ始めた。
それから駆け出すまではあっという間だった。
緑豊かな木々が前から後ろへとどんどん流れていく。そして、やがて先に光が見えた。
ニニはその光へ向かってぐんっと足を踏み込み、一気に飛び込んだ。
飛び込んだ先は光で溢れ、思わず目をつむってしまうほどに眩しかった。
ニニはそろそろとまぶたを持ち上げる。
「……すごい、かわみたいなかわだ……」
言葉としては矛盾をしている。
けれども、ニニにとってはそれが全てだった。
彼女の前には川が流れ、川底まで見通せるほどの透明さが陽の光を弾いていた。
ニニが縦に寝転んでも、両手を頭の上へと伸ばしても、到底向こう岸まで届かなそうなほどの大きな川。
彼女の暮らす領地に在る小川とも評せぬ川とは、比べ物にならない規模の川だ。
この場は清涼な気で満ち、穏やかに流れる川のせせらぎが心地よい。
川魚が跳ねる。ニニの目が丸くなった。
「およぐおさなか、はじめてみた」
魚ならば目にしたことはあるし、口にしたこともある。
それでも、鮮度が大切な魚類は、滅多に領地まで流れてくることはない。
近くに海や川がないこともあるだろう。
それに、領地を流れる細やかな小川には小魚一匹すら泳いでいない。
それだけ、あの地は命からも縁遠い。
ぱしゃんっ。魚がまた跳ねた。
ニニの口元が緩くなる。
うずうずとした気持ちが彼女の身体を動かし、靴やらを脱ぎ捨てて川へと飛び込ませた。
ばしゃんっ、と水飛沫を豪快に上げて飛び込めば、魚らは当然の如く逃げ去っていく。
「あ……」
それをしょんぼりと肩を落として見送っていると。
「そりゃあ、あれだけ豪快に飛込めば魚が逃げるのも当たり前だよ」
くすくすという笑い声が背後から聞こえ、ニニは振り返る。
そこには、川に足を投げ出し岸辺に座る青年の姿があった。
その川岸は先程までニニが立っていた場であり、人の姿などなかったはずなのに。
それに、彼の面差しにどこか懐かしさを感じるのはどうしてか。
ニニは身体事振り返って首を傾げた。
「あなたはだれ?」
突然現れた青年であるのに、不思議と警戒する気持ちは湧かない。
それどころか、懐かしさに似た親しみすら感ずる。
「え、おいらのこと?」
対してニニに問われた青年は、己を指さして問い返す。
彼女がそうだと頷けば、彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「へへっ、おいらに興味持ってもらえて嬉しいや。けどさ、おいらはおいらだよ」
「それはににもわかってるよ。ににだって、ににはににだもん」
「でしょ? おいらはもう何者でもないんだ。だから、おいらはただのおいら」
青年の返答に、ニニは困ってしまった。これではまるで謎掛けのようだ。
ニニはただ、目の前の青年が誰かを知りたかっただけなのだが、より謎が深まってしまった。
それを彼女の表情から察した青年はからりと笑い飛ばす。
「おいらはおいら。それだけお嬢ちゃんがわかってれば、おいらが何かっていうのはもう些末ってもの――大したことではないよ」
そうして彼は、足をばたつかせ始める。
ばしゃばしゃと水飛沫を上げる様は、無邪気というかなんというか、毒気も抜ける気がして、ニニももういいかと諦めることにした。
そして、楽しそうなばしゃばしゃの姿にニニもうずうずとし始め、彼女も青年の隣に座ると、ばしゃんばしゃんと足をばたつかせ始める。
二人して上げる水飛沫は派手に飛び散り、気が付けば二人ともずぶ濡れになっていた。
顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出す。
一頻り笑ったあと、青年は目尻に溜まった涙を指で拭いながら。
「お嬢ちゃんは、この森は気に入ったかい?」
唐突な問いをニニへ投げかけた。
そんな唐突すぎる問いに、笑い転げる勢いだったニニの瞳はきょとりとし、次いでぱちくり瞬く。
青年の顔をまじまじと見つめ、そして、森を見やってから足元に視線を落とす。
透明度のある川は、川底の小石が揺れて見えた。
ぱしゃん、と遠くで魚が跳ねる。
さらさらと流れるせせらぎに、川を滑る風はひんやりとした清涼な気を運ぶ。
ふわりと空へと舞い上がると、さわざわと木々を揺らして木漏れ日も揺らした。
風の軌跡を追いかけ、ニニは空を仰ぐ。
枝葉に隠され空の全容を見ることは出来ないが、陽を透かす葉の隙間からは空の青が覗く。
それはきっと、澄み渡った色をした気持ちのいい青だと思った。
ほんのりと顔に笑みを滲ませると、ニニは青年を見やった。
「うんっ! にに、このもりすきっ!」
にぱっと笑って見せたニニに、青年は嬉しそうに、本当に嬉しそうに破顔する。
「……そっかぁ。それなら、おいら安心できるなぁ」
「あん、しん……?」
「そう、安心」
小首を傾げるニニに笑顔を向け、青年は足元へ視線を落とす。
彼が軽く足を振ると、川はぱしゃと水を跳ねさせた。
「本当はおいら、お嬢ちゃんの中で眠ってなきゃいけない存在だからさ」
青年は視線を上げると、ニニへ苦笑を向ける。
青年の言葉の意味を解そうとして、けれどもわからなくて、眉間にこれでもかとしわが寄る。
それを見て、彼は苦笑を深めた。
「いいよいいよ、わかんなくて。おいらも深くはわかんないし」
空を仰いでぽつりと呟く。
「……大樹が選んだ担い手は、お嬢ちゃんか」
「なにかいった?」
「ううん、なんでもないよ。ただ――」
青年を見やるニニを、彼もまた見やって口を開く。
「選ばれたからと言っても、それをどう受け留めるかはお嬢ちゃんの自由だよってことは、おいらから伝えておこうかなって」
再び眉間にしわを寄せるニニに、青年は声を上げて笑った。
ニニは頬を膨らませる。
「さっきからむつかしいことばっかり」
「いや、お嬢ちゃんはおいらよりも賢いし、きっとすぐに何の事かわかるよ」
はにかむ青年に、ニニは思い切って頭突きをくらわせた。
それがちょうど痛いトコに入ったらしい彼が、上体を折って呻く。
「今の……結構痛い……」
ふんっ、とニニは満足げに鼻を鳴らした。
自分だけ知ったふうに語るのがいけないのだ。ざまをみろ、というやつだ。
ふと気付いた時、さらさらと流れる川の水面に、星が線を引いて流れた。
え、と瞳を瞬かせ、ニニは空を仰ぐ。
刹那、風が強く吹き、木々の枝葉を大きく揺らす。
そこから覗いた空は夜に染まり、星が瞬いていた。
星が線を引いて幾つも流れて行く。
「……りゅーせーぐん」
書物で読んだことのある光景が、ニニの前にまた現れた。
おお、と目を見開くニニの瞳に、幾筋の星の軌跡が映り込む。
惚けるようにして見上げ続け、首が痛くなってきた頃に視線を落とした。
筋が固まったからか、首がぎぎぎと軋むような感覚がする。
そして、川の水面に落とした視線がまたもや釘付けにされる。
水面に揺れる夜の空に、そこへ線を引く星の軌跡。
感嘆で息をもらすと。
「――美しいよね」
青年がぽつりと言葉を落とした。
風が緑を揺らし、さわさわと森が唄う。
ニニがちらりと隣へ視線を投じると、青年も水面の星の軌跡を眺めていた。
その横顔が切に揺れている気がして、心がきゅっと小さく締め付けられる。
「今の時には失われてしまった、かつての風景だよ」
顔を上げて、青年が淡い笑みを口もとに浮かべる。
「お嬢ちゃんに見せたかったのかもね」
「だれが……?」
「うーん、誰だろうね?」
そう言って、青年は朗らかに笑った。
対してニニは、またはぐらかされたとため息を落とす。
「でも、この風景は
「だから、ににはむつかしいことわかんないっ!」
かんしゃくの如く、川に浸らせたままの足をばたつかせた。
水飛沫は舞い、星明りを弾いてきらめいた。
青年は苦笑を滲ませ、かんしゃく娘の頭を優しく撫でる。
「なんて言えばいいのかなあ。おいらの知っている風景を、お嬢ちゃんにも知って欲しかったんだと思うよ」
「だからっ、だれがっ!」
ばしゃっ、ばしゃばしゃんっ。水面に瞬き、線を引く星が激しく揺らぐ。
「大樹が」
「たいじゅ?」
ばたばたしていた足が動きを止めた。
ニニはこてりと首を傾げて、青年へ答えを急く。
「それはおいらの口からは言えないよ。そういう
「ことわりもよくわかんないけど、だめ? どーしても?」
「うん、だめ。どーしても」
目尻を下げて申し訳なさそうな顔をされてしまえば、ニニにはもう、それ以上詰めることも出来なかった。
はあ、と落とした嘆息は諦めのそれだ。
「でも」
青年の呟きに、ニニが視線を上げる。
彼女の頭を撫でていた手が止まった。
「おいらが言えるとしたら、おいらはこの風景がとても好きだったってこと。それはお嬢ちゃんもでしょ?」
こくりとニニが頷けば、青年は破顔する。
「なら、大丈夫。お嬢ちゃんはちゃんとそれを知れるし、感じて、考えて、自分で決めることが出来るよ」
「それは……、それって……」
ニニは口を引き結び、一生懸命考える。
青年が言おうとして、でも、ことわりっていうもので言えないことを、一生懸命に考えた。
そして、やがてゆっくりと口を開く。
「それって、あなたがいってた“にないて”っていうもののこと?」
青年の目が小さく見開かれた。
「なんだ、聞こえてたんだ」
「うん」
「そっかあ、そっかそか。うん、そう。担い手のこと。でも、だからと言って、それをどう受け留めるかはお嬢ちゃんが決めることだよ」
青年は腕を組むと、訳知り顔でうんうんと一人頷く。
「お嬢ちゃんなら大丈夫。おいら、わかるからさ」
「なんでそうやっていいきれるの」
胡乱げな顔のニニを見やって、青年はからりと笑った。
「だって、おいらとお嬢ちゃんは同じ
「もの……?」
「さあて、そろそろ終いみたいだ」
え、とニニが声をもらせば、周囲が光で満ち始めていた。
彼女が駆けた森も、脱ぎ捨てた靴も、足を浸らせた川も、感嘆した星空も――隣の青年でさえも、全てが光に転換されていく。
「なに、これ……」
戸惑いか、困惑か、恐怖か。はたまたその全てかもしれない。
不安に顔を歪ませながら、ニニは隣の青年を振り向いた。
その間にも、視界の端で風景が光に溶けていく。
「不安に感じることはないよ。ただ、お嬢ちゃんへと還るだけだからさ」
「かえるって、どこに」
「お嬢ちゃんに、だよ。おいら言ったじゃん。本当ならお嬢ちゃんの中で眠ってなきゃいけないって」
ニニが手を伸ばす。
隣にずっと座っていたのに、どうしてだか遠くに感じる彼を離したくなくて、思わず彼の服の裾を掴んだ。
けれども、彼という存在はそれ程に脆い存在だっただろうか。
掴んだそれもまた光となって崩れてしまい、空を掴んだだけだった。
はっとして青年の顔を見上げる。
その表情はもう曖昧でわからない。
「そうだ、最後にこれだけ」
周りの景色は光となって散った。
「ソフィアのこと、もう解いてあげてくれないかな。おいらの最期の想いが、これだけ永くソフィアを留める縛りになるなんて、思わなかったんだよ」
その声はまるで、寄辺をなくして迷い歩く声に聞こえた。
「……ソフィアのこと――」
その言葉は最後まで聞こえなかった。
青年もまた、最後の一欠片となって光に散ってしまったから。
一人残されたニニは、途方もなくその場に座る。
そこへ、ふいに
ニニが無意識に手を伸ばすと、それは手の平に着す。
ニニが視線を落とすと、それは六花の雪の華。
誰かの想いに触れた。
それは雪のように儚く静かな想いだった。
◇ ◆ ◇
ニニの意識はゆっくりと浮上する。
まだ曖昧な意識の中、己が何かを握っていることに気付く。
朧な視界。ぼやけた中で手の平を開いてみれば、そこにはニニの手の平程もある、植物の種にしては大きな種があった。
担い手。あの青年の言葉が、ふいに強く思い起こされる。
上から雨のような光が降り落ち、雫が種を打つと燐光を散らした。
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