老狼と若い精霊
地下牢。そこに辛うじて残った木々が、不穏な空気に臆されて震える。
さわざわと木々がさわめく中、ぽっかりと空いた天井からは、星を抱く空から光の雨が降り落ちる。
地下牢内は紅魔水晶が華を咲かせて埋め尽くすも、それでも爆風によって抉られた箇所は開けたまま。
地にはその際に砕けた紅色の欠片が散らばり、時折光の雨を、燐光を、月光をきらりと弾く。
それをシシィは、じゃり、と音をたてて踏み鳴らす。
彼が醸し出す不穏な空気が合わさって、威嚇のようにも聞こえた。
『――老狼殿は、ニニをどうしようとお考えか……?』
低く問うシシィの眼光は鋭く、彼は自身の首に腕を絡めたままだったティアの身体をぐっと引き寄せた。
対する彼女は戸惑いがちに彼を見やり、少しだけ身を強張らせる。
彼でもこんなに鋭い眼差しを向けることがあるのか。
こんか、彼らしくもない――。
ティアはシシィの首へ絡めたままだった腕を解き、身体を離そうとするも、彼の腕に引き寄せられて身を寄せる体勢になる。
離れないでとでもいうように、その腕に力が入っていた。
『初いねぇ、まったく。余程そのお嬢ちゃんが大切なんだとわかるさね』
老狼がふふと微笑ましげに笑う。
覗いたままの蒼の瞳には、あたたかな色が滲んでいた。
ただ、この緊迫した状況下で浮かべるその笑みは、シシィをただ刺激するだけだ。
証拠にシシィらの周囲の温度が急激に下がる。
冷えた空気はひんやりを通り越して少しばかり肌寒く。
なのに、老狼はくつくつと喉奥で笑うばかりで、どうしてこの状況下で笑えるのか。
シシィの機嫌がだだ下がったのを瞬的に肌で感じ、思わずティアは身をすくめる。
その際に足が地に散らばる紅の欠片を踏み、そこに、しゃり、と別の音が混ざって聞こえ、訝ってちらりと下を見やった。
僅かばかりにぎょっとする。
シシィとティアの周囲だけだが、霜が下りていた。
それだけシシィの機嫌が急降下しているということだ。
なるほど、肌寒く感じるわけだ。ティアが場違いにも妙な納得をしてしまう程に。
それでも尚、老狼は
『いいのかい? 剥き出した感情に振り回されて、力を御しきれていないよ』
『問いに答えていただきたい、老狼殿。ニニをどうしようとお考えか――?』
薄く白い煙が燻る。
それが冷気だとティアが気付いた頃には、どこからか集めたらしい空気中の水気が球状になり、幾つもの球が老狼をぐるりと囲んでいた。
これはまずい、とティアの胸中に焦燥が広がる。堪らず彼の顔を見上げれば、感情の昂りか、力の煽りからか、碧の瞳が仄かに光を帯びていた。
ひゅっと喉が鳴る。
『……し、シシィ』
ティアがシシィの服の袂を引けば、ちらりと碧の瞳が彼女を見た。
『ニニはこの地にとって欠かせない存在。きっと彼女は、この地の支えになる』
『シシィ……? 一体、なんのことを――』
まるで何かに浮かされたような声音。
『ニニは隠れた精霊に気付く敏い感性を持ってる。精霊を想って、慈しめる――だから、囚われてるなら助けるだけ』
『助けるって……』
碧の瞳が再び老狼を据える。
ティアも同じように老狼を見やり、彼女に抱えられた幼子を見やる。
けれども、やはりティアにはニニが囚われているようには見えない。
彼にはそれが見えていないのか。眠るニニの表情は、恐怖というよりも安堵、安心、心寄せるゆえの表情だ。
再びティアはシシィを見上げる。
だが、彼女が口を開く前に彼が先に動いた。
『なるほどねぇ。この老いぼれがそれほどに気に入らないのかい』
老狼が口の端を引き、ゆうるりと笑む。
彼女を囲う水の球が矛の形を造り、ぴききと凍る音が響き始めて、弾かれたようにティアが視線を投じる。
氷の矛となり始めており、その鋭い切先が老狼を定めようとして。
刹那――老狼から笑みが消えた。
『――老婆心から、精霊の坊やにひとつ助言をあげよう。剥き出しの感情は、時に危ういものさね。己の立場を自覚おし』
言葉の意味を解したのは、ティアだった。
風が畏怖して震え始める。
いつの間にか、幾つもの光の粒が周囲を漂っていた。
この光の粒――下位精霊達は一体何処から。瞬、違和がティアを駆け抜ける。
『この子達、魔水晶に取り込まれていた精霊達だわ。――それもまだ、完全に影響が抜けきれてない子達もいる』
それどころか、昂ったままに周囲を漂ったばかりに、魔水晶を造った“負の念”と評すべきものが場を侵し始めていた。
先程胸中に広がった焦燥が、じりりと嫌な熱を帯びて彼女を焦がす。
がばりとシシィを見上げる。
『シシィ、自分を保ってっ! あなた侵されてる、負の念に呑まれてるっ! 触発されちゃだめよっ!』
ぐいぐいと彼の服の袂を引くも、もう碧の瞳は彼女を見ようともしない。
『……なんで、シシィが呑まれて』
『それはお嬢ちゃんに要因があるんだろうねぇ』
『わ、私?』
シシィの腕の中、身をよじって老狼を向く。
すでに彼は負の念に侵され、呑まれかけているというのに、腕の力だけは一向に緩む気配がない。
『お嬢ちゃんが危うい状況に陥ったのは、おばばが原因だからねぇ。そこの坊やが、このおばばを心よく思っていないのを、負の念に触れて増長されちまったのさ』
老狼が言葉を紡ぐ間も、彼女に向けられた氷の矛は成形されている。
冷気が煙り、ぴききと凍える音が響く。
なのに、老狼に恐怖も焦りの色もない。余裕な冷めた笑みを浮かべてまでいる。
『――あたしがニニを害そうなど、例え戯言だろうと、少しばかり業腹だねぇ』
ぴしり。老狼が尾をひとつ打ち付けた。
瞬間、老狼から迸った
ティアが動いたのは反射だった。
人の姿から鳥の姿へと転じ、シシィの腕から抜け出した彼女は、咄嗟に翼をひとつ打って風の障壁を築く。
老狼から迸って氷を砕いたそれは、そのまま余波となってシシィを襲うも、ティアの築いた風の障壁に阻まれ受け流される。
しかし、余波は完全には殺し切れはせず、幾らかは障壁を貫通してしまう。
彼自身も足を踏み締め、腕を顔前で交差させて受けの姿勢を取るも、老狼のそれを堪えきれるわけもなく、呆気なく後方へと転がっていく。
転がった衝撃で白狼の姿に転じた。
散った氷は刹那にきらめき、空気中へと還っていく。
転がった彼に一瞬焦るも、むくりと起き上がった彼の姿を見て、ティアはほっと胸を撫で下ろした。
『この程度でいなされて、やっぱり坊やは青いさね』
老狼は不服げに鼻を鳴らし、ティアへ一瞥を向けた。
『坊やを呼ぶのは、お嬢ちゃんの範疇じゃないのかい?』
その声にはっとし、ティアはシシィの前に降りて彼を見上げる。
彼は老狼を据え睨んだままで、ティアを見ない。
碧の瞳に滲む負の念が、彼のその瞳を仄昏く見せる。
『――っ』
一度目は息を詰めて声が出ず。
二度目は少しためらってしまって声が絡まった。
そして、三度目にやっと意を持って声へ力を入れられた。
『――《
彼の真名を告げる。自分を保ってと想いを込めて。
碧の瞳が見開かれ、瞬く。数度瞬いて、ゆっくりと視線を落として。
『……ルゥ?』
ティアを見た――碧の瞳が、ティアを見た。
琥珀色の瞳が揺れる。
『シシィ、自覚ある?』
ティアの問いをシシィはゆっくり噛み砕く。
かぶりをひとつ振り、靄がかった思考が次第に晴れてくると、じんわりと彼女の問いの意味が沁みてくる。
そして、鈍っていた思考をはっきりと解していく。
『あー……、うん……だいじょーぶ……。そう、なんとなく、把握は出来てきた……』
シシィが周囲を見やり、周りを漂う下位精霊らの姿を認めた。
『僕が引き寄せちゃったんだよね。……僕が母上の――精霊王の血筋だから』
『そうさね。言っただろう――』
『己の立場を自覚しな――ですね、老狼殿』
シシィが老狼を見やる。
彼女は大仰に頷いてみせ、やれやれと首を振った。
『王の次代としての器でなかったとしても、その血筋に連なるんだからねぇ。下の精霊を従えることも出来ちまうんだよ』
老狼の蒼の瞳がついと細められる。
『それが剥き出しの感情ままに奮われちまえば、尚更。下の精霊は抗うことすら難しい』
鋭い視線がシシィを突き刺し、彼は苦々しく視線を落とした。
『……胸に刻んでおきます』
『けどまぁ、今回は仕方なかったさね』
耳も垂れてしょぼくれたシシィだったが、一変した老狼の声に視線が上がる。
ぬくもりの灯った老狼の声には、シシィだけでなく、ティアも彼女を見やった。
『おばばも自覚はしているんだよ。坊やたちには色々やっちまったからね。それを心良く思わないのも道理であり、そこが負の念に付き入れられたんだろうねぇ』
まあ、悔いてはいないから謝は述べないけど。
と、老狼はあっさり告げる。
それでも、そこに籠められた想いが微かに匂って、ティアは自然と声がこぼれた。
『おばあちゃん……』
『嬉しいねぇ。お嬢ちゃんはそれでも、あたしをおばあちゃんだなんて呼んでくれるのかい』
老狼は苦く笑う。
『この状況を招いたのだって、例え想定していなかったことだとしても、元凶はあたしだと言うのにねぇ』
彼女の目の前を光の粒が過ぎた。
それを目で追いながら、彼女の視線は離れたところへと投じられる。
シシィとティアもその動きを目で追いかけ、はっと目を見開いた。
視線の先。光の雨が降り落ちる中、魔水晶が咲かす華の花弁の上で、少女が何かを掬い上げている。
『母上……』
シシィの呟きが空に溶け、老狼は言葉を続けた。
『ああして王が、魔水晶に取り込まれてしまった精霊を掬ってくださっているのさね。だから、坊やが負の念に侵されちまったのも、それが要因だろう』
『それは、僕が母上の子だから?』
『そう。血を連ねる者は、その力の性質も似る。その上、あの華は王の力を持ってしても、精霊に絡んだ負の糸を完全には解き切れてはいないのさ』
またもや老狼の前を光の粒が過ぎた。
それはシシィ、ティアの前をも過ぎ、何処かへふよと漂っていく。
周囲を見渡せば、無心で漂う光の粒――下位精霊達の姿がある。
『……だから、この子達は負の念を散らしてしまっているの?』
ティアの問いに、老狼は静かに首肯した。
『それだけ、魔水晶の負の念は深いということだよ』
蒼の瞳が揺れる。そこに滲む感情の色は――。
『王の手によって解かれた負の念は、王の力の残滓をまとっている。そこに坊やの気持ちが引っ張られちまって、さらに解き切れていない精霊達を引き寄せたんだろう』
そして、と。老狼が辺りを見渡す。
『祈りの雨でこの場に満ちていた魔力は鎮められた。けども、今度は負の念が満ち始めてるさね』
そこでふいに、彼女は視線を己の懐に落とした。
抱える幼子を見下ろす蒼の瞳に、責の色が滲む。
『……ニニを危ない目に合わせちまった。おばばは、ニニに笑っていて欲しかっただけなのにねぇ』
それは老狼の独り言だった。
そこに籠められた感情は、たぶん、悔いだろう。
その顔を見てしまったシシィとティアは、もう何も言えないと思った。
彼女にもまた、譲れない何かが在ったのだと察してしまったから。
それでも、自分達にされた所業を忘れたわけではない。
事情があったにしろ、気にしないでいいよ、と水に流せる程お人好しでもない。
けれども、事情を解せない程に狭量でもない。
もう、老狼を敵視することは出来ないだろう。
ふたりが黙り込む中、老狼が顔を上げた。
蒼の瞳が見据えるのは、魔水晶の華。その花弁上では、未だ精霊王が光の粒を掬い上げては、空へと放している。
『――解き切れなかった負のそれは、この老いぼれにお任せを』
老狼は頭を垂れ――そして、力を開放した。
王からの、後を頼む、との言を受け取った責と、ここまでの大事へと広げてしまった事への責を果たすため。
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