閑話 隣で生きてくこと


「――穿て」


 その声を合図に、フウガの肩に留まっていたばななは姿形を風に溶かし、その身を風刃に変じてそれを穿った。

 その様をねずみのジルは呆けるように、猫のシオは感嘆するように眺める。

 そんな彼らの様子をフウガは面白そうに見やった。


「これで奥へと進めるだろう。おっと、足下には気を付けろ」


 フウガ達の行く手を遮っていた紅魔結晶あかまけっしょうは砕け散り、屋敷の廊には、その破片が紅の煌めきを弾きながら散らばる。

 猫の足のままで廊へと踏み出そうとしていたシオは、フウガの一言に足を引っ込めた。

 しばし破片を見つめて悩んでいた彼女は、やがて瞬きひとつの間で少女の姿へと変じた。

 これならば、靴とやらで足は守れる。

 人というのはよく考えられている生き物なのだなと、シオは妙な感心を抱いた。


「――それにしても、ここまで範囲を広げてるなんてな」


 同じく少年の姿へと変じたジルが、魔結晶の破片が散らばる廊へと一歩踏み出した。

 彼の頭には、シオがずっと持っていたターバンが巻かれている。

 ジルはじゃりと音を立てながら足を出す。怪我の心配はなさそうなことを確認すると、シオを一瞥した。


「大丈夫そうだ」


 当たり前のようにシオへ手を差し出すジルに、彼女はなんのつもりだと訝って、その手と彼の顔とを交互に見やる。

 彼女のカッパー色の瞳が、意味がわからないと語る。


「いや、お前まだ、その姿には不慣れだろうかと思って」


「……不慣れって」


 ぱちくりとカッパー色の瞳が瞬き、シオは己の姿を見下ろした。


「この可愛かわゆい人の女の子の姿のこと?」


 そして、もう一度ジルを見やって、小首を傾げた。

 肩で揃えた金茶の髪がさらりと揺れ、左耳の耳飾りはしゃらんと音を奏でた。


「……まだ感覚掴みきれてねぇかと思って。そんな足剥き出しの服だと、転んだ時に怪我すんだろ。……てか、なんでそんな短いズボンなんだよ」


 いろいろ目のやりどこに困んだろ。

 と、彼の頬はどうしてかほんのりと朱に染まっていた。


「町中で見た、人の女の子を参考にしてみたんだけどね。ティアのスカートよりかは動きやすくていいかなって」


 シオは特に気に留めることもなく、すらりとした自身の足を見下ろす。

 人に化ける際は、それが人というものなので、特に不思議に思わず衣類も含めて化けているが、少し窮屈過ぎる気もするのだ。

 人の心理的には服は着ていないと駄目らしいが、猫である自分にとってはもともとそのままである。

 ならばいっその事――シオが顔を上げる。


「ねえ、ジル」


「ちょっと待て、ダメだ。それはダメだと思う」


「……あたし、まだ何も言ってない」


 カッパー色の瞳が不機嫌にきらめく。


「言わなくても、なんか嫌な予感すんだよ」


「変なことじゃないわよっ。あたしは猫だし、人の価値観じゃなくてもいいと思って、服はなくて――」


「服は着ろっ!!」


 ジルの叫びが廊に木霊した。


「いいか、シオ。人は脆いんだ。怪我から身を守ったり、寒さから身を守ったり、まあ、その……いろいろあんだよ」


「でもあたし、魔族だよ。怪我しても多少なものならすぐ治るし、寒さにも暑さにも耐性は人よりあると思う」


 必死に言い募るジルを、シオは心底不思議そうに眺める。

 なにをそんなに必死になる必要があるのだろうか。


「だからな、なんて言えば……」


 やがてジルが途方に暮れる。

 困り果てた紅の瞳が、彼らへ背を向けたフウガを見やった。

 フウガの肩が震えている。あれは絶対に面白がっている姿だ。

 紅の瞳が半目に据わる。


「フーウーガー」


 ジルの這うような低い声がして、ようやくフウガは振り返る。

 振り返りざまに、彼が目元を拭ったのをジルは見逃さなかった。


「あー面白かった。さて、猫の嬢ちゃん」


 呼ばれたシオは、胡散臭そうにフウガを振り向く。


「お前さんは、ジルの隣で生きてくって決めたんだろ?」


「もちろん。あたしは大精霊様からジルを頼まれたし、ジルを捕まえてなきゃいけないし、なにより、あたしがジルをもう離さないって決めたんだし」


 自分よりも高い位置にある枯れ葉色の瞳を見上げ、シオは迷いなく言い切ってみせた。

 フウガは嬉しそうに目を細め、ジルは頬を朱に染める。


「――なら、猫の嬢ちゃんも人の世の範囲で生きてくことを身に付けな。ジルは、これからも人の世の中で生きてく奴だ」


 はっと、目を見開いたシオがジルを振り返る。

 じぃと彼女に見つめられ、ジルはたじろぐ。

 どきどき、から、どきんこどきんこ、と妙な高鳴り方を鼓動がし始めた時、シオはそっと口を開いた。


「……そっか。隣で生きてくって、そういうことか」


 一人で頷きながら、シオは廊へと足を踏み出す。

 慎重に魔水晶の破片へ足を下ろし、廊の奥へと歩いていく。

 フウガもその後に続き、ややして、ジルもようやく動き出す。

 その際に、前を行くフウガが肩越しに振り返り、茶目っ気に片目を瞑って見せた。

 うまくいったなとでも言いたかったのだろうが、ジルはその顔がどうしても気に入らなく、急ぎ足でフウガと距離を詰めて横に立ち並ぶと、思いっ切り彼の横腹を肘で突いてやった。




   *




 ばななが廊を占める魔結晶を穿ち、危険がないかをフウガが確認したのちに、ジルとシオが続く。

 それを繰り返して歩き進み、廊を曲がること幾度目かの頃。


「……この辺りだと思う」


 ジルが言葉をこぼした。

 立ち止まり、フウガは肩越しに彼を振り返る。

 ジルは辺りを見渡し、何かを必死に探し始めた。

 廊の窓から射し込む日は、いつの間にか暮れの色になっていた。

 魔結晶の紅の色のきらめきが深くなる。


「ダメだ。壁も床も結晶に覆われて、その向こうに扉があってもみつけらんねぇよ」


 そう言って、ジルは天井を仰ぐもやはり目当てのものはなかった。

 ジルがあの部屋から伝って脱した配管の類いも見えやしない。がっくりと肩を落とした。

 その肩にシオの手が置かれる。


「ジルは音とか匂いとかはダメ? あたしは人の身体に馴染んでないからいまいちなんだけど」


 顔を覗き込んで来た彼女に、彼は静かに首を左右に振る。


「俺は姿関係なく音も匂いも拾えるけど、魔結晶が感覚を鈍らせてるのか使えねぇ」


 しばしジルとシオは顔を見合い、ふたり揃って嘆息を落とした。


「……同じ魔族だもん。確かに助けられるなら助けたいわよね」


「でも、この魔力の濃さだ。もしかしたら――」


 もう、手遅れかもしれない――との言葉は飲み込んだ。

 あの時は自分のことで必死だった。

 だから、送り出してくれたことに勇気づけられて、やれることをやれたような気もする。

 そして、自分の事に一段落すれば、やはり気になってきて仕方がなかった。

 彼らは――クッションは大丈夫なのだろうか。

 ちりりと焦らすような、嫌なそれが迫る。

 と、そんな時だった。


「ジルの記憶を頼りにすんなら、この近くに空間がありそうだ」


 フウガの声がふいにし、ふたりは視線を向ける。

 彼は何かに集中しているようで、その場で瞑目していた。

 ややして風が小さく鳴く。


「――ほう」


 風はフウガの肩口で小さく渦巻き、真白の小鳥の姿を顕現させた。

 フウガは枯れ葉色の瞳を覗かせ、ジル達を振り返る。


「当たりかもしれねぇな。その空間に息を潜める気配が幾つか――この息遣いは、生き物だ」


「……じゃあ、クッションたちは」


「おうよ、まだ生きてる。……この魔力の濃さだが、魔族だったのが幸いしたか」


 フウガの言葉に、ジルの瞳が希で輝く。

 魔力の華が咲いた影響で、屋敷内は既に濃い魔力で満ちていた。

 だから、もしかしたら、という思いは嫌でもじわりとにじり寄っきて。


「こっちだ」


 着いて来いと歩き出すフウガを、ジルはにじり寄る仄暗いそれを振り払うように、彼の後を追うため一歩踏み出した。

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