風は雨を運ぶ
『頭数ならば、なんとかなるかもしれない』
スイレンの言葉にティアが顔を上げる。
町中の浄化について、スイレンを交えて話を進めていた。
その中でやはり問題なのが、浄化範囲に対しての精霊の頭数だった。
スイレンが加わったとはいえ、やはり対処しきれる広さではないのだ。
様々な意見を交わしている間に、退避の列を成していた領民の姿は消え、誘導をしていた騎士らの姿もなくなっていた。
それだけこの地域の魔力伝達が早いのだ。
『この地に、私達以外の精霊がいるのですか?』
『ああ、ずっといるじゃないか』
眉をひそめるティアの顔が、どこにその姿があるのだとスイレンに問うている。
先にスイレンの意図に気付いたのはシシィだった。
『まさか、精霊灯に囚われている精霊のことを言ってるんじゃ』
『そのまさかだよ』
そう言うと、スイレンは離れたところで光を踊らす街灯――精霊灯へ視線を投じた。
同じくそちらへ視線を投じたシシィは苦く言葉をもらした。
『でも父上、このまま解放をしちゃったら、今の魔力濃度だと侵されてそれこそ……』
彼はその先の言葉を紡げなかった。
濃い魔力に耐えられなければ、その精霊はそのまま壊れてしまうだろう。
口を引き結ぶシシィを、ティアは気遣うように見つめてから、少し躊躇いがちにスイレンへ口を開いた。
『……スイレン様には、なにかお考えがあるのですか?』
静かな空の瞳がティアとシシィを見やり、ひとつ頷いた。
『――そこで、俺から提案がある』
提案。スイレンのその言葉に、ティアとシシィは互いの顔を一瞬見合わせ、そして再びスイレンを見やる。
困惑げな顔を二者に向けられ、スイレンは安心させるように表情を和らげた。
『分担をしようか、という話さ。各々の動ける範囲が異なるのだから、ここは適材適所でいこう、とね』
ティアとシシィが同時に首を傾げた。
*
精霊灯の上に立つスイレンの姿。
絶えることなく続くぴりりとした肌の痺れの感覚に、不快げに眉をひそめる。
いい加減鬱陶しい。
『――ミナモ』
凪いだ水面に雫がひとつ落ちるが如く、ぴちょん、と水音がその場に響いた気がした。
そして、瞬きの間ひとつで顕現したのは、背に
人の姿に似ているが、背に蝶の翅を持ち、手の平程の大きさが人ならざる存在だと告げる。
スイレンの前に顕現したミナモは、丁寧な所作で服を模した花弁の端を摘み上げて、軽く礼をしてみせた。
『――お呼びでございますか、主様』
新緑色の瞳がスイレンを見上げた。
が、見上げられた彼は奇妙な物を見るでミナモを見やる。
『……なんだ、その言葉遣いは』
『これが主様の一の眷属としての振る舞いに相応しいかと』
『やめろ、気色悪い』
瞬間、恭しく笑顔を称えていたミナモの顔が崩れた。
崩れるや否や、彼女はぷくうとこれでもかという程に頬を膨らませる。
『なんですか、その言い草はっ! すーさまと言えど、ミナモちゃんは怒っちゃいますよっ!!』
背の翅を羽ばたかせ、ひゅんひゅんとスイレンの周りを飛び交い始める始末。
『近頃、なかなかミナモちゃんを呼んでいただけないじゃないですかっ! だから、ミナモちゃんなりに考えてですね、丁寧な所作というものをひょーさまから教わっているのですよっ!』
『……そこでどうしてヒョオが出てくる……』
『ひょおさま曰く、うるさいこむすめをしつけるきかいだとかなんとか……?』
思わずスイレンはこめかみを抑えた。
言葉の意味をミナモ自身に伝わっていないのが幸いなのか。
だが、そこには同意してしまいそうになるスイレンもいるのが、また悩ましいところだ。
『それよりすーさま。ここはどこなんです? 翅に魔力が絡んで、飛びにくくて鬱陶しいです』
スイレンの周りを飛び回っていたミナモは、彼の前で訴えるように翅を動かして見せる。
あれだけ騒がしく鬱陶しく飛び回っていたのに、その動きが鈍っているようには見えなかったが、彼女が言うのだから、魔力が濃いゆえの影響を受けているのだろう。
『お前を喚んだのはそれだ』
騒がしく訴えていたミナモがぴたりと動きを止めた。
彼女の顔が真剣味を帯びる。
『俺のマナを渡す。この周辺だけでとりあえずはいい、魔力を鎮めろ』
『――つまりは浄化を?』
『端的に言えばそうだ。そのあとは暫く俺と共に待機し、期が来た際に本格的に浄化作業を開始する』
『……まさかですが、この地域全てを……?』
そう言ってミナモは、冷や汗を垂らしながら周囲を見渡す。
だが、すぐに彼女も気付く。
スイレンが立つ街灯の中。そして、町中に点在する街灯も同じものだと。
『すーさまの仲間さまに、なんて罰当たりな……』
幼い風貌の顔を苦くしながら、はたと思い至る。
ばっとスイレンを振り返ると、彼はミナモにしかと頷いた。
『期が来たら、ここの精霊を全て解放する。だが、この魔力濃さでは彼らは壊れてしまう』
『そうならないために、ミナモちゃんがすーさまのマナを繰り、癒しのお手伝いをすればいいのですね?』
スイレンが満足げに口の端を上げた。
『ああ、話の飲み込みが早くて助かる』
『ミナモちゃんはすーさまの一の眷属ですからねっ!』
嬉しさに上気した頬を抑え、ミナモは激しく蝶の翅をばたつけせた。
*
周囲の空気が動いているのが、風の精霊ではないシシィでもわかる。
動きはやがて風になり、風がこの地へと向かって吹き流れる。
その軸となっているのが、ティアだ。
彼女が全てを使って力を解放している。
その余波は、少し離れたところで待機するシシィにも強く当たる程で、びりびりと肌を通して緊張する。
これほどに彼女の力が高まっているのを感じるのは、シシィは初めてだ。
濃密な彼女の気を彼もまた全身で受ける。
ぞくぞくとした悪寒にも似たそれは、彼の中でふつふつと何かを湧かせるのだ。
まるで触発されたように、自身の中で気が高まっているのを感じ、シシィは薄ら笑った。
――分担をしようか。
スイレンのそれをきっかけに、話はすぐにまとまった。
要するに、ティアがこの地へ風を呼び込み、雨を運ぶ。その雨をシシィが全体に降らせ、精霊灯から解放された精霊達に、浄化の一手を担ってもらうというものだ。
風は風の精霊であるティアでなければ呼べないし、精霊の解放はあまりに広範囲が過ぎてシシィでは力量不足だ。
ゆえにスイレンが適任であり、シシィが雨を担うことになった。
けれどもこれは、決して余ったからが理由ではない。
自らが言い出したことだから――。
実はスイレンが姿を現す少し前、シシィが言った“あて”というのが、その雨ことだった。
シシィは一度、碧の瞳を閉じて息をひとつ吐く。
そして、閉じていたそれを開いた時、彼の頬を湿気た風が撫でた。
空へと視線を投じれば、遠くに灰色を帯びた雲をみつける。
厚そうなそれから風に乗り、湿気がここにまで届くまでになった。
『……』
シシィが手をもたげると、風に乗って来た湿気が彼の手に纏い付く。
そこから感ずる気の気配に、シシィは少しだけ不安を抱く。
『……僕に、母上の気をまとったこの子達を動かせるのかな』
これがシシィの言う“あて”。
理由はわからないが、母であるヴィヴィが呼び込んだ雨はらむ雲。
その雲を呼び寄せられれば。精霊王の気をまとった雨を降らせられれば――それは、浄化と同じ効果を得られるのではないか。
『やれるかなじゃなくて、やるしかいんだけどさ』
自嘲気味な苦笑をもらし、徐々に風によって近付く雨雲を見上げる。
地下牢にて紅魔結晶に囲まれ、咄嗟に母の気を借りて打破したことがあるも、あの僅かな量でさえ完全に掌握できなかった。
己よりも遥かに強い母の気に引っ張られたのに、今度はそれよりも大規模のそれを動かそうとしているのだ。
正直言って、自信はない。
なのに、別れる前にスイレンに言われたのだ。
――自分が言い出したことに、責任を持つことも時には必要だよ。
そう言われてしまえば、もうシシィは頑張るしかないではないか。
『ルゥも頑張ってる。だから、僕もここで頑張らなきゃ、カッコ悪いもん』
空を見上げながら、シシィはぐっと強く手を握り込んだ。
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