届くかの祈り


 彼女に呼ばれた気がした。




   *




 閉じられたまぶたが震えた。

 のろのろと持ち上がるまぶたから覗く、碧の瞳。

 それが暫しぼんやりしたかと思えば、やがて光が宿る。

 白狼、シシィが薄ら笑った。


『――やっぱり君だったんだね、ジャジィ。僕の、唯一』


 湧き出る泉の如く、もう尽きたと思っていた気力が湧き出る。

 既に身体の半分近くが結晶に沈んでいたが、牙に水の気をまとわせることでそれを噛み砕く。

 ふるりと身を震わせて結晶の欠片を振り払うと、眼下へ視線を向けた。

 地から突き出た結晶に囲われ姿は見えないが、その隙間からティアと目が合った。

 琥珀色の瞳が安堵に染まるのが見え、その瞳が潤んでいる。

 その瞳の潤みの原因が自分だとしたら、それは少しばかりぐっとクルなと邪な想いが顔を覗かせる。

 それを頭を振って振り払い、シシィは上を見上げた。

 地下牢の結界の天頂まであと少し。

 木々の枝葉のように突き出した結晶を足場に、再度駆け上がり始める。


『……結界の陣はやっぱり下か』


 頂から眼下を見下ろし、薄ら光を帯びる図形を視認した。

 頂から見下ろしても全貌が把握出来ない、その途方もないくらいの大きな陣。

 あの陣の一部でも破壊できれば、地下牢の結界は機能しなくなるはず。


『母上の気を借りれば、きっと』


 シシィが軽く口を開けば、そこへ水の気が集まり始める。

 やがて気は小さな水の球を創り出し、シシィはそれを使って迫る結晶の枝を払った。

 水球から走るそれは、さながら光線。

 結晶の枝が大人しくなった隙に、シシィはもう一度水の気を集める。

 遠くから風が運び来る水の気は、母の力に呼応して集まってきたそれ。

 それを利用すれば、シシィの力でもこの巨大な陣を壊せる。と、思う。

 少々ない自信は、湧き出る気力とそこに宿る祈りで補う。

 君の想いはちゃんと届いてるよ。

 胸中で呟きながら、彼の口腔には大きな水球が出来上がっていた。

 ジャスミンやミントと共にあまりの威力に逃げ出したあの夜よりも、遥かに大きな水球。

 周囲との温度が違うからか、シシィの周りでは小さく風が渦を巻く。

 否。碧の瞳が瞬く。

 違うことにシシィはすぐに気付いた。

 渦巻く風がまとう気の気配は、ティアだ。

 下方から風を送り、後押ししようとしてくれている。

 その想いに触れ、シシィの奥がじんとあたたかく疼いた。

 きゅっと目をつむり、意を決して開く。

 口元で留めていた水球が一気に凝縮された。

 密度の高まった水の気は今にも暴れだしそうで、凝縮された水球はぶれ、シシィ自身もあまりの濃密さに冷や汗がとまらない。

 これを保つにも限度がある。

 それを悟り、水球を下方に向けた――が。


『――あ、まずい』


 ぽろっと言葉が溢れた拍子に、ぽろっと、凝縮した水球も留めていた口元から溢れた。

 それは下へと落下をし、やがて膨張して弾ける。

 否――爆ぜた。爆音を轟かせて。

 追従するように、ティアの気をはらんだ風が周囲の空気を巻き上げる。

 あらゆるものを巻き込む爆風となって。


『うわぁ――』


 始めはシシィの声を呑み込み、やがて、彼の姿も巻き上がる砂塵に呑み込まれた。




 遠く。どこかしこでひびの音が走ったかと思えば、次いで澄んだ音が響き渡る。

 それは地下牢の結界が崩壊した音だった。




   *




 爆音が轟き、地を揺るがす。

 爆風が巻き上がる中、ティアは風の層による結界でなんとか持ち堪えていた。

 風の層を補助するばななが、より身に力を入れたのを気配で察する。

 ティアは風の層の維持に全力を傾けた。


 それからどのくらい経ったのか。

 一瞬だったような気もするし、ずっと長かったような気もする。

 地の揺れが大人しくなった頃、ばななが風の層内へと舞い降り顕現した。

 ティアの隣に立ち並び、気遣わしげに彼女の顔を覗き込む。


『てぃあ、かおいろ、わるい』


『……鳥に、顔色なんて……ない、わよ』


 平静を装うため、意識して努めて言葉を紡ぐ。

 先程よりも、しっかりと言葉は発せられているはずだ。


『でも、てぃあ、げんかい』


 しかし、そんなことはお見通しとばかりに、ばななの視線が圧となってティアに突き刺さる。

 確かにもう限界は近い。だが、今は弱音を吐いている場合ではない。

 ふるりと身を震わせ、自身を奮い立たせる。

 意識して立つ足に力を入れて、しかと立つ。


『今は疲れたとか、弱音を吐いてる場合じゃないわ。シシィを探さなきゃ』


 未だ砂塵が舞い、視界は不明瞭。

 状況を把握するためには、風から情報を得た方が早い。

 結晶に沈みかけた白狼の姿を思い出し、今度は違う意味で震え、一気に血の下がる感覚が襲った。

 大丈夫。そのあと彼は自力で突破し、陣を壊そうと行動を起こした。

 それを察したから、ティアも後押しのために風を送ったのだ。

 それがこんな爆風に繋がるとは思いもしなかったけれども。


『そうよ、シシィはきっと大丈夫』


 自身に言い聞かし、顔を上げた――ところで、ティアは固まった。

 ばななは既に気付いていたのか、動じる様子はない。


『うまってる、けっしょうで』


 抑揚のないいつも通りの彼の声が、淡々と事実だけを告げた。


『く、崩れてる……』


 風の層を囲っていた結晶の檻が爆風の影響で崩れたらしく、その崩れた結晶は風の層の上へと覆いかぶさっていた。

 つまりは風の層ごと埋まった状態。

 ティアらが飛び立つために風の層の結界を解けば、崩れた結晶の雪崩に巻き込まれるだろう。

 風の層を押し広げ、崩れた結晶を吹き飛ばす方法もあるが、そのための体力も気力も、既にティアには残されていない。

 こうして風の層を維持しているだけでも、実は手一杯の状態なのだ。

 限界――先程のばななの声を思い出す。


『……いつまで保つかな』


 途方に暮れた声がこぼれた。




   *




 けほけほと咳き込む声がし、どさっと地に飛び降りる音がした。

 収まり始めた砂塵だが、シシィは吸い込まないようにと腕を上げ、服で口を覆う。


『人に転じられてよかった……』


 ジャスミンの姿を脳裏に浮かべ、口元を緩める。

 唯一の祈りは、やはり――。

 ぽつと胸にあたたかさを灯し、シシィは歩き始めた。



 爆音が轟いて地が揺れた時、足場にしていた結晶が崩れた。

 本能的な危機感にひやりとしたが、すぐに人の姿へと転じられ、近くに伸びていた木々の枝に掴まった。

 それからは揺れが大人しくなるまで待ち、枝を伝って地へと飛び降りたのだ。




『まずはちあを探さないと』


 視界は砂塵で不明瞭。人の姿ではたいして鼻も利かない。

 気配を探ろうにも、崩れた結晶で雑多な気配が霧散して感知しずらい。

 彼女へ呼びかけようものなら、息を吸い込んだところで、砂塵を吸って咳き込むだけだろう。

 なんだこれ、詰んだ。

 砂塵の影響で潤む碧の瞳が、あまりな状況に半目になって据わった。

 どうしようかと静かに思考し、辿り着いた答えが。


『ちあのとこに転移すれば――』


 だった。

 転移術は苦手で下手だが、彼女を印にした転移に失敗したことはない。

 爛と碧の瞳が輝いた瞬間には、その場に彼の姿はなかった。




   *




 うずくまる彼女に、ばななはただ傍に居ることしか出来なかった。

 少しでも風の層の結界維持の助けになればと、姿形の一部を風に溶かして風の層に絡ませる。

 透き通る姿形はティアの傍に置き、結界の維持に全力を傾けていた。

 しかし、その結界もだんだんと解れ始めている。

 ばなな自身に結界を張る力はない。

 透き通る姿形がふるりと震えた。彼を揺さぶる感情は悔しさか。

 ティアの補助をフウガより役目として与えられているのに、肝心な時に何も出来ない。


『てぃあ、しっかり』


 普段は抑揚のない声が、感情で揺らぐ。

 こんな声かけでしか出来ない。

 平然を装っていたティアも既に装う気力はないらしく、先程まで返ってきていた応えの声はない。

 焦りにも似た感情がばななの中で滲み始めた瞬だった。

 ふつり、風の層が消えた――ティアの張っていた結界が途切れた瞬間だった。

 補助していたばななの風も媒介をなくし、透き通っていた姿形は実体を持つ。

 そして、支えとなっていた結界を失うということは、つまり、崩れ降り積もった結晶が雪崩れ込むということで。



――――――

次回更新は日曜日となります。

いつもの投稿時間帯に、同時投稿している他サイト様のメンテナンスが入るため、そちらと投稿タイミングを合わせたいのが理由となります。

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