それは負の集まり


 天窓から入り込んだ風は結界をすり抜けると、眠る精霊らの周りで渦を巻く。

 白狼の片耳がぴくりと動いた。


『……はは、う、え……?』


 母の気配をはらんだ水の気を感じ、白狼――シシィは薄ら目を開けた。

 のっそりを顔を上げ、天へと鼻先を向けてひくつかせる。

 風がそんな彼へ雨の気配を運んだ。

 ぼんやりとした意識が、徐々に輪郭をまとっていく。

 ぱちくりと碧の瞳が瞬いた。


『雨が、近い……なんで?』


 首を傾げる。

 理由はわからないが、雨を連れてきたのは母だ。母の力に呼応して、水の気が鳴く――雨が降る。

 まだ降り出してはいないが、間もなくだろう。

 ふるりと頭をひとつ振る。

 気怠さは少し残っているが、眠る前と比べれば、幾分かはすっきりとしている。

 抱えたティアを見やる。

 彼女は未だ眠ったまま。目覚めるのはいつだろうか。

 心配げに見下ろし、自らの頬を彼女の羽毛へと擦り寄せる。

 刹那。天窓から結界をすり抜け、風がひとつ舞い込んだ。

 シシィらの上を旋回したのち、顕現する。


『ばなな』


 シシィが顔を上げると、真白の小鳥が彼の頭へと留まった。


『……ねぇ、もしかして――』


『おじさんが来たのね?』


 重なった声。

 むくりと身を起こしたティアは、シシィの頭に留まったばななを見上げる。


『――来たのね?』


 ティアがもう一度問えば、ばななは静かに首肯した。


『ふうが、きた。でも、まだ』


『……そう。まだ動くなってことなのね』


 そう言うと、ティアは起こした身体を沈め、またうずくまる。

 心配げな表情を浮かべたままだったシシィが、彼女を覗き込んだ。


『ちあ、大丈夫?』


『大丈夫よ、大丈夫。まだ本調子じゃないってだけ』


『まだ寝てる?』


『そうしたいところだけど――』


 瞬間。ティアとシシィは同時に飛び退いた。

 彼女らが先程まで居たところに、紅色の結晶が地から突き出す。

 宙空へと逃げたティアはそれを見下ろし、息をひとつ落とした。


『……寝てる暇はなさそうだし』


『それは、まあ、そうなんだけどさ』


 それでも、と。

 シシィは近場の幹に着地して地に下りると、羽ばたいたままの彼女を見上げる。


『それでも、僕はちあが心配だよ』


 結晶が突き出て、シシィが飛び退く。


『私は大丈夫よ』


 後方から迫るそれを、ティアは空を翼で打って上へと逃げる。


『ちあのそれはあてにならないからなあ』


 地に着地したシシィはため息を落とし、じとんと半目でティアを見やった。

 地から突き出る結晶を避けながらの場違いで呑気な会話は続く。


『ちあに直に触れられれば、大丈夫かどうか判ずることが出来るのにさ。僕もまだ、人の姿は保っていられないから』


 シシィの言葉にティアの羽ばたきの動作が狂う。

 そこを狙ってか結晶が横から迫り、ティアは近くの風で自身を押し上げることで、辛うじてかわした。


『……っ、ふ、触れるってそれは、く、くくち……ってこと……?』


 さらに新たに突き出た結晶を避ける。

 が、ティアの声は裏返って羽ばたく動作はもたつき、慌てふためいては、突き出した結晶にぶつかりそうになる。

 その様を呆れたように眺めていたシシィがひらりと跳ぶ。


『でなきゃ、僕は君の言ってることは信用できないから』


 そして、シシィがティアと結晶との間に身を滑り込ませることにより、彼女はぶつかるのを免れた。

 綺麗に地へと着地を決めたシシィが振り返り、からかうような笑みを彼女へ向ける。


『ほら、ぶつかりそうになった』


『そ、それはっ! シシィがあんなこと言うからでっ!!』


 ティアは声を荒らげながらも、予期を感じて大きく翼を打つ。

 急上昇したところで、半瞬遅れて先程いた場所に結晶が伸びる。

 そして、その突き出た結晶の先から、まるで枝分かれするようにさらに結晶はその先を伸ばす。


『これ、何なのよっ』


『理由はわかんないけど――』


 跳躍ひとつで先を伸ばす結晶を避けたシシィが、それを遠くに眺めやった。


『あの紅魔水晶だと思うよ』


 ティアも羽ばたきながら彼の視線を追う。

 そこに鎮座したままの紅魔水晶。その気配が揺らいでいる気がして、彼女は僅かに眉を寄せた。

 刹那。視界の外からそれは迫る。


『――っ!』


 突き出た結晶が先を伸ばし、ティアを捕えた。

 瞬間、怖気が彼女を襲う。

 肌が粟立つ感覚に、毛穴から得体の知れない仄暗いものが侵入する感覚。

 一気に流れ込む仄暗いそれは、誰の感情か。

 怖い。苦しい。助けて――寂しい。誰も傍にいない。

 ひとりは怖い。ひとりは寂しい――怖いは寂しい。

 雪崩れ込む負のそれに身体は震え、ティアは堪らず喘いだ。

 かはっ、と息はもれ、迫り上がる何かは吐き気に似ていて。


『ちあっ――!!』


 異変に気付いたシシィが叫ぶ。

 だが、その声すらティアには遠い。


『……な、んなの、よ……も、う……』


 彼女の小さな呻く声が、くちばしからもれた。




   ◇   ◆   ◇




「……そうか。王都から視察にみえられたか」


 執務机に座るロンドは、深く重い息を落とした。

 報告に上がった従僕は神妙な面持ちで繰り返す。


「そのため、領都の関所にて滞在の許可をお求めで、どうすべきかと関所より問い合わせが届いております」


「……断れは」


「しないでしょう。王家からの書状もお持ちです」


「家紋は――」


「王家のものと確認済みです」


 そうか、とロンドは低く呟いた。

 王都よりこちらへ隊が向かっているという報告は予め受けてはいた。

 なるほど。表向きは視察か。

 だが、王家より家紋入りの書状があるということは、もう既に揃えるべき証拠などはあるということだろう。

 腹を、括るか。

 それにこれは、考えようによっては好機とも捉えられる。

 望みはいつだってひとつなのだから。

 そのための手は既に打ってある。


「――通せ、と連絡しろ。私が迎える」


「承知致しました。準備をさせます」


 丁寧に礼をし、従僕が下がっていった。

 迎える準備をすべく、ロンドも立ち上がった。




   ◇   ◆   ◇




『……な、んなの、よ……も、う……』


 心に誰だかわからない感情が雪崩れ込む。

 それがとても気持ち悪い。

 悲鳴のようなシシィの叫びもどこか遠く、ティアは必死に己を保とうと足掻いていた。

 己を侵食していく得体の知れぬ誰かの感情に振り回されるなど――冗談ではない。

 苦しげに歪む琥珀色の瞳に、怒の色が宿ったのはその刹那だった。


『――なんなのよ、もうっ!!』


 ティアからマナが散り、彼女の怒の色に反応してきらめく。

 そして、マナに呼応した周囲の気が震え、風が引き寄せらるように彼女のくちばしを覆った。

 風が渦を描きながら小さく唸り始めると、それをまとったくちばしで、彼女は怒りに任せて結晶へと突き立てた。

 ぴきっと結晶に亀裂が走るなり、彼女は飛び立とうと、ぐっと翼に力を込める。


『私は、私よっ――!』


 その衝撃に耐え切れなかった結晶は砕け、ティアはそこから飛び立つ。

 残った結晶の欠片も、宙空で身を捻って振り払う。

 その様に呆気にとられたシシィは、思わず呆然とした面持ちで立ち尽くすも、すぐに我に返って彼女のもとへ駆け寄った。


『ちあ、大丈夫!?』


『あんなのに捕まるなんてごめんだわ』


 ふんっと息を巻きながら、ティアはシシィの頭へと降り立つ。

 憤慨しているのか、苛立っているのか。とにかくその様子にほっとしつつ、シシィは砕けた結晶へ目を向ける。


『マナにオドの打撃が効くように、その逆も効くんだね』


『――逃げるのはここまでよ。砕き散らかしてやろうじゃない』


 ティアの顔に仄暗い影が差す。

 彼女はどうやらご立腹のご様子で。


『ちあ……』


 シシィがなんとも言えない微妙な表情で頭上のティアを見やる。


『なにも腹いせで言ってるわけじゃないわ。……あの紅魔水晶は、一緒に居てくれる存在を欲している』


『どうしてそう思うの?』


『声がしたの、寂しいって。だから拒否よ。一緒には居られないってね。――あれは負が寄り集まって可視化したもの。一緒に居たら、もう戻れないわ』


 自分を保てなくなる。

 ティアが翼をひとつ打った。

 瞬間。そこから風が鋭く駆け、伸び迫っていた結晶を砕く。


『……確かに、それも一理あるのかも』


 シシィもまた彼女の言に同意を示しながら、爪に水の気をまとわせて鋭く振り下ろし、迫る結晶を裂き砕いた。

 そして、視線を走らせる。

 そこには危機感なく漂う光の粒――下位精霊の姿が幾つ。

 彼らは逃げ惑うことなく、そこを漂うだけ。眼前には伸び迫る結晶。

 反射的に駆け出そうと足を踏み出すも、すぐにかぶりを振った。駆けたところで間に合わない。

 そのうえ、枝葉のように先を伸ばす結晶は捌き切れはしない。

 精霊が結晶に取り込まれる寸前、シシィはがばっと目を逸した。

 ティアの言う通りに拒否をしなければ、次にああなるのは自分らだ。

 そこでふと、シシィは辺りを見回した。


『あれ……?』


 探し求める姿がなく、次第に焦燥が滲み、気が急き始める。


『ジル――?』


 焦りに滲む声は彼には届かず、新たな結晶が地から突き出るばかり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る