雨は転じて祈りとなる


 祈りを絡めた雨は、その質を転換させ、光の雨と共に燐光を伴って降り落とす。

 どたっ。一気に脱力し、シシィとティアはほぼ同時に座り込んだ。

 後ろに手を付いたシシィは、息が上がりながら隣のティアを振り向く。


『こんなに全力で力を発動させたのは初めてかも』


『私は初めてってわけでもないけどね』


 頬を伝う汗を手の甲で拭いながら、ティアは疲労が滲む顔で笑った。

 ティアが全力で力を発動させたのは、海街で風の声を捕え引き寄せられた時だ。

 あの時は必死で全力だった。

 怪我のせいもあったのだろうが、その後は疲労困憊となり、危うく――な状況に陥ったのを思い出す。

 そして芋づる式に、唇に触れた感触のあれこれを思い出し、慌てて頭を左右に振って振り払う。

 頬が熱い気がするのは、疲れによる上気だけではないように思え、かっと瞬的に熱が弾けた。

 思わず手で顔を扇ぐ。

 控えめな風が心地よく、緩く息を吐き出した――それがいけなかった。


『ルゥ、もしかして熱でも……?』


 心配そうな声がすぐ傍からしたかと思えば、ひんやりとした感触が額に触れる。

 反射的に身体が強張り、目の前にシシィの顔があると気付くと、息を詰まらせた。

 ティアの額に手で触れていたシシィは、熱を取り除こうと手に水の気をまとわせていたのだが、それらしい温度は感じず、勘違いだったかと手を下ろす。

 が。


『――……ごめん。これは不可抗力』


 ティアの頬が染まり、彼女が息を詰まらせていることに気付き、そっとシシィは距離を空けた。


『その、疲れから熱でも出たのかなって、思って……』


『……うん、わかってる。大丈夫』


 頬の熱を逃がそうと、ティアは両手で顔を扇ぎ始める。


『うん、大丈夫。大丈夫よ』


 大丈夫を繰り返すティアを、シシィは不思議そうに見やる。

 彼女はぱたぱたと顔を扇ぎ続けるばかりだが、そこに体調を悪くした気配はない。

 よくはわからないが、言葉通りに大丈夫なのだろう。


『よくはわからないけど、大丈夫ならよかった』


『そう。大丈夫よ、大丈夫』


 彼女は先程からそればかりだなと、シシィはやはり不思議そうに首を傾げた。


 空を覆っていた灰色の雲は、いつの間にか風が流していたようで、シシィがふと空を見上げた頃には、空は藍色に染まり始め、星々が幾つか瞬いていた。

 そこに絶えなく降り落ちる光の雨。

 風が吹き上げれば、比重の小さな燐光は暮れ始めの空へと舞い上げられていく。

 その中を、翅から光の鱗粉を振りまきながら飛んでいく蝶の姿があった。




   ◇   ◆   ◇




 町外れでは、張られた天幕にぽつぽつと明かりが灯り始める。

 間もなく夜の帳が下りる頃合い。

 突然の強風、その後に続いた大雨に慌てはしても、あれ以上の混乱に陥ることもなく、食料もなんとか町中から運び込むことに成功した。

 大雨も降り止んだ今、天幕外のあちらこちらから夕餉の匂いが立ち上る。

 だが、その間にも絶えず降り続けるのは光の雨。

 大雨から急じて転換した光の雨は、既に混乱に陥っていた人々を、さらに恐慌状態へと移しかけてはいたが、魔物に成り果てようとしていた領民を癒してみせた。

 光の雨に触れた刹那、領民から何かが抜け出るのを誰もが見た。

 そして、ぱたりと倒れ込んだ領民を、隊の一人がおそるおそる確認に向かえば、領民は穏やかな寝息をたてて眠っていた。

 その後、多少の倦怠感は訴えるがそれ以外に不調はなく、光の雨が癒してくれたのだと誰もが疑わなかった。

 それ以降、人々が光の雨を恐れることはなかった。というよりも、恐れることにも疲れたのかもしれない。

 しかし、この光の雨何なのだろうかと首を傾げる隊員に、隊に随行する精霊は口にした――これは祈りだよ、と。

 精霊の言葉は未だ判然としないが、それでも、この光の雨はとても優しい感触をしていた。

 ふと、外で雑用をしていた隊員が顔をあげ、瞬く星々に見惚れた時だ。

 その目の前を、光の鱗粉を振りまく蝶が過ぎた。

 なぜ蝶が――と疑問を抱く前に、何処からか破裂音が聞こえた。

 その音は高く細く聞こえ、硝子が破裂する音に似ていた。

 そして、それは町中から聞こえているような気がした。




   ◇   ◆   ◇




 夜の気配に包まれ始めた町。

 燐光が散る中、光の雨の気が、夜の気配に溶けるように浸透する。

 精霊灯にも町を照らすための明かりも浮かび始める。

 この明かりもまた、火元が不必要なそれだ。

 精霊灯の中で踊る光の粒――下位精霊が動く際に発生する微弱な力が、明かりの光源となっているらしい。


『……碌でもないものを思い付くものだな』


 苛立ちや嫌悪を隠したような呟きが響いた。

 精霊灯の上に佇むスイレンが空を仰ぐ。

 絶えず降り注ぐ光の雨――祈りの気。

 周囲を侵していた魔力が鎮められていくのを肌で感じる。

 あの子達は上手くやり遂げたようだ――スイレンの口の端が緩く持ち上がった。


『ミナモ、準備は』


『ばっちりですっ! すーさまに喚ばれた時に通ってきた道は確保してますし、みんなはもう、道の前で今か今かと待っている状態ですっ!』


 びしっ、と決まりのいい音が聞こえそうな勢いで、ミナモは騎士の敬礼を真似た礼をする。

 スイレンは小さく苦笑を浮かべながら、そうか、とひとつ頷いた。

 彼の隣で飛んだまま待機するミナモは、いつでも来いとばかりに意気込んでいる。

 彼女の水面みなも色の蝶の翅が、淡い色を帯び始めた。

 翅が動く度に光の鱗粉が振り落ち、ミナモがスイレンの周りを飛び回る度に、光の鱗粉は線を描いて彼女の軌跡を残す。

 スイレンから不可視な力の流れがうまれ、彼の空の瞳が光を帯びた気がした。


『――来い』


 静かな水面に雫が落ち、波紋を広げるかのような響きを持って、スイレンの声がこの地へ道を繋げる。

 瞳に映らぬ不確かな道。されどこちらへと繋がる確かな道。その道の向こうで、喜びに満ちた声を聴いた気がした。

 わっとどこからか湧き出したように、蝶がこの地に喚ばれる。

 光の雨は降り落ち、燐光が舞う中で、幾つもの蝶が飛び交う。

 そして。


『――すーさまのお役に立ち隊っ! 出動準備ですよぉーっ!!』


 突として上がったひとつの号令を合図に、自由に飛び交っていた蝶が一斉にその動きを変えた。

 くるりと一方向へ方向転換する様に、スイレンは背筋にぞっとする何かが感じた。


『おい、ちょっと待――』


 発しかけた声は群がる蝶に見事に呑まれる。

 スイレンの視界は蝶に覆われるどころか、彼の姿さえ蝶に群がられて確認出来ない。

 彼はごっそりと蝶にマナを持っていかれる感覚がした。否、これは吸われるという感覚に近い。

 そしてまたひとつ、号令が飛ぶ。


『すーさまのお役に立ち隊っ! 出動ぉぉーーっ!!』


 しゅばっと、やけにキレのいい動きで、瞬時にスイレンに群がっていた蝶らは離れ、これも見事な分かれ具合で四方に散っていく。

 振りまく光の鱗粉は、先程よりもその色合いを深め、スイレンの気がより濃く絡まっていた。

 四方に散った蝶はあっという間にいなくなり、残されたのは自慢げに胸を張るミナモと。


『……ちょっと待て、なんだ今の。というか、なんかちょっと、既視感あるのは気のせい……?』


 ぼろりとしたスイレンだった。

 髪も服も乱れ、顔には疲労が滲む。

 ごっそりと保有する力を持っていかれ、次の瞬間には、思わず人の成りから白狼の姿へと転じてしまった。

 その毛並みは変わらず、ぼろりとしている。

 この姿ならば、少しは力の消耗を抑えられるだろうが。

 はあと疲れた嘆息がこぼれたところで。


『すーさますーさまっ! どうでした?? みなもちゃん、きちんととーそつというのが出来てましたよね!!』


 スイレンの目線の高さまで高度を下げたミナモが、きゃっきゃっと声を弾ませ、彼の空の瞳を覗き込む。


『……それはあの、お役に立ち隊っていう妙な名の隊のこと?』


『妙とは失礼しちゃいますね。この頃すーさまが喚んでくださらないから、いざという時のために、ゆーし、というものをつのって、みなもちゃんがここまでまとめ上げたんですからねっ!』


 どーんっ、と。ミナモはこれでもかと胸を張り、張りすぎて身体が反れる程に張る。

 さあ、褒めてくれてもいいんですよ。そんな彼女の声が聞こえてきそうだ。

 スイレンはげんなりと脱力し、気怠げに前足でミナモを払う。


『あ、そんなひどい……』


 追い払われたミナモは、がっくりと肩を落としてスイレンの前から退いた。

 それを見送ったスイレンは、深呼吸をして気持ちを切り替える。

 ここからが己の出番だ。

 場は――整った。

 瞑目し、己が内を意識する。


『――』


 スイレンの白の体毛がなびき始めた。

 彼から立ち昇る不可視の力の奔流が、陽炎のようにゆらりと風景を揺らめかす。

 絶えず降る光の雨が、スイレンに落ちては燐光を散らす。

 ミナモが息を呑むように見守る中、スイレンの空の瞳が開かれる。

 その瞳が刹那に光を帯びたかと思えば、不可視の何かが迸った。

 スイレンが佇む精霊灯を起点に、次々に精霊灯を包む硝子は割れ、その破裂音は連鎖する。

 そして、囚われの精霊らが解き放たれたのだった。

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