第十章 終、その先へ
そこには佇む少女がいた
――行かなくちゃ。
その想いに突き動かされ、まるで夢遊病のように歩を進める。
屋敷の廊を埋め尽くす紅の魔結晶、その隙間を掻い潜ること幾度目――視界は突然開けた。
そこは森だった。否。森だった場所だった。
木々の代わりに生えるように紅の魔結晶が下から突き出て、さながら魔結晶の森。
辛うじて残った木々は落ち着かないのか、ざわざわとざわめきの喧騒に包まれていた。
ぴりつきが鋭いそれに変わり、より見えない何かが濃く満ちているのを肌で感じ取る。
辺りには紅の欠片が散らばり、足を踏み出す度にぱりんと砕ける音が響く。
足が勝手に向かう先は、大きな大きな華を咲かせる紅魔水晶。
廊を埋め尽くしていた魔結晶などとは比べられない程に純なそれ。
ここに来るまでに呼吸の仕方を忘れてしまったようで、うまく息を吸うことは出来なかった。
ぽっかり空いた天井から注ぐ明かりは陽なのか、月光なのか。それすらも判ぜられない思考。
その天から注ぐ何かの下に咲かす華は、いっそ誇らしげであり、畏怖そのものでもあり、知らず震える。
そして、そこには佇む少女がいた。
華に佇む少女は、こちらの存在に気付いたらしく、左右に結った白の髪を揺らしながら振り返る。
驚きか、瑠璃の瞳が軽く瞠られた。
「――あなた、魔物に堕ちたいのですか?」
小首を傾げる様は幼さ特有の愛らしさをまといながら、その実、彼女の眼差しには慈愛が垣間見えた。
だが、そこに幾ばくかの呆れの色がはらんでいるのはなぜか。
「――……?」
声を発しようとし、己の声と違うことに気付いて凍り付く。
「――っ! ――――っ!」
およそ人のそれとは思えぬ声に、震える手で口に触れた。
ごぼり。鈍い音が聞こえ、口に触れた手には、あたたかなねっとりとした何かが垂れる。
それはなんだと頭が理解する前に、めまいと激しい頭痛に襲われ、そこでぷっつりと意識は途切れた。
◇ ◆ ◇
傾ぐ小さな身体を、瞬く間で転移したヴィヴィが受け止める。
だが、倒れ込んでくる己と同じくらいの身体は支えきることは出来ず、ヴィヴィは後ろへと倒れ込んだ。
咄嗟に自分の身体を下敷きにし、腕に抱えた小さな身体を守る。
「……形代では、白狼の姿へ転ずれないのが不便なところですか」
そこは改良の余地がありそうだ。
現在のヴィヴィは、大樹から与えられた
移した意識に姿を転じる要素まで入れてしまうと、紛いの器の方が壊れてしまう。
ゆえに“外”で過ごすならば、手足に融通がきく人の方が都合がいいと思い、今の形代が出来たのだ。
素が大樹の器だ。ヴィヴィの力との浸透性もよく、“外”で過ごすならば力の強すぎるヴィヴィにとって、制限のある器は丁度よかった。
のだが――よっこいせと身体を起こしたヴィヴィは、ぱらぱらと崩れる己の肘を見る。
「耐久性にも問題あり、ということですね」
受け止めた小さな身体を胸に抱き、空いた手で崩れる肘を触ってみれば、はらはらと肘が崩れ去る。
接続部分を失った腕は肘から先も崩れ去り、ヴィヴィは片腕を失った。
小さく嘆息を落とす。
この様子では背も崩れ始め、もしかしたら足の接続部も駄目かもしれない。
「老狼殿との応酬で、形代が脆くなっていたのかもしれないわね」
どうしようかと考え始めたとき、胸に抱いた身体がうめき声を上げた。
瑠璃の瞳が切に揺れて視線を落とす。
「――この子を救う方が先決です」
小さな身体は、口から垂れた赤で服を汚し、苦痛によるためか身体をくの字に曲げる。
もともとは綺麗に結い上げられていたであろう髪も、汗と汚れで乱れ、すでに崩れた髪はぼろぼろだ。
顔に張り付いた髪を無事な方の手で退いてやれば、幼い顔がひどく歪んでいる。
「……魔物へと墜ちる寸前ですが、ここに居合わせたのが私で良かったです」
ヴィヴィは瑠璃の瞳を閉じた。
彼女の左右に結った白の髪が、力の奔流でふわりと浮かぶ。
ヴィヴィの身体から、静かな波動となって触れる箇所から小さな身体へと流れていく。
その際にヴィヴィの身体からは、ぴきと小さな亀裂の走る音がした。
それでも構わず続け、水の音がその場を満たした時、瑠璃の瞳が静かに開かれた。
頬に亀裂の入った顔が、小さな身体を見下ろす。
優しく手でその身体を撫でれば、やがて小さな身体はまぶたを震わせ、ゆるゆるとそれを持ち上げた。
すぐに自身を見下ろす瑠璃の瞳に気付くと。
「……あなたが、ににをたすけてくれたの……?」
拙い声で問いかける。
幼い身ながら、自分の置かれた状況を察している。賢い子だ。
安堵させるようにヴィヴィは微笑んだ。
「もう、大丈夫ですよ」
ヴィヴィがニニの頭を撫でた。
その優しい手付きに安堵したのか、ニニはくしゃりと顔を歪めると、みるみるうちに彼女の瞳は潤み出す。
慌てたヴィヴィがニニの身体を抱こうとして、片腕がないことを思い出して固まる。
どうあやすべきか。それがわからぬままに、ニニは声を上げて泣き出してしまう。
そんな様子を見下ろすことしか出来ず、ヴィヴィは途方に暮れる。
「……人の子のあやかし方どころか、子をあやした覚えすらないのですが……」
それは子を持つ母親としてどうなのだろうか。
事情が事情にしろ、おろおろすることしか出来ない自分が歯痒く感じる。
ぐっと口を引き結めば、ぴきっと頬の亀裂が広がった。
と。
「――……」
気配を感じ取った。
何かを探しているような気配。あちこちにと移動する気配は――転移によるものだ。
彷徨う精霊といえば、導かれる答えは一つだった。
「――それならば、こちらへの道をつくりましょう」
ふわっと髪が浮かび、力の反動を受けてなびく。
ヴィヴィは遠くで発動される転移に自身の力をねじ込み、こちらへ無理やり引っ張り上げた。
ぴきっ、ぱきっ、と新たに亀裂が走る音が聞こえたが、はてさて今度はどこだろうか。
「この器、もう保たないかもしれませんね」
苦笑がもれた。
ふうと短く息をつくと、浮かびなびいていた髪が静かに下りる。
それからややし、この場に降り立つ気配がひとつ。
「おやおや。ここへ引き寄せたのは王かい? さすがのあたしも、物理量で魔力を上回れると逆らえないねぇ――」
そこで、降り立った精霊――老狼が動きを止めた。
いつもは閉ざされたままの蒼の瞳が姿を現し、その瞳がこれでもかという程に見開かれる。
「ニニっ――!!」
それは悲鳴にも似た声。
老狼の叫びで泣きじゃくるニニが顔を上げた頃には、老狼は駆けていた。
「ニニっ! これは一体……」
ヴィヴィの傍らに立ち、彼女の胸に居るニニを見下した老狼は言葉を失う。
ニニの服には時を食んで黒く変色した赤と、乱れに乱れた髪。
それだけで、老狼には何があったのかを察した。
一方のニニは老狼の姿を視界に認め、無意識に彼女の方へ手を伸ばす。
「……お、ばば……さま……」
すでにくしゃくしゃの顔が、さらにくしゃりと歪む。
ひっくひっくと言っていた嗚咽が、泣きが深まったゆえか、ぜえぜえと喘鳴が絡む。
「……っ、おばっば……さまっ……」
老狼がニニへ顔を寄せるなり、ニニは夢中ですがりついた。
「ニニや、もう大丈夫だからねぇ。安心おしいよ」
そう言いつつ、老狼はすがりつくニニを前足で引き寄せ、細かく彼女の身体を確認していく。
目で見て、触れ合う箇所から気を流し、その巡りを確かめて、ようやく老狼は安堵することが出来た。
その間ニニはずっと泣きじゃくっていた。
先程までの比ではない泣き声に、老狼はよしよしと、あやすように自身の尾でニニの背をさする。
そのすきにヴィヴィは、ニニと老狼の間からするりと身体を引き抜いた。
「この子は老狼殿にお任せしても?」
「ああ、任せな。――礼を言うよ、王……」
礼を言うべく顔を上げ、老狼は目を見開いた。
「……王よ、その身体は――」
絶句。まさにそれだった。
立ち上がった幼き姿の精霊王は、老狼の視線を受けて困ったように笑う。
肘から先の片腕はとうになく、頬には亀裂が走り、立ち上がった際に衝撃で足の一部が崩れ去った。
それでも、まだ立ち上がれる。
「心配には及びませんよ。これは形代であり、本体は別にありますから」
「けど、それじゃ……」
「……ええ、そうなのですよね」
ヴィヴィと老狼が同時に視線を向けた先には、紅の華が誇らしげに咲き誇っていた。
「この器ではもう、あの結晶の華の対処は――」
結晶の華に絡んでいる想いの全てを解けたわけではない。
そこに囚われたままの同胞は、未だ苦しさに喘いでいる。
本体はこちらには喚べない。
精霊界から王は出られない――それは古き時代から定められた決まり事。世の理。
絶大な力を有する王は、精霊界を支える大樹を支えている存在。
端的に言ってしまえば、大樹の養分たる存在。王なしでは大樹は枯れ、大樹なしでは精霊界は潰える。
だから、本体は喚べないのだ。かといって、新たな形代を造る時はないだろう。
これは完全に詰んだ状況。
思わずヴィヴィが残った手を握りしめる。
瞬間。ぱきっ、と。手に新たな亀裂が走った。
瑠璃の瞳を伏せ、その手を見つめる。
「……王だからと、私自身奢っていたのでしょうか」
自嘲気味な笑みが彼女の口の端にのったとき、ちらと視界に何かが掠めた。
釣られるようにぽっかりと開けた天井を見上げる。
いつの間にか空を厚い雲が覆い、そこからしとしとと――。
「……祈りの、雨――」
光の雨が降り落ち始めていた。
その一滴がヴィヴィの手に落ちると、雨は粒子に砕け、亀裂を覆っていく――。
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