地に鎮めを
あれほど荒れ狂っていたというのに、雨がしとりと降り始めると、風は凪をまといお淑やかに吹き抜けた。
おかげで雨はしとりしとりと、上品に降り落ち始める。
それは、舞台の主役が風から雨へと変わった瞬間でもあった。
しかし、しとりしとりと降る雨の中で佇むシシィの顔は難しげに歪む。
風が引き連れた来た雨雲を見やる碧の瞳は、まるで挑むかのように睨んでいた。
『……さすがは母上って、ところなのかな』
母の力へ意識を傾けるだけで、ぴりとした強者ゆえの痺れを感ずる。
しとりと一見優しげにシシィへと降り落ちる雨だが、彼が片手をそっと持ち上げ、僅かに力を解放するだけで、それに触れた雨は拒むように雨粒を砕く。
微かだが確かな力の反発が、淡い光となって燐光を散らした。
そして、途端に雨は色を変える。
しとりしとりと品よく降っていた雨が、一転してざあと勢いを増して降り始めた。
それは文字通りに土砂降り。
石畳の道にまだら模様を描くだけだったのが、瞬時にその色を濃いそれへと変える。
シシィと、その傍らで様子を見守っていたティアの服は、あっという間にびしょ濡れとなった。
ティアは自分らの周囲に築いていた風除けの障壁を頭上へと展開させ、風の傘が彼女らへ降り注ぐ雨を遮る。
『シシィ……』
気遣わしげにティアがシシィを見やるも、その先の言葉は見つからず、石畳らを激しく打ち付ける雨音だけが、そこに横たわった沈黙を埋める。
碧の瞳が動いた。ちらりとティアを一瞥し、濡れぼそった彼女の服が目について、微弱な力がシシィから迸った。
瞬。ティアの服や髪から水気が弾け飛び、さらりと乾いた感触が彼女を包む。
次いでシシィは黙したまま、今度は力を自身に傾け、同じように水気を飛ばす。
乾いた自身の服に触れて、シシィはやるせなく嘆息をひとつ落とした。
『母上の力に干渉しようとしたら、力の格の違いから弾かれて、雨まで機嫌を悪くさせちゃった』
風の傘から止め処なく滴り続ける大粒の雨を、意味もなく見つめる。
今もなく降り続ける雨は、雨のままだ。
この地に雨が降り落ちても、シシィの母である精霊王の力が絡んでいなければ、浄化の作用はうまれない。
その精霊王の力は今尚、灰色の雨雲に残されたまま。
どうしようかと、途方に暮れたようにシシィは細く息を吐き出した。
『支配下に置く必要は確かにあるけど、でも、力任せにじゃなくて、シシィ自身で引き連れるようにしてみたら……?』
『僕自身で?』
ティアを振り向いた碧の瞳が、怪訝に揺れる。
『でも、僕と母上だと格が違うくて反発に負ける』
その結果がこの土砂降りだ。
悔しげに目を伏せる。
『……今度は僕がしっかりする番なのに』
情けなさが声に滲み出て、それ以降は口を引き結んで言葉をつぐんだ。
ざあと絶え間なく聞こえる、雨が地を打ち付ける音。それが耳に残って反響するようだ。
そんな時。ふいにシシィの手がぬくもりに包まれた。
伏せられていたシシィの顔が自然と上向き、己よりもやや低い位置にある琥珀色の瞳とぶつかる。
ティアはシシィの手を包んだまま持ち上げ、元気づけるように明るく笑って見せた。
『力任せじゃなくて、シシィの力を精霊王様の力に絡ませるの』
『でも反発――』
『だから、従えるんじゃなくて連れてくのよ。ここだよって、教えてあげる感じにさ』
『………………それって、誘導する、みたいな……?』
小首を傾げるシシィに、たぶん、とティアは頷く。
ここまで来ると、随分と感覚的な話になってしまう。
『あなたと精霊王様は親子なんだもん。持っている力の波長は似てると思う』
シシィはぽろりと目から何かが零れ落ちた気がした。
どこかで聞いた目からウロコとはまさに。
『僕は従えようとして母上の力に干渉したけど、それは格というのを上回れるほどの力量を持っていればの話で』
『そう。力不足は力不足なりのやり方がある』
ティアがシシィの手をぐっと強く握った。
『従えるんじゃなく、誘導するんだ。……そうだよね。支配下に置くっていうのは、なにも従えるだけじゃないもんね』
碧の瞳が琥珀色の瞳を見やって小さく笑う。
*
風の傘から抜けたシシィを、空から降りしきる雨が瞬く間に濡らす。
肌を滑る水滴にから滲んでくる微かな苛立ちを感じ、シシィは薄く笑った。
容赦なく冷たく突き刺す雨粒。なるほど、随分と嫌われたものだ。
『そうだよね。ようやくこの地に連れて来てもらったのに、あんな扱いをされたら、いくら君達でも気を悪くしちゃうよね』
苦く笑いながら、シシィが空を仰ぐ。
申し訳無さそうに碧の瞳を細め、彼は降りしきる雨を据える。
『……ごめんね』
小さく、ささやくようなその声は、降りしきる雨の音に呑まれた。
しかし、途端に雨はその雨足を弱める。まるで怯んだように。
手を差し伸ばした彼に、雨が戸惑いを見せた。
容赦なく彼を打ち付けていた雨が、ぽつぽつと小雨になる。
『僕、焦っちゃってたみたい。大切なのは、君達と仲良くなること』
空を仰ぐ彼の頬に、優しげに雨が雫を落とす。
そこから滲む雨の気に、碧の瞳が小さく見開かれた。
ふっと息を詰め、彼は顔を綻ばせる。
『僕と、仲直りしてくれる……?』
今度は雨が息を詰めたようにふつりと降り止み、やがて、しとしとと降り始め、そして、しとりしとりと機嫌よく降り落ち始める。
シシィがティアを振り返る。
やったよ、と拳を突き出すシシィの頬は喜色で染まり、嬉しそうに笑う彼の顔に、不覚にも胸が鳴ったティアだが、彼女も嬉しさから拳を突き返した。
水の精霊でもないティアでも、雨の機嫌の良さは伝わってきた。
なんだか、心が弾む雨音だ。
ティアはそっと目を閉じ、風に呼びかける。
『あなた達も一緒に楽しみましょ』
地を打つ雨が穏やかな音を奏でて拍を刻む。
そこに控えめな風の音が溶け込んだ。
ティアの言葉を受け、風も雨の機嫌にノることにしたらしい。
控えめな風音が、ややして楽しげなそれに変わった。
そして、ティアも風の傘から抜け出てシシィを振り向く。
困惑した様子で首を傾げるシシィに、何だか楽しくなってきたティアは手を差し伸ばした。
『シシィも踊りましょ』
『踊る……?』
『そう。あなたにはまだ、やることがあるじゃない』
『それは、まあ、そーだけど』
今はまだ、雨が降っているだけの状態だ。
ここから精霊王の気を絡め、鎮めの雨にしなければならない。
なのに、それがどうして踊ることになるのか。
シシィにはさっぱりティアの意図がわからない。
なのだが、雨がせっつくようにシシィへ打ち付けてくるのだ。
それを鬱陶しげに軽く睨めば、雨はさらに強く打ち付ける。
さらにそこへ、風が雨に勢いを付けさせ打ち付けてくる。
『……僕にもノッてってことなの?』
『そうなんじゃない?』
ティアがくすりと笑い、雨と風を代弁するように応えた。
『でも僕、ルゥが言うみたいに次にやることが――』
『そう言わずに、さあ踊りましょ』
ティアに手を引かれ、シシィの身体は傾ぎたたらを踏む。
何とか転ばずに済んだが、ティアに両手を繋がれ、シシィは彼女と共にくるくると回る。
踊ると言っても、互いに両手を繋いで、その場でくるくると回るだけの、踊りとも言えない幼稚なそれだ。
それでも、彼女はどうしてか楽しそうで、始めは不服げだったシシィも、いつの間にか笑っていた。
ふたりはもうびしょ濡れだったのだが、それに構わずに笑い声を響かせながら回る。
やがて、彼らの足下から光が溢れ出し始めた。
雨の刻む拍に合わせ踏み鳴らす足音。
足を踏み鳴らす度に光は溢れ、雨の拍に絡んで吹き抜ける風が、その光を空へと舞い上げていく。
そこで初めて、シシィがその光に気付いた。
『えっ』
足が止まり、呆然と光を見上げる。
雲によって辺りは薄暗い。
舞い上がっていく光が、ぼおとシシィとティアを照らしては登っていく。
シシィが呆けた様子でティアを見やった。
彼女が笑って頷く。
『シシィなら大丈夫』
その言葉に背を押された気がして、何故だか泣きたくなった。
今が雨降りでよかったと思いながら、シシィは雨を見上げて目を閉じた。
『僕に協力してくれるかな』
問うような声音に、雨が震えて応える。
シシィから不可視な力が迸り、舞い上がっていた光が大きく膨れ上がったかと思うと、りぃんっ、と澄んだ音を響かせてあちらこちらで弾けた。
燐光が散り、新たにシシィから溢れた光を伴って空へと登っていく。
そこへ。
『私も手伝うわ』
ティアの想いに応えるように、風が空に舞う光をさらって吹き広げた。
そして――。
『――地に鎮めを』
シシィとティア、ふたりの声が重なる――それが、雨が祈りをまとった瞬間だった。
ぽろろん。ぽろろん。弦を爪弾くような音が響き、雨がその質を転換させた。
光の雨が、燐光を散らしながら降り落ちる。
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