閑話 精霊のはじまりは祈り


 騎士隊の駐屯所、精霊の森支部と呼ばれるところに、ジャスミンは世話になっている。

 騒動が収まるまでは、ということだが、それがいつになるのかは誰にもわからない。

 とりあえず、海街に居る家族とは手紙のやり取りで無事は知らせられたし、こちらのことは心配するなという父からの手紙も受け取った。

 駐屯所のあるこの街も、幼い頃まで暮らしていた街だ。

 意図せずしての滞在にはなったが、懐かしい思いも相成って嬉しく感じている。

 だが。


「……どうしよう。やれることもなくなっちゃった」


 ジャスミンは窓枠にもたれ、嘆息をひとつ落とした。

 滞在する間は自由に使って良いと、駐屯所の客舎の一室を与えられ、寝起きはそこでしている。


「部屋の掃除は終わったでしょ。だから客舎まで範囲を広げたのに、使用人の方にやんわり断られちゃったし」


 お世話になっているのだ。

 保護という名目があるにしろ、タダ飯食らいをしているみたいで、それはジャスミンの矜持が許さなかった。

 だから、まずは使わせてもらっている部屋の掃除から始めようかと思い立った。

 そして、ならばいっその事、客舎も掃除をしてしまおうと手を付け始めた頃、客舎担当の使用人に慌てて止められてしまったのだ。

 曰く。客人にさせてしまったとなっては自分達が上に叱られる。

 曰く。ジャスミンが丁寧に掃除をするものだから、自分達の仕事がなくなってしまう。と。

 そう言われてしまえば、客人に過ぎないジャスミンは、渋々ながら従うしかないではないか。

 そして、本日何度目かの嘆息が落ちた。


「時間があるからって、丁寧にやったのが仇になったのかも。……このところ数日は掃除ばかりしてたから、急にゆっくりしてくださいって言われてもさぁ」


 勝手の出来ない環境。

 それで、ゆるりとお過ごし下さいと言われても困ってしまう。

 ジャスミンは元来、外で遊び回るような活発な方だ。

 部屋で大人しくは、本音を言ってしまえば退屈だ。

 菓子に本まで用意をしてくれたが、座って読み耽る気分にはならない。

 本は嫌いではないが、今はどうしても気分がのらない。


「……私、他に気の紛らわし方は知らないよ」


 うつむけば、耳にかけていた栗色の髪がこぼれる。

 だって、身体を動かしていないと落ち着かないから。


「……どうしてか、落ち着かない」


 胸の前で手を結ぶ。

 掃除に精を出していたのは、気を紛らわす意味合いもあった。

 その間だけは無心になれるから。


「――しーちゃん、今はどこにいるの?」


 ジャスミンの中で、白狼の姿が弾けて消えた。

 一緒に行けなくなった。ごめんね。

 それだけを告げて、何処かへいってしまった彼が、気になって気になって仕方がない。

 そして、焦がれるような焦燥だけが、ジャスミンの中で燻り続けている。




   *




「ごめんね、パリス様。森に出かけるくらいいいと思ったの」


「気にしなくていいよ。オレも書類仕事には飽きてきたところだったし」


 顔の前で手を合わせて謝るジャスミンに、パリスは苦笑を浮かべる。

 程よく湿気た空気に土の匂いが舞う森の中を、木漏れ日の下、彼らは散歩と評してのんびりと歩いていた。


「それに、謝るべきはオレらの方だからさ。ジャスミンちゃんは騎士隊預かりだから、体裁のためにも万一のためにも、外に出るなら護衛は必要。窮屈な思いをさせてるのはわかってるけど」


「パリスよ。そこは万一のためだけにしておけ。体裁のためにと馬鹿正直に話さんでもよい」


 小言をもらすのは、パリスの後ろに控えていた初老に差し掛かる風体の男。

 紅淡色の髪を陽に透かし、人の姿に転じているヒョオが目を眇めた。


「そこはオレとジャスミンちゃんの仲だし、隠すほどのことでもない」


 振り返ったパリスは、面倒そうに肩をすくめてヒョオを見やる。


「少しはやわらかく生きていこうよ、爺さん」


 両者の視線が交わった瞬間、ばちと何かが弾け、物言わぬ争いが始まった気がした。

 ジャスミンはくすりと苦笑をもらすと、互いに睨んだままの彼らは放って、一人近くの大木下へと歩み寄る。

 それでも、彼らの感知範囲内からは出ていない。

 大木を見上げると、大木はジャスミンを迎えるように、さわざわと身を揺すった。

 はらと葉が落ち、ジャスミンがその動きを目で追うと、自然と視線は地へと落ちて。

 地に落ちた葉は程よく腐り、土はふかふかとやわらかそうで、ジャスミンの口元が緩めば、それはもう我慢の出来ない合図だった。

 靴を脱ぎ、素足になる。

 やはりスカートでなく、パンツ姿でよかった。

 直で触れる土の感触に、次第にジャスミンの心は安らぎを得始める。

 ここなら、制限は自身に負わせなくていい。

 頭部には獣の耳が飛び出て、次いでふぁっさと尾も出るなり、ジャスミンは跳躍した。

 太い幹に腰掛け、森を吹き抜ける風に目を閉じる。

 葉擦れの音に、地を転がる落ち葉の音。

 ジャスミンの中で何かが満たされる心地に、彼女は知らず安堵の表情を浮かべる。

 気持ちは落ち着いている。

 しかし、落ち着けばその分だけ、焦燥はより一層際立つばかり。

 ざわつく心に、思わず胸を抑えた。


「……しーちゃん」


 脳裏に過ぎる白狼の姿に、きゅっと目を閉じた。


「――それは、シシィ殿のことだろうか?」


 突然の声だが、ジャスミンは驚くことなく隣を見やる。

 蛇の姿へと転じたヒョオが、枝にとぐろを巻き、ジャスミンの方へ顔を向けていた。

 パリスは大木の幹に寄りかかって休息をとっているようだ。

 けれども、彼の耳がこちらに傾けられているのは、ジャスミンにもわかった。


「……どうして、そうだと」


 わかったのか。声にならぬ彼女の問いに、ヒョオは鎌首をもたげ、ちろと舌を出す。


「お主のシシィ殿を呼ぶ声は、真名を知っている韻をはらんでおった。なれば、自ずと答は導かれるものよ」


「わかる、ものなんですね」


「精霊でないとわからぬ微弱なものだ。――お主とシシィ殿が、結びを得ておらぬこともな」


 びくり、と。ジャスミンの肩が跳ねた。

 おそるおそるヒョオを見やる彼女の瞳に滲むのは、怯えの色。

 内心まで見透かされた心地に、どくんと鼓動が嫌に跳ねる。


「怯えずともよい、ジャスミン殿。我は別段、責めておるわけではない」


 ふるふると頭を振るヒョオに、ジャスミンは少しばかり目を丸くする。


「シシィ殿も小僧ゆえ、その点は容赦して欲しいと我は思うぞよ」


 蛇ゆえに表情の乏しいヒョオ。

 しかし、ジャスミンには彼が柔く微笑んだように見えた。

 どこまで見透かされているのか。

 どこか諦めの境地で、ジャスミンは息をひとつ落とした。


「シシィ殿は嬉しかったのだな。お主と廻ることが出来て」


「嬉し、かった……?」


 小首を傾げるジャスミンに、ヒョオは、うむ、とひとつ頷いて、下方のパリスを見やる。


「お主は、シシィ殿の唯一ゆえな」


「……唯一とは、なんですか?」


「我にとってのパリスだ」


 ぱちりとジャスミンの金の瞳が瞬く。

 彼女は一瞬パリスへ視線を投じて、ヒョオを見やる。


「でも私、しーちゃんとは結んでいません」


「だが、お主はシシィ殿の唯一ぞ」


 よりこんがらがり、ジャスミンの眉間にしわがよる。


「なにも、結びだけが唯一の決め手にはならぬ。精霊は時として、気に入っただけの魂と結ぶこともある気分屋ゆえな」


「ヒョオ様がパリス様と結んだのは、そうではない理由ということですか?」


「うむ、我は気分屋な精霊ではないゆえ。我が結ぶのは唯一だけと決めておる」


「…………だから、その唯一の意味を私は知りたいんだけど」


 そっぽを向いてぼやくジャスミンに、ヒョオは乏しい蛇の表情下で苦笑した。

 そして、木漏れ日を透かす空を見上げて、滔々と語りかける。


「ジャスミン殿は、はじまりの精霊の話を耳にしたことはあるかえ?」


「それは、精霊のはじまりは祈りからという話のことですか?」


「うむ、大まかな話筋はそうだ。精霊の起源は人の祈りであり、人前に初めて姿を現した精霊を、“はじまりの精霊”という――」


 精霊すらも気が遠くなるほど昔の時代。

 その土地はマナで満ちてしまい、生き物が住める土地ではなかった。

 マナ溜まりの地では生き物は生きていけない。

 苦しみ堪えながら、その土地に住まう人々は祈った。

 少しでも皆に笑顔が増えますように、と。

 そして、かの存在へその切なる祈りが届いた時、土地に宿る精らが応えた。

 精らは、ずっとその地で暮らす人々を見てきた。

 苦しんでいるのも、ずっと近くで見てきたのだ。

 精らも何かをしたかった。

 人々のために何かをしてあげたかった。

 だから、精らも願った。かの存在へと願った。

 その切なる願いに、かの存在も頷いた。

 ならば、お前たちにも役目を課そう、と。

 かの存在が精らの願いに応え、彼らへ祈りをまとわせた。

 精らは、かの存在から身体を賜ったのだ。

 それが精霊の起源であり、そうして人前に姿を現した彼らを、人々はのちに“はじまりの精霊”と呼んだ。


「――これが、精霊のはじまりは祈りから、と言われている所以だ」


「……それが、どう唯一に繋がるのですか?」


 はじまりの精霊の話はわかった。

 精霊の起源が祈りというのも、なんとなくわかった。

 だが、それがどう唯一に繋がるのか。

 ジャスミンの中では、さらに疑問が深まっただけだった。


「そう急くでない。精霊の起源は、精の集まりが人の祈りを帯びたことゆえ。我は――」


 そこでヒョオは一度言葉を切った。

 含みをもった響きを残しながら、彼はパリスへ視線を落とす。


「我から数え、ずっと前のこの魂の器だった精霊は、とある魂の祈りをまとって精霊となった」


 ヒョオの視線を追い、パリスを見ていたジャスミンの金の瞳が小さく見張られる。


「それって、つまり……ヒョオ様は……その、パリス様の祈りで、身体を賜ったってこと……?」


 その解釈であっているのか。

 眉間のしわを深め、首を傾げたジャスミンはヒョオを見やった。

 見やってから、金の瞳が瞬いた。


「……魂の器は我でもなく、祈りをくれた魂の器もパリスではないがな」


 パリスを見るヒョオの瞳があまりにも優しく、ジャスミンはまたパリスへ視線を落とした。

 さわさわと、大木が優しく葉擦れの音をささやく。

 その音が耳に心地よく、彼女の尾がふぁっさと揺れた。


「――それが、精霊のいう“唯一”ゆえ」


 さあ、と風が森を走り抜けた。

 ヒョオはジャスミンを見やり、ジャスミンはヒョオを見やる。


「…………じゃあ、私がしーちゃんの唯一っていうことは――」


「シシィ殿の魂は、ジャスミン殿のかつての祈りにより、精霊としてはじまったということ――だから、ジャスミン殿はシシィ殿の“唯一”」


 とくん、と。ヒョオの言葉がジャスミンに沁みた。

 金の瞳が厚みを持ったのは、涙の膜が張ったからか。

 その事実が、彼女にとってはすごく嬉しかった。


「……私達、前からじゃなくて……ずっと、ずっと繋がってたんだ」


 ジャスミンが身体を折り曲げて、手で顔を覆う。


「ゆえ、もしシシィ殿に対し不安を感ずるならば、シシィ殿を想えばよい。さすれば、それは祈りとなりてシシィ殿に届くであろう」


「結んでもないのに……?」


 くぐもった声が返せば。


「精霊のはじまりは祈りであり、お主はシシィ殿の唯一。繋がっておるゆえ」


 穏やかなヒョオの声が答えた。

 ふいに視線を感じ、ジャスミンは顔を上げる。

 パリスが同意を示すように、やわらかに目を細めてひとつ頷いた。

 潤む金の瞳。


「――しーちゃん」


 真名を未だ呼べない臆病者だが、それでも、想う心は今も変わらず――ここに在る。

 それは、ひとつの事実。

 優しく森がさわめき、木漏れ日が穏やかに揺れた。

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