閑話 風の向かう先
精霊界と重なるように位置する、精霊らが“外”と表する側の精霊の森。
緑を茂らす木々は風に揺れ、陽を透かして木漏れ日を落とす。
その木漏れ日の中を光の粒が泳ぐ。
気持ちよさげに追いかけっこをするのは下位精霊であり、きゃっきゃと楽しげに淡く明滅をしながら通り過ぎて行く。
穏やかな時が流れる常の森。
だが、そこにいつもとは違う何かを感ずる者がいた。
森のひとつの木がかさりと揺れる。
枝にばさりと舞い降りたのは一羽の鳥。その後に続き、もう一羽が舞い降りた。
淡い黄の色に身を包む二羽の鳥は、留まる枝から尾羽根を垂らす。
風が吹き抜け、優雅に彼らの尾羽根を揺らした。
『シマキ、どうかしたの? 急に精霊界から“外”へ行くんだから、驚いたわ』
シマキと呼ばれた彼は、頭部から背へと流す飾り羽根を風にそよがせながら、ゆっくりとその頭を空へと向ける。
枯れ葉色の瞳を細める様はどこか険しくもあり、シマキを見つめる彼女に漠然とした不安を抱かせた。
『ねえ、シマキ……?』
不安で揺れる声が彼を呼ぶ。
だが、彼は彼女を見ようとはしない。
ただ険しい瞳を空へと向けるだけ。
そんなシマキに、彼女は諦めたように嘆息をもらした。
始めから期待などしてはいなかったけれども。
『そうよね。あなたって、昔からそうだものね』
口数が少なく、感情に乏しい。それがシマキだった。
所用があるからと、子を見ていてと頼めば、文字通りに子を見ているだけの精霊だった。
だから子が何処へ行こうと、そこが子にはまだ危険な場所であろうと、シマキはそのあとを追うだけであり、見ているだけ。
父親としての自覚が乏しいのかと、母親として、番として何度悩んだことか。
『……シマキ、精霊界へ戻りましょう』
彼女が促してみるも、シマキからの反応はない。
さすがの彼女も苛立ちが募り始める。
『ねぇ、シマ――』
『……風が』
シマキが声をこぼした。
ようやくの反応らしい反応に、彼女はまた嘆息をもらしてしまう。
『風がなに?』
『風が騒いでいる』
『どういうこと……?』
問うてみたが、期待通りにシマキからの返答はない。
彼女の琥珀色の瞳に苛立ちが滲むが、それは瞑目をしてやり過ごす。
重い息を吐き出し、気持ちを落ち着けてから、彼女も風へと意識を向けてみた。
シマキの言う、風が騒いでいるとは一体――。
そこで彼女の思考は停止した。
――呼んでくれたって。
――あの子がようやく、呼んでくれたんだって。
――大切なあの子が呼んでる。愛しいあの子が我らを呼んでる。
――行こう、あの子の元へ。ティアの元へ。
疾風が幾つも森を駆け抜け、木の葉を巻き上げながら、彼女達の目の前を通り過ぎて行く。
飾り羽根と尾羽根を大きく攫われながら、彼女はシマキを見やる。
彼を見つめる琥珀色の瞳は、驚愕と言い知れない不安とで大きく見開らかれていた。
『シマキ……今、ティアって……ティアって言ってたわよね……?』
シマキは顔を伏せ、何やら真剣に考え込んでいる様子。
『……ねぇ、シマキ。シルフ様から何か聞いてる……?』
彼女が言い募るも、シマキは彼女に振り向きもせずに。
『スフレ、精霊界に戻る』
それだけ言い置くと、自分はさっさと精霊界へ戻って行ってしまった。
しばし、スフレはその場で呆然とする。
置いて行かれた。その事を認識するのに少しだけ時間を要した。
そして、琥珀色の瞳に怒を仄かに滲ませると。
『あとで風穴あけてやるんだからっ!』
嘴を光らせ、シマキの後を追った。
しかし、精霊界へと戻る直前、スフレは一度風へ振り返って瞳を揺らした。
どうして、風が娘の名を。
スフレの瞳に動揺が広がった。
ティアとは、スフレとシマキの娘の名だ。
*
スフレも精霊界に戻り、シマキを追った先で着いたのは、精霊王の居となっている大樹だった。
湖を四方に囲われた浮島に根を下ろし、見事な樹冠を広げる大樹。
ざわざわと低く重く響く葉擦れの音に、木の葉を湖に落として静かに湖面を揺らした。
大樹の太い幹に穿たれたうろから、白狼が顔を覗かせる。
既にシマキは浮島へと降り立ち、顔を出した王に頭を垂れていた。
スフレも慌ててシマキの隣に降り立ち、同じく頭を垂れる。
静謐な空気が流れる中、王の下草を踏む音がその空気を震わす。
樹冠が落とす木漏れ日は、王の持つ“白”を、より引き立たせるように白銀にきらめかせる。
王は頭を垂れる二羽の前に腰を落ちつけると、面を上げるように声をかけた。
『どうかしたのですか?』
凛とした声は、自然と二羽の背筋を立たせる。
スフレは失礼にならない程度に、周囲へ視線を走らせた。
いつもは王と共に姿を現す彼がいない。
彼は王と番であり、課せられた役目がない時分は、王の傍に控えていることが多い。
その彼の姿がない。常に傍に控えているわけではなく、姿がないことも決して珍しいわけでもない。
なのに、言い知れない不安が、スフレの胸中に影を落とす。
『……失礼ながら、精霊王様』
こわごわと、スフレが王へと問う。
琥珀色の瞳は真っ直ぐに王を見上げた。
『スイレン様のお姿がないようですが、お役目に?』
王の瑠璃の瞳が僅かに細められた。
その僅かな変化だけで、スフレは口内が乾いた感覚に陥る。
『スイレンは役目で不在です。彼に用があったのですか? スフレさん』
『……失礼致しました。スイレン様に用があったわけではないのです。ですが、少々気になることがあり――』
小さく頭を下げつつ、ちらりとシマキへ視線を向ける。
王の視線がシマキへと移ったのを察し、スフレは視線だけで彼へと訴えた。
が、当のシマキはスフレの視線に気付きながらも、その嘴を開こうとはしない。
スフレが静かにだが、嘴をぱくぱくと動かし、何か言いなさいよ、と彼を急かす。
が、やはりシマキは動かない。
そろそろスフレも我慢がならなくなってきた頃。
ふっ、と小さく笑いをもらす声がし、周囲の空気を穏やかなそれに変えていく。
『お二方はお変わりありませんね』
片前足を口元に添えながら、王はころころと笑う。
スフレは驚いたように王を凝視し、はっと失礼に気付いて顔を伏せた。
そして、己の行動が笑われているのだと半瞬遅れで気付き、羞恥で頬に薄ら熱がのった。
『――改めて訊ねますが、どうされたのですか?』
先程よりも幾分和らげた声音で王は問う。
瑠璃の瞳も和らげなそれであり、シマキを真っ直ぐ見下ろす。
緊張も不安も薄れているのを自覚しながら、スフレもシマキを見やった。
彼は何が目的で王の御前にやってきたのか。それはスフレにもわからない。
優しげな風が彼らの間を通り抜け、木漏れ日が揺れれば、湖面をきらきらときらめかせた。
その中でシマキの枯れ葉色の瞳がゆっくりと王を見上げる。
そして、シマキは丁寧な所作で頭を垂れた。
『“外”へと――かの地へと向かう許可をいただきたく』
和らいでいた瑠璃の瞳に、剣が差す。
『かの地とは――?』
『それは王がよくご存知のはず』
王の険しい眼差しがシマキを見下ろした。
話の行方がわからないスフレが出来るのは、ただ、静かに事の成り行きを見守ること。
『かの地がどのような地かは』
『存じております。弟であるシルフより』
『ならば、目的は』
そこで、シマキが静かに顔を上げて王を見据える。
『――娘の』
スフレの吐息が震えた。
『娘の心配をしない親ではないということです』
シマキがちらりとスフレを見やる。
そして、枯れ葉色と琥珀色の瞳の二対のそれが今度は王を見やった。
『私からもお願い申し上げます』
二羽は共に頭を垂れ、王へと懇願する。
そんな二羽を見下ろし、口を開こうとした王が、刹那に動きを止めた。
瞬的に瞑目するも、すぐに瑠璃の瞳は二羽を見やった。
『わかりました。なれば、お行きなさい』
二羽が同時に顔を上げる。
枯れ葉色の瞳は静かに目礼するのみで、すぐに身を翻して浮島を飛び立った。
羽ばたきで湖面が揺らぐ。
あまりの流れるような動きだったために、スフレは思わずシマキを見送ってしまう。
『――……って、ちょっとお!?』
突然のことに上げてしまった声を慌てて抑え、スフレは急いで王へと平伏した。
『シマキが失礼を……!』
『そう畏まる必要もないのですけど』
くすくすと苦笑する王に、スフレが恐る恐る顔を上げる。
『ですが……』
『それよりも、良いのですか?』
『なんの――』
ことですか、のスフレの言葉は飲み込まれた。
王の瑠璃の瞳が遠くを見やり、彼女の視線が空へと向いていることに気付くと、スフレも空を振り仰ぐ。
そして、仰いだ空に淡い黄の点をみつける。
ああ、もうあんなに小さく――。
『って、シマキっ!』
スフレは勢いよく振り返り。
『これにて御前失礼しますっ』
と、軽く目礼だけすると、そのまま慌ただしく飛び立って行った。
王への礼節など、既に頭にないような軽々しさだった。
次第に小さくなっていくスフレを見送りながら、王は楽しげにころころと笑う。
飛び立った二羽の後を追うように、王の後方からは一陣の風が吹き抜け空へと抜けた。
ざわざわと大樹が身を揺するのは、さながら鼓舞のようにも思える。
しかし、湖面には映る白狼は神妙な面持ちだった。
『各々の向かう先、その終は――』
◇ ◆ ◇
『各々の向かう先、その終は――』
紅の華を咲かす魔力の華。
その花弁に静かに佇む幼子が、ぽつりと言葉をこぼした。
魔力の華から絶えず漏れ出る花粉さながらの魔力により、周囲の魔力濃度は高まるばかり。
その影響で瞳に映る景色は、陽炎の如くに時折揺らめく。
『私は私の向かう先へ』
幼子の瑠璃の瞳が足下の華へ向けられた。
靴越しにも感ずる同胞の気配。
そこに絡まる想いを、ひとつひとつ丁寧に紐解いていく。
力の奔流が湧き上がり、幼子の左右に束ねられた髪が翻った。
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