雨は地へ降り落ちる
町外れ。本来ならば町中よりも漂う魔力は濃く、滅多なことでは領民でも町から出ることはないという。
なのに、今は妙な状況だった。
町中よりも町外れの方が魔力が薄いのだ。
町外れに簡易的な天幕を騎士らが設置し、町から避難して来た領民らはその中にて、不安を抱きながらも身を寄せ合っている。
外では騎士隊が濃度の変化に常に気を配り、場合によってはすぐに移動出来るよう準備をしていた。
周囲の魔力濃度は、騎士隊に同行している精霊達が調整をしてくれている。
彼らは隊員と結ぶ精霊達で、同行しているのは全て中位以上だ。
下位精霊ではおそらく壊れてしまう。そう言ったのは精霊王だった。
それは実際に地を訪れ漂う魔力を感じ、精霊と結ぶ隊員らは納得した。
そして同時に、精霊灯の真実にも気付いてしまった。
だから、彼らは精霊灯を使う手段は選ばなかった。選べるはずがなかった。
初めに気付いたのは、隊員と結びを得て同行していた精霊のひとりだった。
『風がはしゃいでる』
その精霊は風の精霊だった。
結び相手である魔法騎士が、どうしたのか、と問えば。
『風が嬉しいって言ってるの』
精霊はそう答えた。
魔法騎士が訝しげに眉をよせた瞬間、風がその場を駆け抜けた。
突風は乾いた地表を撫で、砂塵を舞い上げる。
ぴちぱちと細かな砂の礫が天幕の布を叩いた。
あまりの唐突なことに、天幕が吹き飛びかけ、近くの隊員らが慌てて取り押さえる。
天幕内からは領民が怯え、悲鳴が上がった。
そこからひと騒ぎとなる――怯えは連鎖する。
怯えを助長するように風は吹き荒れ始め、怯えから子は泣き出し、大人も口々に不安を口にした。
風の凪が常の土地にて、これほどまでに風が吹き荒れることがあったか。
解。それは久しくなかった。
この地で暮らす者の中で、風を頬に感じる記憶を持っている者など、年配者の中を探してもいないだろう。
その間にも不安は膨れ上がる。
自分達はどうなってしまうのか。これからどうすればいいのか。
いつまでも逃げ続けられるものでないのは、この地に昔から暮らし続ける領民だから知っている。
この地は人が暮らすのに適してはいないのだから。
そして、領民の一人が言う。
「逃げるのならば、精霊灯がなければ。逃げるのに必死で置いて来てしまったが、この先逃げるのならばあれがなければ」
怯えは怯えを呼び、やがて大きな澱みとなる。
一人を皮切りに、他の領民らからも同意の声が上がり始める。
なかには戻ろう、引き返そうと口にする者らまで現れ、騎士隊が慌てて引き止める騒動にまでなった。
そして事態はさらに悪化する。
制しする騎士隊を振り切り、町へと駆けて行く領民が、その途中で足を止めたかと思えば、突として身体が傾ぎ倒れ込む。
ざわり、と。空気が奇妙にざわついた。
騎士隊と揉めていた領民も、それを宥めていた隊員も、同時にその奇妙な空気のざわつきに振り返る。
砂を舐めたような不快なざわつき。
吹き荒ぶ風が砂塵を巻き上げ、視界は不明瞭。それでも不思議と、異様なそれはしかと視認が出来た。
倒れ込んだ領民が起き上がる。
むくり、と。まるで糸に吊られた人形のように。
それだけでも異様な様だったのに、その領民はくるりと振り返ると、ゆらりとこちらへ向かって来る。その足取りはどこかおぼつかない。
そして、その眼は彼らを見ているようで見ていない。どこに焦点を当てているのか、彷徨う眼がぎょろりと覗く。
騎士隊の一人が呟いた。
「……マナに惑わされている」
と。それは、魔物へ成り果てる入口に足をかけたしまったということ。
その場に息を呑む音が広がるも、吹き荒れる風が全てを拐って町中へと駆けて行く。
それを見送りながら、精霊は呑気に呟いた。
『風が嬉しいって叫んでる』
◇ ◆ ◇
文字通り、風は歓喜に震えていた。
やっと呼んでもらえたから。
風が愛しく思う存在が、ようやく呼んでくれたから。
疲れた土地に風を受け入れる余力まではなく、吹き抜けても最後は失墜して潰えてしまう。
ならば、より多くの風を引き連れて勢いよく飛び込もうと、風は己らが愛しく想う存在を、時を費やして喚んだのだ。
だから、さあ、もっと強く
その震えが空気を揺さぶり、風が吹き荒ぶ。
その荒く確かな手応えに、ティアの頬には汗が伝う。
それは緊張のせいもあるのかもしれない。
前の時のような、刹那的な感情を用いて、風を支配下に置いてはいけないのだ。
風の機嫌を損ね、その後が無風の地へ成り変わっては困る。
そう。支配下に置いて御するのではなく――。
『元気すぎる風をあやすのも一苦労ってね』
思わずティアがこぼしてしまった本音に、風が抗議の意で彼女へ強く吹きつけた。
ティアの身体は傾ぎ、まずい、とひやりとした感覚が彼女の背に走ったとき、その背にぬくもりが触れた。
腰に手が添えられ、思っていたよりもしっかりとした腕に支えられる。
『し、シシィっ』
『僕が支えてるから、ルゥは集中して』
耳近くでささやかれ、芯が疼くような妙な心地に晒されて、反射的に身体がふるりと震えた。
しかし、ティアはすぐに気持ちを切り替えて風を見据えると、目を閉じ、再び風へと意識を傾ける。
腰に回された手が、しかと彼女を支える。
そこへ絶対の信頼と安心を置き、彼女の意識は次第に向かい始めた。
様々な情報の波が彼女へ押し寄せ、それらを補助なしに、己のみで読み解いていく。
町を駆ける、喜びに満ちた風。
彼らが様々な事柄をティアへ教えてくれる。
屋敷の中でうごめく人々の気配に、魔力の華に対処する精霊王。
精霊王までおられたのかと、その事にひっそりと驚く。
そしてまた、町外れの出来事を教えてくれた。
魔物になりかけの領民の存在をとらえ、焦燥にじりりと身を焦がされる。
そこに生じた僅かな意識の揺らぎ。その隙きへ風の歓喜に震える声が滑り込む。
ともすれば、己のやるべきことを見失いそうになり、その度に。
『――ルゥ。自分をしっかり
耳近くのささやき声が、ティアをティアたらしめてくれる。
背に触れるぬくもりを確かな寄辺とし、ティアは風を呼び込み続ける。
そして、最後のしかけとして。
『――おいでっ!』
琥珀色の瞳が持ち上げたまぶたから覗き、ティアは声を上げた。
その声を合図に、強烈な大風が砂塵を巻き上げながら、どっと町へと吹き込んだ。
*
シシィの腕の中にティアが倒れ込む。
彼女はそのまま彼に支えられながら、その場にへたりと座り込んだ。
『……ルゥ、大丈夫?』
気遣うシシィに、ティアは大丈夫だとへにゃりと笑って見せる。
正直、彼へ言葉を返す余裕はなかった。
息は上がって乱れ、言葉は発せそうになく、努めて深い呼吸を意識する。
髪が汗で頬にうなじにと貼り付き、少しだけ不快で鬱陶しい。
これではまるで、全力疾走をした直後のようだ。
だが、言い換えれば、風を呼び込んだというのに、疲れらしい疲れはそれだけということ。
これならば、少し休むだけで回復しそうだ。
『心配そうな顔しないでよ。言ったでしょ、今の私は調子がいいって』
心配そうな、不安そうな眼差しで見下ろすシシィに苦笑をもらす。
途端。真摯な顔つきでシシィが口を開く。
『ルゥが大切なんだもん。どんな時だって心配するのは当たり前だよ――っと』
突として悪戯に吹き付けた風にシシィが姿勢を崩す。
時の経過と共に荒々しくなる風に、ティアは一瞬顔をしかめると、自分らの周囲に風の障壁を築いた。
均衡をとろうと懸命になっていたシシィが、ほっとして身体から力を抜く。
『風の元気がいいから、もう町も霞んで見えないね』
『私も、ここまで風が吹き荒れるなんて思ってなかったわ』
砂塵を巻き上げ、絡み取り、視界は霞んで悪い。
だから、空を仰いでもよくわからない。
『……雲が近いのか、私にはわからないわ』
だいぶ落ち着いて来たティアは立ち上がり、シシィの横顔を眺めやる。
空を仰いだままのシシィの目には、何かが映っているのだろうか。
『大丈夫。ルゥの風は雨を運んで来てくれてるよ。むしろ、連れて来てくれたみたい』
『それはどういう……』
瞬間。ティアは唐突に理解した。
弾かれたように空をもう一度仰ぎ、琥珀色の瞳を見開く。
それでも視認出来ない雲。けれども、シシィには見えているのかもしれない。
『……もしかして、私をここへ喚んだのは、ずっとこの地に雨を連れて来たかったから――?』
びゅっ。ティアの築いた風の障壁に、大風が叩きつけられた。
それはまるで、肯定の意のようで。
『そうなのかもしれないね。少なくとも、雨は喜んでるよ』
しっとりとしたシシィの声に振り向く。
彼は空を仰いだまま、手を天へと伸ばす――向けた手の平に、ぽつん、と一滴降り落ちた。
そして、ティアを見やった彼は艷やかに笑う。
『今度は、僕がしっかりする番だ』
ぽつり、ぽつり。雨が降り始める。
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