終、それは加速して
二人の周囲には、穏やかな空気が流れていた。
だが、その穏やかな空気を破ろうとするそれは、静かに彼らへと手を伸ばしていた。
最初に気付いたのはジルだった。
シオと唇を重ね、次第に遠慮がなくなっていく彼女に、どぎまぎしながらも拙く応え始めた時だった。
「――……」
周囲の空気の震え。それを敏感に察知したのは、ねずみの本能ゆえか。
まぶたを薄ら開き、紅の瞳が覗く。
視界に捉えたのは、先をこちらへ伸ばそうと構える結晶の先。
シオの背へ回していた手を上げ、宙に魔力を走らせる。
陣を描き始め、もう片方の手をシオの後頭部へ添えれば、異変に気付いた彼女が唇を離した。
身じろぐ彼女の頭を自分の方へ引き寄せ、腕の中で庇う。彼女が振り返った。
瞬間。展開した陣から炎が迸り、迫っていた結晶を呑み込む。
が、逆に炎が結晶に呑み込まれた。
「はぁ!?」
反射的に上がる素っ頓狂な声。
シオはジルの腕の中で、迫ろうとにじり寄る結晶と呆けた顔の彼を交互に見やった。
「……ねぇ、状況はよくわかんないけど、逃げよっか」
「…………そーだな」
魔法で牽制できれば格好いいかなと思ったジルだが、逃げに徹することにした。
魔水晶から脱したジルだけれども、魔水晶の方は諦める気はないようで。
「――じゃ、いくよ」
ひらりと優雅に跳躍した猫のシオを捕らえようと、結晶の先を伸ばしてくる。
それを彼女に咥えられたねずみのジルが、ぷらりと揺られながらも、宙空に陣を展開して炎で防ぐ。
「……まあ、足止めぐれぇならいけんな」
「あたしは逃げに集中するから、あんたはそうやって追っ払って」
「りょーかい――って、やっぱ捕食される一歩手前みたいな格好になんだな」
猫に咥えられたねずみ。
まるで捕らえられた獲物のような姿だ。
情けなさがジルの胸中に広がる。
「仕方ないじゃん。ジルがあたしを抱き上げようとしてくれたのは嬉しかったけど、ぷるぷるして逃げるどころじゃなかったわけだし」
とっ、とっ。軽やかな足運びで、シオは魔水晶の頂から結晶を跳び伝って降っていく。
「猫の姿であんたを咥えた方が早い」
「………へい、それは御尤もです」
前から後ろからと伸ばしてくる結晶先。
それを陣を展開させて炎でいなしながら、ジルは一気に情けなさで潰れそうだった。
彼女とそーいう仲になったのならば、やはりこう格好をつけたくなるもので。
「鍛えよ……」
と、ぽつりと呟いた。
◇ ◆ ◇
爆音騒ぎを隠れ蓑に、小さな影が地下牢へと辿り着く。
何事だと慌てふためく屋敷の衛兵や使用人の間を、認識阻害を上手く扱えないミントはすり抜けていた。
地下牢だったそこは、すっかりと様変わりをしてしまい、初めてここを訪れたミントに地下牢だったことは知る由もない。
彼女の前に広がるのは、空間を埋め尽くすばかりの紅の色。
それが危険なものだと本能的に察する。
だが、彼女が引くことはない。
だって、同時に本能が告げるのだ。
『大樹さんの種さん、ここがいいって言ってるの』
背に種を括る蔓紐を、きゅっ、と小さな手で握る。
自分はこの奥に進まなければならない。
けれども。
『どうやって進むの……?』
空間を埋め尽くす紅の色を目の前に、ミントは途方に暮れる。
そして、紅の色はさらにその手を広げようと、結晶を地から突き出し、先を伸ばして外を目指す。
ミントがはっとした頃には、既に彼女が忍び込んできた通路も塞がれ、退路は絶たれていた。
『……大変なの』
目の前に広がる紅を見てから、後ろを振り返る。
前に進むことも、後ろに戻ることも出来なくなった彼女は、しばしその場で呆けるも、すぐにぴんっと彼女の脳裏に光が弾けた。
『ミント、いいこと思いついちゃったのっ!』
くすくすと笑い、肩にかかった髪を後ろに払うような仕草をする。
どこかで見かけた人の真似である。
『やっぱりミント、デキルオンナなの』
幸いなのか。この場は室内なのに、どうしてか土で満ちた場所。
そして、ミントは土の精霊。
彼女は土に小さな両の手を付けると、ひとつ念じる。
マナが呼応し、土が彼女の意志に促されてじりじりと動けば、そこにはぽっかりと小さな穴。
進めないなら、戻れないなら――。
『――隠れちゃえばいいの』
◇ ◆ ◇
下を覗き見た老狼は、呆然と眼下のそれを見下ろしていた。
爆音が轟き、急いで転移した。
突き破られた天窓は若い精霊らが壊したものだが、そこから覗く紅の色に、まぶたを持ち上げて現した蒼の瞳を見開いた。
そこに色濃く残る残滓の波長。
これはあの、碧の瞳を持った白狼の子の――。
『……まさか、あの牢の結界を壊したとでもいうのかい……?』
牢の結界は途方に暮れそうな程に広範囲であり、結界にしてはかなりの大きさを誇るものだったはず。
あの精霊らの姿をぼんやりと思い浮かべ、牢の結界が張られていた場へと視線を映す。
抉れた地が埋め尽くす紅の色の隙間から垣間見え、なるほどと得心する。
結界そのものを壊したというわけではなく、陣の一部を壊すことにより、結界の機能を落としたというところか。
それでも、陣そのものにだって耐久性には自信があったのに、それを一部とはいえ壊すことが出来たことに、ただただ驚く。
『あたしはどうやら、精霊の坊や達を甘く見ていたようさねぇ。まさか、陣を壊すなんて。――けどもまぁ……』
困っちまうねぇ。老狼は乾いた笑みをもらした。
空間を埋め尽くす紅の色は、さらにその手を広げようと地揺れを繰り返しながら、範囲の拡大を模索しているようで。
魔水晶から伸びた結晶先は、枝葉の如くさらにその先を伸ばし続けている。
『魔力漏れするのも、時間の問題かねぇ……』
結界で封じていた魔水晶から漏れ出る魔力。
その封がなくなったのだから、地下牢室に収まり切れなくなった魔力は、やがて地表へと漏れ出るだろう。
そうなってしまえば、今の町中にある精霊灯だけでは、魔力を散らして行う浄化は厳しい。
老狼の白の体毛が震えた。
そこから迸った水の気が、突き破られた天窓へと降り落ち、大きな球状の水の膜を張った。
それは地下牢室を覆い囲む程の大きさで。
『こんな結界じゃあ一時凌ぎにしかならないだろうけども、でもまぁ、老いぼれにはこれが精一杯さね』
魔水晶は伸ばした結晶先を、水の膜を突き破ろうと鋭く伸ばすも、弾力を持った膜はぼよんとたわむだけだ。
しかし、これも時間の問題だということを老狼はわかっている。
目的は魔水晶の侵食を防ぐことではない。少しでも時間を稼ぐこと。
だから、老狼は直様次の行動へと移り、その場から彼女の姿が掻き消えた。
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